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2人の母への想い

今日は母の日ですね。現在、私には母と呼べる相手は二人。夫の母である、私から見た義母。そして、私の実母。せっかくの機会なので、二人への想いをそれぞれ綴ってみたいと思います。

義母について

義母(以下、お義母さんと呼びます)には、夫と結婚した当初より、いや結婚するよりかなり前からとてもお世話になっています。よくある「嫁VS姑」問題は今のところはない…、と私の方では思っています。

先日、少し早めの母の日のプレゼントとしてちょっと有名なお店のガトーショコラを贈りました。義両親家は私達の自宅と同じ市内でわりと近いので、直接手渡し。大変喜んでくれて、差し上げたものにもかかわらずその場で私達もガトーショコラ1本のうち半分くらいを頂いてしまいました。

お義母さんは、後述する私の実母とはいい意味で全く性格が違います。上品で、会うといつも優しく穏やかで、料理上手で手作りお菓子もとても美味しい。義父とも仲が良くて、よく二人で外出したり旅行にも出掛けている。
「お義母さんが私の実母だったら良かったのに」と、今まで何度思ったことか。

少し前に、私がちょっと相談したいことがあってお義母さんのもとを訪ね、二人でゆっくり話す機会がありました。
お義母さんが私の話を優しく聞いてくれて、自身の経験をもとに的確なアドバイスをくれたお陰で早期に問題が解決。
その後のLINEで、お義母さんがくれた言葉がとても印象に残っています。

「私は、人生は修行のようなものだと思っています。それで、時々良いことがあったら、ご褒美だと思うことにしています」と。

それまでの私だったらきっと、「修行=ただただ辛く、ひたすら耐え忍ぶもの」として捉えていました。
ですがお義母さんと話しているうちに、きっとそうではないのだろうな…と気付きました。
確かに修行には厳しく辛い面もある。けれど、日々鍛錬に鍛錬を重ねていけば、それは必ずいつか自分の経験値になり、内面的に成長できるもの。結果として、すべて自分のためになるものなんだ…と。
確かにそりゃそうだ。ドラゴンボールもハンターハンターもポケモンも、みんなみんなそうやって成長しているじゃないか。

そして、「ご褒美」。これも、とても素敵な考え方だなと感じました。
頑張った自分へのご褒美、なんてよく言うけれど、あれって自分が意図して自分に与える場合が多いじゃないですか。
だけどそれ以外の、意図せずとして自分にとって良いことが起こった場合。それまでの私なら「ラッキーだった」と思い、ただ偶然にたまたま起こったことだと受け止めてさらっと流してしまっていたけれど、「ご褒美」として考えてみると、自分が頑張った結果が巡り巡って自分に返ってきているものだと思える気がして。「情けは人のためならず」のような。

今後私は、人生という「修行」の中で、色々な経験や思いを積み重ねてきたお義母さんに対して、「ご褒美」になるようなことを増やしてあげたい…というと何だか上から目線ですが、美味しいものを食べてもらった時とか、素敵なものを見た時などのように「ご褒美」の瞬間に少しでも自分が貢献していきたい。そんなことを思います。


実母について

次は自分の実母(以下、母と呼びます)のこと。
母には本当に感謝しています。私を産んでくれて、社会に出るまで育ててくれて、十分な教育の機会も与えてくれたしピアノも習わせてくれました。感謝してもしきれません。
結婚してからは時々実家にも顔を出していますし、お互いの誕生日にプレゼントのやり取りもしています。今年の母の日は、カーネーションを贈りました。ただ、母は私達夫婦と同じ県内といえど少し離れた距離に住んでいるので、コロナ禍ということもありネット配送で。

ですが、じゃあ「母のことが大好きか」と問われるとそれはちょっと複雑です。
確かに感謝は尽きないけれど、先述のとおりうちの母は義母とは全くちがうタイプの人。ものすごく感情的で、時にヒステリック。いつ怒りスイッチが入るかも分からなくて、実家にいる時は母の機嫌を損ねないようにビクビクしながら過ごすことも多くありました。
私が結婚よりだいぶ前から家を出て一人暮らしを始めた理由のひとつは、母との衝突でした。少しセンシティブな話題なので具体的に触れるのは避けますが、その事柄についてはどうしても母と意見が合わず、私の我慢が限界に達しました。

一人暮らしをして母と離れ、結婚して姓や戸籍も変わってからは、母との関係は比較的良好な気がします。
それでも、今でも時々母の「呪縛」のようなものに深く悩まされることはありますし、万が一私が実家に戻って母と再びひとつ屋根の下で暮らすようなことになったら、あの息が詰まるような毎日に私は耐えられる自信がありません。
多分、少し離れた今の関係がお互いにとってちょうどいいのだと思います。

愚痴愚痴しちゃったので、ちょっといい話(自称)をひとつ。
私が社会人3年目の年、一人暮らしを始める直前に迎えた母の日のこと。デパ地下で買ったスイーツを母に手渡したところ「じゃあこれ」と、母からジュエリーの包み紙を渡されました。
開けてみると、中にはパールのピアスが入っていました。

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「母の日というのは、私は母が子どもに感謝する日だと思っているから。私の願いは2つあって、うちひとつは女の子の母親になることだった。これはもう叶ったから、私は今とても幸せ」

と言われました。
ちなみに、私がピアスを空けたのはその年の始めの冬のこと。
穴を空けたことを母へ事後報告した時には「親からもらった体に穴を空けるなんて」「空けたらもう元に戻らないのに何でわざわざ」とか、散々文句を言われていたのですが、母自身が金属アレルギーだからと、なるべくアレルギーが出ないような素材を選んだということでした。

何だかんだ言っても、母は母なりに私のことを想っていてくれているんだな…ということが伝わってきて、その時は素直に嬉しく思いました。残念ながら数年後に片方の穴が塞がってしまったのでピアスは付けていないけれど、今でも大切に保管しています。



そんなわけで、二人のおかあさんへの気持ちを書いてみました。珍しく真面目な記事になってしまったので、明日以降はおそらくチャラチャラした内容になると思います。