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【2020.05.30】わずかなタイヤの傾きがクルマの進行方向を大きく変えていくように、わずかな身体の変化は自分の様々な面を良くも悪くも変えていく。

お手伝いしている報告書の編集作業を午前中に済ませ、午後はいま取り組んでいるプログラムの選書。夕方から3時間くらい時間をとって、筋トレとランニングを。

往復12kmのいつものコース。そろそろ20kmオーバーに身体を戻していきたいところだけど、突然強度を上げると持病がある膝が危ない。


距離は長くしない代わりに、今日は「もしもこのコースが、引っ越してきたばかりの街で、初めて通る道だったら」という妄想をしながら走ってみた。

そうすると、意外と路上の花壇がきれいだったり、「こんなところにバレエ教室があったんだ」なんていう気づきが多かった。

センサーが敏感になっていたのか、気づいたのは風景だけではなかった。


大通りの交差点の横断歩道で、信号が青になるのを待っていた。目の前を右から左に横切り、右折して遠ざかっていくクルマがあった。何気なく、カーブするときのタイヤを見ていてハッとした。

クルマは曲がるときに、大袈裟に全身を傾けたりしない。前輪だけがほんの少し右側を向く。そのわずかな変化に乗っかって、大きな車体がゆっくりとカーブしていく。

遠ざかっていくそのクルマを見ながら、自分自身が何か方向転換を行うときのことを考えていた。それは物理的な右折左折だけではなく、人生の歩み方も含めて。


行き先を変えようとするとき、僕はかなり「力(りき)む」タイプだと思う。舵を切るからには全身全霊でやらねば、と。

たしかに、新たに選んだ道を精一杯頑張るのは良いことだと思う。

けれど、そうして選択する前から気持ちを入れ過ぎてしまうと、舵を切ること自体に大きな力が必要だという感覚が強まり、新しい道を選択することそのものが怖くなってしまうときがある。「そんな大変な方向転換を、自分はちゃんとできるだろうか」と、選択が迫られる場面そのものを避けるようにもなっていくかもしれない。

現状維持では後退するばかりである。

たしかこれは、ウォルト・ディズニーの言葉だったと思う。道を変えることを怖れ、避けていった先に待っているもの。変化がますます激しくなる時代に、同じ道をまっすぐ進むだけではいられないだろう。


そう思うと、あのクルマの曲がり方が、なんだか癒しになった。

方向はちゃんと変える。変えた先でまたアクセルを踏んでしっかり進んでいく。けれど、方向を変えること自体は、実はそんなに全身をこわばらせてやる必要はない。

全身の多くの部分はいままでどおりどっしりと構えて、足首の方向を少し傾ける。そのわずかな心掛けに乗っかって、全身をリラックスして委ねる。

そうやってリラックスして方向転換できるイメージが、身体感覚をともなってすっと入ってきた。


身体感覚。これはここ数年で本当に大切にするようになった。

感情や思考がクリアになるよりも先に、身体はとても雄弁に自分の状態を教えてくれる。きちんと自分の身体の状態やわずかな変化に耳を澄ませていると、やってくる感情に支配されてしまう前に心の準備ができる。

「あ、いま肩がこわばっている。心理的にも防御態勢に入ってしまっているんだろうな」とか。防御反応をすぐに解くことはできないかもしれないけれど、そうなっている自分に気づけるだけでも、感情に対して冷静に対処できるようになる。


「走っているときは何を考えているの?」
これは1万3,000回くらいされてきた質問。

走っているときは、ほとんど身体のことを考えている。

着地したときの衝撃をどこで受けているのか。「脚」や「膝」という解像度ではない。骨の一か所いっかしょ、筋繊維の一本いっぽんに、レントゲンやMRIで見るような感覚で意識を向ける。全身の左右のバランス。踏み込んだ足の抜ける角度。爪の圧迫具合。本当にいろいろなところに意識を向ける。

だから僕にとって走ることは、自分の身体の状態を隅々まで集中して点検する、メンテナンスの時間のようなものなのかもしれない。

わずかなタイヤの傾きがクルマの進行方向を大きく変えていくように、わずかな身体の変化は自分の様々な面を良くも悪くも変えていく。

だからこそ、大袈裟な改革を声高に叫ぶ前に、小さな変化を捉えられる感受性を大事にしたいと思う。

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