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しょぼい自分を全世界に晒してみました

こんにちは。この記事を投稿しているにもかかわらず、過去の記事に対していただいたコメントにお返事できていなかったり、フォローしている方やスキをくださった方の記事もまだ読めておらず、申し訳ありません。言い訳をすると、ちょっと気持ちに余裕がなかったもので…。少し落ち着いたら必ずお返事を書いて、みなさまの記事も読みにいきます。

先日「自分を認める」というのをテーマにこちらの記事を書いたのですが、自分で読み返して「あれ、口だけで全然行動が伴ってなくないか私?」と、一人反省会をいたしました。

そのうえで、今回の記事です。ただ、言ってる内容は↑とほぼ一緒だと思います。



本心を誰かに伝えようと思う時、私は大抵うまくいきません。小さい頃からそうです。涙が出てきたり、言葉が詰まって言いたいことが出てこなかったりします。

なぜかというと、それは多分自分の気持ちを何重にもオブラートで包んでいるから。なので剥がすのがとんでもなくメンドクサイんだと思います。昔、ボンタンアメのオブラートを頑張って何とか剥がそうとしていたのを思い出します。

ではなぜオブラートで包むのかというと、それはおそらく、自分の高すぎるプライドや、実態以上に「人からよく見られたい」という虚栄心が原因だと自分では思っています。

本当の気持ちを自分以外の誰かに打ち明けたら、それまで取り繕っていた自分が壊れるのが恐くて、馬鹿にされそうで、それがイヤで、必死で自分を守っているような気がします。

本当の自分は、無能で、くだらなくて、怠け者で、情けなくて、弱虫で…そんな自分を、砂でガッチガチに覆って固めて、その上から水をかけてはまた砂で固めて、また水をかけて…の繰り返し。

だけど所詮、砂は砂。波が来ればいとも簡単に崩れ、さらわれていくのです。社会の荒波なんて容赦なくて、虚栄心でできた砂の城なんてあっという間に飲み込まれてしまう。

今、こんな風にお気楽に文章を打っている私だけれど、いざ面と向かって誰かに本心を伝えるとなれば、それは回復アイテムも強化アイテムも何一つ持たず、ピカチュウ一体のみで初めてシロガネ山のレッド戦に突っ込むくらいに、めちゃくちゃに勇気が要ります(ポケモン金銀のネタ)。たとえ、どんなに親しい間柄でも、です。

だけど、親しければ親しいほど、相手には意外にバレてたりするものなんですよね。うまく覆ったつもりが、不器用だから包み方が雑でどこかしらハミ出ていたり、むき出しになっていたりする。人の言葉や態度の端々からその人の本心を窺い知ることができるように、自分もまた、そのようにしていろんな人から見られ、判断されているのですよね。

今でも私とお付き合いしてくださっている数少ない心優しい方々は、おそらく私のそんな部分も薄々勘付いているはず…というか、私が気付いてないだけで実はモロバレなのかもしれません。
それを分かったうえでお付き合いを続けてもらえているとならば、素直に感謝しないといけません。どうしても「いやいや、私しっかり者なんで!自分の弱点とか知られたらムリムリムリムリ」という気持ちが今でも態度に出てしまうのですが、人から見たらきっと、そんな私の姿は滑稽に違いありません。

だから、そんな人たちに今さら自分の弱みを隠そうとせずに、むしろそれを笑いに昇華できるくらいになりたいです。それで、相手がちょっとでも笑ってくれたら私も嬉しい。なんというか、素の自分を受け入れてくれているということに対して「拒絶」ではなく、謙虚に受け止めたいと思います。

そしてその分、他の人にも寛容でありたい。お互い様というか、自分も相手もたとえば「冷静沈着です!」という一面だけではなくて、お調子者な一面だってあれば、実はそそっかしい一面もあるかもしれない。

だけど、相手がそんな面も含めて自分を受け入れてくれているのであれば、自分もまた同じように、相手の色んな面を受け入れたい。もちろん、1から10まで全面的に肯定することはできなくても、「そうか、そんな一面もあるんだ、人間らしくていいじゃん」くらいに思えたら。ボンタンアメはオブラートごと口に放り込むからこそ美味しいのです。
そう思えるようになるためには、自分自身の心のゆとりも必要だな…とも思います。「気持ちに余裕をもって、穏やかに」と心掛けているつもりでも、ふとした拍子に私は感情的になってしまいます。客観的に見たら般若のような顔をしている気がします。

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おそらくこんな顔

時間が経ってから気付いて落ち込んでは反省して、を繰り返しているので、私はまだまだ未熟です。緑色のカッチカチな状態のアボカドみたいな感じの未熟さです。食べ頃はまだ先だけれど、完熟を目指して、周囲の環境の力を借りつつ、硬い皮の中身を自ら柔らかくしていこう。前進あるのみ、です。