嫌いな祖母が亡くなった。その時、
嫌いな祖母が亡くなった
「嫌いな人が亡くなった。」
「厄介で扱いに困っていた人が亡くなった。」
少なからず、こういうことって、あると思います。
みんな仲良しでみんないい人で…というのは、ありえないから。
「そういう人がいざ亡くなったら、私はこういう感情になったよ」という記録を、残しておきます。
誰かが亡くなった時は、自分が「生きること」「死ぬこと」を真剣に考え直せているから。
私が祖母を嫌っていた理由は…
詳細は割愛しますが、「父にとって毒親っぽかったから」です。
【祖母(子供をうまく愛せない)→父(子供をうまく愛せない)→私たち】
みたいな連鎖をひしひしと感じていたからです。
棺の中の祖母に会った時の感情
最初に思ったのは、「かわいい顔をしているなあ…」でした。
他には
「亡くなった時は、もう苦しむ暇も無かったのかな」
「きれいにしてもらってよかったね」
このくらいでした。
葬儀で知った、祖母の良い面
晩年の祖母(10年近く)は、ゴミだらけの家の中で、寝てばかりで暮らしていました。病気とかでは無かったようです。
それでも、葬儀にはたくさんの人が駆けつけていて、かなり驚きました。
祖母は、本当に整理整頓のできない人で、家の中はぐちゃぐちゃでしたが、
お寺の納骨堂の掃除を無償でしていたり、
お寺に花を無償で届けたり、
というのを頻繁にしていたそうです。
なので、お寺さんやご近所からは、そういう面では評判は良かったようです。かなり意外でした。
身内という閉じた関係だからこそ見えていたものもあれば、
身内だからこそ見えていなかった部分もあったのだな、と思いました。
ひとつの面で物事を見るのは、すごく「せせこましい」ことなのだなと感じました。
湧いてくるのは、憎しみや責めではなくて
悔やむ気持ちでした。
「電話にもう少し出ても良かったのかもな」
(メンタル削られるのでかなり無視していました)
「旦那に会わせられなかったな」
(結婚前にあいさつに行ったが会えなかった)
嫌っても憎んでも、最後には意味が無い
どれだけ相手を嫌おうが、憎もうが、責めようが、
「ああ、こうしてよかった」と思うことはありません。
その人が亡くなった時に、「嫌ってよかった」「憎んでよかった」という感情は、なぜか湧いてこないものでした。
お経の中に、「憎しみの業火で身を滅ぼすことなかれ」という意味の言葉がありました。
憎しみや恨みは、相手に向けてしているようで、
実際は、自分自身を痛めつけ滅ぼしていくだけなんだなと、ぼうっと考えました。
(嫌ってはいけない、憎んではいけない、と言っているわけではないです)
ただ自分は、「憎むだけ無益(いいことがない)」「嫌うだけ無益」だな、というのが、今回自分自身で納得することが出来ました。
「生老病死一切皆苦」
ざっとした意味はこちら
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生きること、老いること、病気になること、死ぬこと、
それら一切は、思い通りにはならないものである。
思い通りになるわけのないものを、「思い通りにしよう」と思うところから、苦しみは生まれる。
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ネットの検索で、この言葉を見た日に、祖母が亡くなったと連絡が来ました。
不思議な偶然。
誰かを嫌う、憎む元は、「こうであってほしい」と相手に思ってしまうからかなと。
「優しくしてほしいけどしてくれない」とか。
「こうしてほしいのにこうしてくれなかった」とか。
「認めてほしいけど認めてくれない」とか。
「変わってほしいけど変わってくれない」とか。
嫌い、や、憎いが湧いて出てきたら、思い出したいです。
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