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"実践"を生きたかったから


春を待つ

研修先では、出荷作業のある日の出勤時間は朝の6時半(ちなみに夏場は1時間早い)。家を出るのは6時前で「夜は本当に明けるのだろうか」と心配になるくらいの漆黒。研修先に到着する頃もまだ暗くて、気分もなんだか落ち込みます。
ですが先日、通勤途中に朝焼けが。その時感じた希望と言ったら。
ああ、知らぬまに、春はすぐそこまで来てるのだ…!と嬉しく思いました。

二十四節気でいう今の季節は「大寒」。
一年で最も寒い時期です。
一番厳しい季節、全てが凍てついて生命が香りを失う時期。
ですが、この時期を超えると次は立春(2月4日から)なんですよね。はる。春!
まあ、まだまだ全然寒いんですけどね。

日本の冬の季節を表す言葉に「待春(たいしゅん)」という言葉があります。
意味は、寒い冬に春を待ち焦がれること。
そのほかにも「春近し」「光の春(まだ風は冷たくとも、降り注ぐ陽光の彩度やぬくもりに春の気配を確かに感じること」など"春”を使う言葉が多いのです。
(*出典: 古性のち 「雨夜の星を探して 美しい日本の四季とことばの辞典」 玄光社)
だからきっと、寒ければ寒いほど、なぜか春の気配を感じるのはきっと私だけじゃないはず。
寒さの中でふと見かける枝の先についた芽だったり、冬晴れの日にこわばっていた身体が緩む感じだったり。

さあ、今回は「なぜ私が農家になったのか」を書き起こしてみようと思います。

国際協力に興味があった学生時代

海外に行って異文化に触れることが好きで(特に食べ物と言語)、ボランティアサークルを通じて、スリランカやネパールに行っていました。

2015 年ネパールにて


なぜ国際協力に関心があったのか、明確なきっかけがあったかどうかは正直思い出せません。
おそらく人の役に立ったりサポートすることが好きで、そして海外へ行くことも好きな私の性格上、好きなことが組み合わさっているからその道に進みたい、くらいの気持ちだったと思います。
将来のキャリアを真剣に考えていたかは微妙だったのですが、行動力と体力だけは人一倍持ち合わせていました。笑
というわけで、国際協力に必要なのは英語力だ!でも、大学の交換留学は期間が短いし自由に学べないと思った私は、ワーキングホリデービザを使ってニュージーランドへ。大学2年生が終わる、春休みのことでした。
この経験が、農家へ舵を切る大きなきっかけとなりました。

ニュージーランドで農業に触れる

ニュージーランドでは、語学学校で英語を学んだのち、観光地にあるビュッフェスタイルの大きなレストランで働きました。
多国籍な同僚たちと働くことができて、これまた多国籍なお客さんに接客することができて。異言語異文化大好きな私にとって、すごく刺激的でした。
ただ、お客さんが食べきれないほど取った料理が大量に残されるため、端的に言えば私は食べ物をごみ箱へ捨てる仕事をしていました。
食べ物がこんなふうに扱われていいはずがない。と思い仕事を辞めました。今度は生産する側のことが知りたい、とworkawayというプラットフォームを使って色々な農家の元へワークエクスチェンジ(労働の対価に、食事・住居を与えてもらえる)をしに行きました。
有機農家のもとで、見たこともない綺麗な野菜を収穫したり、同じようにワークエクスチェンジにきた同僚たちと一緒にご飯を作って食べたり。
野菜の美しさに驚き、食べることだけでなく「料理・野菜を作ること」の楽しさを体感しました。
(そのほかにも、平飼い卵を育てる農家の手伝い、ワイン用ブドウを摘み取る季節労働、パーマカルチャーガーデンを作りたい夫婦のもとでお手伝い、エコビレッジでカンガルーが庭に現れる暮らしなどなど。本当にたくさんの人に出会い、面白い経験をしました。)

earth jemと呼ばれるイモ
スイスチャード
種や苗、野菜の交換会

帰国、研究と畑の間で揺れ動く日々

帰国後の私の生活は、「研究と、家庭菜園」この二つが主だったように思います。ニュージーランドに行く前に、大学3年生から入る研究室を決めていたので、帰国後はその研究室で卒業論文を書くことが主な学生生活の取り組みでした。
研究室の先生がラオスで焼畑に関する研究活動を行っていたので、現地へ連れて行ってもらい、卒業論文もそれをテーマに書くことを決めました。
焼畑(農業)、異文化、そして国際協力の要素も含んだテーマで、私の関心とぴったり合致していました。
それと同時に、ニュージーランドの農家巡りの経験から、私も畑やりたい!という気持ちが湧いてきて、ご縁で繋がった友人6-7人で共同家庭菜園をしていました。

家庭菜園はとっても楽しかったのですが、どうしても学業を優先しがち。
しかも、研究活動が想像以上に忙しい&楽しく、将来は研究者になるかも、とすら思っていました。
研究の内容を端的に書くと
「焼畑移動耕作を行うラオスの山岳民族の人たちが、環境に負荷をかけることなく、そして貧困から脱却するためにはどのような対策を行うべきか」というものでした。
焼畑とは森林の一部を伐採して燃やすことで、灰を養分として陸稲を育てる農法のことです。米を作った後はその土地を休ませ(休閑)、また森が育ってきたら焼畑として使う、本来であれば循環する"持続可能な”農法でした。しかし人口増加やその他の社会的な影響によって焼畑面積が増え、休閑期間が短縮することによって森林減少などのさまざまな問題が起きていたのです。

現地に1ヶ月ほど滞在して、村で生活する中で村の人からたくさんのことを教わりました。焼畑の周りには、芋や豆などを植えること。森の中でとれるキノコの話、薬になる草木、食べ物を長持ちさせる方法…。
私は研究目的で来ているので、村の人たちに彼らの生活に関してさまざまなインタビューをします。農地をどれくらい持っているのか、とか収入はどれくらいあるのか、とか。(今思えばめちゃ失礼)
そして自分の書いた論文は貧困脱却と環境負荷の軽減を両立するためには、何か焼畑の代わりになるお金の稼ぎ方が必要だよね、と提案するものでした。

でもなんだかモヤモヤしていたんです。
私はインタビューをすることしか能力がないのに、村の人は火のコントロールをして焼畑で米を作り、森の植物のことをたくさん知っていて、食料を採って逞しく生きている。偉そうに、貧困の解決なんて言ってるけど、私にできることなんでこれっぽっちもないと。

ティラピア(魚)を養殖する池
草取りの真っ最中、快く写真を撮らせてくれた
村の様子
雨季にとれるキノコ

そして起きたパンデミック

そんなモヤモヤした気持ちを抱えながら、私は大学院に進学しました。それが2020年のこと。
大学院に進学したのは、研究者になりたいと思う気持ち半分、「社会人」という大きな環境変化が単に恐ろしかった、というのもありました。
このまま企業に勤めることがはたして私のやりたいことなのだろうか?とこの頃は、ずーっといろんなことでモヤモヤ・ぐずぐずしていました。

そして起きたコロナの感染拡大。
研究対象地がラオスだったため、私のやりたかった研究も計画変更をせざるを得なくなりました。行きたいのに行けない。どうしようもない。
すると目は自然と今まで気に留めなかった国内に向かうように。
忙しい学生生活の中でも細々と続けていた家庭菜園。その活動の中心人物だった人が私に大きな転機を与えてくれました。
彼は、ある農家のもとで堆肥づくりを学んだ人でした。私たちの家庭菜園でも、その人の教えのもとで堆肥を作り、それを使って野菜を育てていました。
はじめて堆肥を作った時、材料と水を混ぜて1-2日置くと発酵熱でほかほかと湯気が出て、甘い香りがすることに本当に驚きました。しかも月日が経つごとに香りはお味噌のように変化していって、堆肥の色も変わっていく。
堆肥を切り返す作業はなかなかに体力が入りますが、動くことが大好きな私はその作業も大好きになり、すっかり堆肥LOVEな人間になっていました。
堆肥づくりを一緒にしていたその人が、師匠を紹介してくれて私も本格的に堆肥の理論と実践を学び始めました。1年間のプログラムで、定期的に授業と実技が行われます。もしコロナが流行していなかったら私はラオスに長期滞在していた可能性が高かったので、本当に「タイミング」としか言いようがありません。
しかも、師匠はネパールでの生ごみ問題を解決するため農業の傍らコンサルとして現地で指導をしていた経験もあり、農業と国際協力を両立する人がいたのか…!と興味が湧いたのはいうまでもありません。

師匠の教えてくれた堆肥づくりは、
生ごみや落ち葉など、地域で出るけど捨てられてしまうものを活用でき、やり方を覚えれば誰でも実践できる素晴らしい技術でした。
卒業研究の時に感じた、「私には何もできない」を解決してくれるのは、この堆肥づくりの技術だと感じました。

温度は60〜70度くらいまで上がる
堆肥の仕込み中
生ごみを腐らせず保存して、堆肥の材料にする
手で触り、においを嗅いで五感で堆肥を仕込む
これなら機械がなくても誰でもできる
表面に見える籾殻は、堆肥の一部

調査される側になりたかった

師匠の講座を通して、技術を習得し、同期生やさまざまな農家と出会い、「あ、私農家になりたい、やるしかない」と決意しました。
最初は、将来的に途上国に行って、その国の生ごみを有効活用し、かつ肥料を自給できる技術を教えられればという動機のもとで農家を目指しました。

今は単純に、農業という営みが特別に面白くて、私にはこれが天職だと思えるくらいに没頭できるから、農家をやっています。
畑の中の日のあたり加減で植物の成長が変わるとか、畑の中にはたくさんの生き物が住んでいて、彼らは野菜に対していいことも、悪いこともするとか、野菜によって必要な栄養素が違うとか…。
当たり前のことでも、実践してみて目で見える結果が出る畑という場所があることで深く心身で理解できる。そして自分の知恵として蓄積していく。生きる力がどんどんついてくる、そんな気持ちになれるこの仕事が大好きです。

きっと私は、「調査する研究者」ではなく「調査される村人」の側にずっとなりたかったんだと思います。
森のことを熟知し、自分の食べるものを育て逞しく生きる人々。

農業に関する私の知識欲は途絶えることがありません。
今は、植物の生育に強く関係がある土壌動物・微生物の生態や、畑でよく見る生き物の生態、土をよくするために必要な技術などを学んでいます。
農作業という実践の中でたくさん目にする生き物や、植物の生長で疑問に思ったこと、あらゆる失敗などを通じて、今度は本やネット、人からの話を聞いて仕組みを理解する。
実践に生きて、日々学ぶ。生き物も植物も、周りで野菜を作るおじいちゃんおばあちゃんもみんな先生。
どうやら農家という仕事は楽しすぎて辞められそうにありません。

面白い本がたくさん!


長々と書いてしまいましたが、最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
これが私が農家になった理由です。
来年度からは独立して自分で営農していくことになりますが、その日々の奮闘もnoteでシェアしていけたらと思います。
引き続き、「面白いことやってんな〜こんな生き方もあるのね」と面白がっていただけると幸いです。





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