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古地図に見る 海峡と水路のちがい


有田焼

シーボルトが翻訳した高橋景保の地図では 北海道はJEZOと記され満州 MANDSCHELと樺太と北海道の間は Tartarischer Kanalとある。その南
 日本海 Japan See が広がる。その上にKorai があって北九州と朝鮮半島の間はKanalと記されている。「海峡」ではなくキャナル 水路 運河である。 またドイツ語のSeeは 海と湖の意味がある。1828年(文政11年)シーボルトが帰国するとき その所持品のなかに禁制品とされた日本図のあることが発覚した。幕府天文方の高橋景保(1785年〜1829年)とその関連者は、厳しい取り調べの上で処罰され、シーベルトも国外追放となって、地図は幕府に没収された。いわゆるシーベルト事件である。高橋景保がシーボルトに渡し、密かにシーボルトが写した日本図は、カナ書きで伊能特別小図であった。 従来のヨーロッパ製日本地図に比べれ、日本列島の形態が格段に正確になった日本地図を1840年 オランダのライデンで刊行した。

世界地図の上に日本列島を正しく描くことは 日本研究の第一歩である。 日本の北方、最上徳内、近藤重蔵 間宮林蔵らが その頃蝦夷 樺太 千島の探検で成果をあげていた。シーボルトが日本にやってきのは、ちょうどそんな時代であった。折しも、伊能忠敬の全国測量による いわゆる伊能忠敬の伊能日本図が完成した直後であった。伊能忠敬 1800年から 1817年まで 17年かけて完成させた。 伊能は人には任せないで自分で全部測定したのだが なぜか蝦夷地は8回会っただけの 弟子の間宮林蔵に任せた。 ユーラシア大陸と樺太の間を今では 間宮海峡 タタール海峡と呼ばれている。

日本辺界略図


NHKニュース 300年前の日本地図 伊能が完成させた地図よりはるか100年前に作られた。また長久保赤水 (1717−1801)は伊能より42年早く 日本地図を完成させ赤水地図として庶民に親しまれた。

赤水地図

シーボルトは赤水の地図も持って帰った。伊能地図の方が正確だが
あまり変わっていない。高橋景保の地図は日本がユーラシア大陸とつながっていたような形跡のある地図である。シーボルトは永久追放となったわけではなかった。国家機密の伊能地図を持ち帰り、30年ぐらい後 1854年黒船が来て開国した日本に再来日し日本研究を続けた。

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