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貴腐老人

最近、時代の変わり目を感じることが多々あります。

今までは当たり前であったことが、当たり前でなくなっていく時代になっている感じがします。

まあ、僕は変わっていってる今の方が(コロナ禍以降)前より暮らしやすくなってきているので問題ないのですが。

前にある人のYouTubeチャンネルで、ホワイト化(リベラル化)していく社会について喋っていた動画を見ていたのですが、その中でこのように価値観が変わってきてきている要因について話していた内容が面白かったです。

その要因は色々な視点から色々と考えられると思うのですが、その一つが「多死時代」が要因であると言われていました。

「多死時代」と字面だけ見ると重い言葉に感じますが、人工学的に人類は「多産多死→多産少死→少産少死→少産多死」というサイクルで流れていくようです。

簡単に言うと、戦後経済や医療が発達して子供がたくさん産まれて長生きしてきた世代の人達が寿命でバタバタと死んでいく時代に突入したということだと思います(要約しすぎですが)

独身研究家・コラムニストの荒川和久さんの記事でわかりやすく説明されています。


この記事の中に人工推移グラフが出てくるのですが、とてもわかりやすく感じました。

「2024年問題」や「キャンセルカルチャー」みたいなことも、これが原因の一部ではないかと思います。

僕は今年で40歳になるので、このグラフを見るとちょうど僕等世代が75歳以上になる頃が1番死者が多くなる時代なのではないかと思いました。

少し前に見た「PLAN75」という早川千絵監督作品で倍賞千恵子さん主演の映画が割と直近の75歳以上の世代だとリアルなのかなと思ったのですが(僕らにとっても若者側の視点としてはリアルですが)、僕がジジイになる頃には神山健治監督作品の「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society」の方がリアルな老後に今思うと感じてしまいます。

あらすじは、こんな感じです。

西暦2034年。難民蜂起事件から2年が経過していた。新人20名を増強した新生公安9課に新たな事件が舞い込んできた。梵の刺青を入れた13人のテロリストの連続自殺事件に絡む空港人質立て篭もり事件の鎮圧だ。結果、公安9課に追い詰められた立て篭もり犯は「傀儡廻が来る」と言い残し自ら命を絶ってしまった。時を同じくして数々の難事件が同時に多発していく・・・その影に潜む超ウィザード級ハッカー「傀儡廻」の存在。
新生9課の前に次から次へと立ちはだかる難事件すべてが芸術的にリンクしていく。「傀儡廻」とは?バトーと草薙は?「傀儡廻」と草薙の関係は?すべての事件の犯人は?そして結末は?謎が謎を呼ぶSolid State Society。

Production I.G  ホームページより

あらすじには触れられていないのですが(ネタバレになってしまうからかもしれないです)、割と老人介護問題について描かれていて、その物語の中に出てくる「貴腐老人」の姿が僕等の未来に少し近いのではと感じてしまいました。

子孫を残さなかったために身寄りがないまま全自動老人介護システムを利用し、最低限の措置が施された状態の高齢者が、生きながら貴腐葡萄さながらに干からびていくこと。死亡してしまうと遺産を国家に回収されてしまうため、それを阻止する彼等の総意と傀儡廻しが結託してソリッドステートを構成していく。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より

死が儀式的ではなくシステマティックに扱われていくようになるような気がします(今もお葬式とか割とそんな感じがしますが)

僕は頭が良くないので35年後の政治経済や社会はなんとなく都合がいいようにしか想像できないですが、全自動介護システムというのは何かリアルなような気がします。

「貴腐老人」のように全自動介護システムに繋がれたまま息絶えるまで寝たきりであれば、ずっと夢を見ている状態でいられたらいいなと思いました。

そう考えると、メタバースというのが1番リアルなのではないかと。

今のようにVRゴーグルをかけてどうこうとかゆうレベルではなく、意識的に完全にメタバースの世界に入り込むようになりたいです。

そうなる為には、恐らく人間の脳を完全にエミュレーションできている状態になっていないとできないと思うので(完全じゃなくてもできるのかもしれないですが)、それが実現していればすでにシンギュラリティが起こった世界になっているのかもしれないですね。

そんなことになっていると「貴腐老人」も老人介護問題とかも関係ない世界になっているのかもしれないですが。

マトリックスのような機械に支配(管理)された世界になっているのか、それともシンギュラリティによってバイオテクノロジーも進んで2・3倍の歳でも生きられる体を手に入れているのか、という希望的観測みたいなことしか僕には思いつかないです。

何はともあれ、快楽を得る以上に幸福に生きていきたいと感じる今日この頃でした。

誰でも幸福になることはできる、だが貧乏人には快楽はない、民主主義の世の中でもそれは同じなのに、今の貧乏人は幸福だけでは足らないみたいで快楽を得ようとしている、そんなもの絶対手に入りっこないのに

村上龍 愛と幻想のファシズムより





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