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「楽しさ」と時々「孤独」と。

はじめに

今から書く文章は、ごくごく一般的なVRChatterである「ふぁんのおと」がなんとなく普段考えてたりすることである。なんとなく考えていることなので、深い意味はない。

「楽しさ」とは

そもそも、楽しさってなんだろうか。辞典的にはこのように表現するらしい。

心が明る満ち足りる様子。または、どれほど楽しいかという度合い

実用日本語表現辞典

なるほど、確かに楽しいときって心が明るく満ち足りる。その通り。

私はどんな場面で「楽しさ」を覚えるのか考えてみた。
ずばり、1番はやはり友人と話しているときだと思う。
VRChat、人と話すSNSである。ここで一番楽しさを感じるのは当然だと思う。特に、どのような場面で満ち足りるのかというと、私の場合は「誰かとなにかに対して共通の認識を持った瞬間」に「楽しさ」を覚えたりする。例えば、音楽の話をしていて「この作曲家素敵だよね。」と共感できたときに心が弾んだりする。これは一般的に「楽しさ」とは言わないが、人のこころの芯の部分に触れた際にも心が動く。私に対して、特別な情報開示があったときなどは、相手からの信頼を感じる場面なので、ある意味「楽しい」のかもしれない。(もっと違う表現があるとは思うけど。)

「孤独」とは

まずは辞書に手伝ってもらって孤独について知ってみる。

仲間身寄りがなく、ひとりぼっちであること。思うことを語ったり、心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと。また、そのさま。「—な生活」「天涯—」
みなしごと、年老いて子のない独り者

デジタル大辞泉

なるほど「心を通い合わせたりする人が一人もなく寂しいこと」か。
先程のわたしの「楽しさ」は、誰かと繋がったりしていることで感じるものであるから、ちょうど対になるような言葉が「孤独」なのだな、と再認識した。

通い合わせられるから「孤独」を感じる

もし、私がこの世に一人ぼっちだったらそもそも「孤独」という言葉は定義されないものだと思う。「孤独」ということは、誰かが周りにいる証拠なんだと思う。誰かが周りにいて、今は自分とつながっていないから一人を感じて、そのコントラストにより「孤独」というものが際立ってくる。
「孤独」は確かに周りに人がいることの証明なんだろう。

「孤独」とどう向き合うか

私の場合、色々なものを感じ取って、応えようとしてしまうからだろうか…、常に人といると少し疲れてしまう。だからほんの少しの「孤独」は必要なものだと思っている。孤独であるときに色々得たものを咀嚼して考えたりする。孤独は完全に悪ではない。孤独があるからこそ、人といるときの「楽しさ」が際立ってくる。私はそう考える。

だから一人の時間は少し寂しい気もするが、それはそれである程度必要なものだと思って受け入れるようにしている。今必要な時間なんだと。

「楽しさ」をどのように楽しむか

「楽しさ」と「楽しさ」の間に「孤独」であり、「孤独」の先にはきっと「楽しさ」があると信じている。せっかく訪れた「楽しさ」十二分に満喫したい。私は人といる喜びを相手に素直に表現するようにしている。言葉に直接出すこともあるし、VRChatでは相手を撫でることもできる。何かしらの方法で相手に喜びを伝えるようにしている。楽しさを共有してくれてありがとうの気持ちを込めて。

番外編:一緒にいるだけが友人であるというわけではない

一緒にいることができる友人、それは本当に尊いものである。大事にすべきであると思っている。ただ、私は一緒にいるだけが友人である…とは思わない。相手の時間を尊重することも、また友情のあり方の一つであると考えている。相手がのびのび過ごし、要所要所で遊びに来てくれて話してくれればそれもまた友人関係が成り立つと考えている。普段、双方の時間を過ごし、孤独を感じた際に訪れるような相手というのもまた一つ大事な存在であろう。

最後に

今日は何でもないことをつらりつらりと書いてみた。
私なりの「孤独」な時間のすごし方だったのかと思う。
今は夜の20時半ごろ、そろそろVRChatにログインしてみようか。


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