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私は何者として生きる?〜発達障害と大人になってから診断されたMくんの思い出とともに〜

彼はもういない

私は高校時代に女子より男子が多い部活にいる傾向あった(実は3つ兼部)。
生物部に同時期に入ったMくんは、年中半そでのちょっと個性的な人。2年次に同じクラスになり、その周囲の男子たちと休み時間によく話していた私はクラスで逆ハーレムと
言われたりもした。

今考えると、お互いアスペ気味で共通の生物部で、気のおけない仲間という感じだろうか。
その頃は発達障害なんて言葉はなかった。自閉症という言葉も誤解されていた時代だった。
なんで私は女子との関係より男子との関係が楽なのか、それもいわゆる体育会系男子のうるささは苦手なのに、なぜマニアックな生物部や漫研男子とつるむのは楽しかったのか、理由がわからなかった。ただ私は変わった人で、変わった人と過ごすのが好きということを発見した高校時代だった。

時は経ち、卒業後は本州をでて進学したため、彼らと連絡することもなく、その後のことも知らないままだった。

同じく生物部だったSちゃんとSNS上で再会し
連絡を取り合うようになってから、ツイッターでMくんらしき人を見つけたと教えてもらった。
彼はプロフィールに発達障害であることを記しており、既に末期のがんであった。
高校時代のちょっと変わった行動の数々が発達障害ということで腑に落ちた。
コメントのやり取りする間もないまま彼は早すぎる人生を閉じた。私は遠く離れた地に住んでいて葬式にも行けなかった。生きているうちに会っていろいろ話したかった。

私はその時既に発達障害の息子を育てていた。その後鬱を患い、いままでの生活から自分自身の発達障害を疑い検査をいくつか受けた。しかし、医者は片付けられない私はADHDではなく、どちらかといえばアスペ寄りだが診断できるほどではないとのことだった。
が、子どもをみれば明らかなように、私にも夫にもADHDやASDの特性がある。
しかし私達家族は知能検査上標準以上のため、障害者手帳は身体、療育ともに出ることはない。
社会生活に明らかな問題が生じてない限り、精神保健福祉手帳の取得も難しい。

よって、健常者としての人生を歩まなければならない。

でも
ぶっちゃけ普通の学校生活とか、普通の正社員、正職員として過ごすのはキツイことがある。私に関しては家事育児も実はキツイ。それは心理検査を受けた時にも書かれていたことである。

では合理的配慮や、福祉サービスを受けられるかと言うとそのハードルは高い。
手帳がなくても就労継続支援施設等は使える可能性があるが、収入が極端に下がってしまい、凸凹キッズでただでさえお金のかかる子どもたちを養うことは難しい。

私は何者として生きていくのか。人生も折り返しに入った地点で深く考える私である。



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