見出し画像

舞城王太郎『煙か土か食い物』――鮭が床に貼りついた

福井県西暁町で、主婦が後頭部を強打されたうえビニールに包まれて生き埋めにされる事件が連続して起こりました。事件の被害者の1人である奈津川陽子の4人兄弟の4男、奈津川四郎が犯人を見つけるために事件を追う。舞城王太郎のデビュー作、『煙か土か食い物』。フィクションです。現実で連続主婦殴打生き埋め事件なんて起こっていません。なんなら福井県に西暁町なんてありません。

調査が進展していくうちに、不規則に起こっていると思われていた事件に規則性が見いだされていき、さらに追求していくとその規則性の中心に、暴力によって奈須川家の家族関係に深く深く刻み込まれつづけられてきた怨恨が横たわっていた、というとても暗い話です。

幼いころから兄弟たちは父親である丸雄の暴力に晒されていました。丸雄がぼこぼこに殴ります。殴られていなくても怒鳴られるか、ぼこぼこにされる兄弟の姿を目の当たりにする日常を生きてきたわけです。にもかかわらず、物語は全体的に軽さに包まれています。

それから俺は舌打ち。くそ、おふくろが頭に傷を負ったって?俺はロッカーの上着のポケットから携帯電話を取り出してメールを確かめる。兄から一件だけ短いやつが入っている。「母が怪我した。できれば戻れ。一郎」。これじゃ昔ながらの電報だ。しかしひさしぶりの日本語。ひさしぶりの一郎。懐かしくはない。顔も見ていないうちからうんざりさせられる。でもとにかくおふくろが怪我をしたのなら帰らなくてはならない。しかし頭に傷とはいったい何があったんだ?(p8)

舞城王太郎『煙か土か食い物』講談社

突き進む。矢継ぎ早に短文が連打される一方で、改行は少ないです。思考の流れが延々と続いていくところは、なんだかフランスあたりの哲学書を彷彿とさせます。まさに持続、というと仰々しいですかね。

事件を追う四郎はサンディエゴの外科医。腕はいいし、当然頭もいい。顔もよければ、高身長、ボクシング経験あり。強いです。そんな四郎の口語が地の文にまで差し込まれる文体は、物語のなかでも言及されている町田康のドライブ感を彷彿とさせます。

スピードに乗って颯爽と流れていく文章の速さのままに読み進めていくと、四郎かわいそう、とベタな共感を呼び覚ますことはなく、むしろ、なんかあまり辛そうじゃなくない?色々あったけど元気でよかったじゃん、みたいな感覚さえ生じさせてしまいそうになります。しかし、そんな単純でないことくらい、本書の数ある暴力的な場面のなかでも飛び抜けて暴力的なあの石狩鍋の挿話を読んだ人であればわかるはずです。

俺は鍋を楽しむことを完全に諦めた。三郎のほうはぐつぐつ煮える鍋の中のスープと鍋の周りに練りつけられた味噌と鍋を囲んでいる皿に盛られた春菊や白菜やネギや鮭や人参やじゃが芋をまだ未練がましく見つめていた。よう三郎、しょうがねえやんけ、と俺は思った。こうなったら丸雄と二郎の大騒ぎをいかに無視していかに鍋を味わうかを考えるしかねえよ。俺はこの時にまだこの石狩鍋が少しでも俺の胃の中に収まると考えていたのだ。しかしそれは単なる俺の幻想だった。石狩鍋は始まる前にぶち壊されたのだ。(p171)

舞城王太郎『煙か土か食い物』講談社

暴力の予感がじんわりと広がっています。丸雄に突き飛ばされた二郎が食卓にぶつかったことで、鍋や食材が床に散らばってしまいます。それでも、その後に起こったことに比べれば些細な暴力です。ヒートアップしてくると椅子は倒れて扉ガラスも割れて、そんなことより二郎が殴られる。

二郎の頬の肉は叩き潰されて変色してしまって見られたものではなかった。言葉も不明瞭になった。殺せがコホセに聴こえた。
「おめえが悪いのに何でおめえは謝れんのじゃ!」と言って丸雄は二郎の顔面を殴った。バチン!鼻血が吹き出た。「謝れや!」
「コホセ!」
「謝れや二郎!」
「コホセ!コホシャエエンヤ!コホシテシマエバエエンジャ!」
「謝れ!」。また丸雄は二郎を殴る。よく殴れるなと俺は思う。グロテスクなブヨブヨの肉の塊になった二郎の顔。バチン!鼻血。
三郎が耐え切れなくなって言った。「お兄ちゃん、誤ってまえや!」。三郎も泣いていた。(p178)

舞城王太郎『煙か土か食い物』講談社

なんだか違和感です。回想が鮮明に整理されているのです。衝撃的な体験はなかなか受け止めきれないし語ることが難しい、なんてことをトラウマ研究が指摘してきたことを考えると不思議です。

ちょっと一旦遠回り。精神科医の宮地尚子は、衝撃的な出来事に遭遇した人がその体験を語る際に生じる困難さを、環状島を例に説明します。環状島、王冠みたいなかたちをした島です。王冠の内側が内海、外側が外海。衝撃のせいで全く語れない、そもそも亡くなってしまって語れない、という状態から語ることができるようになった状態までを、内海の中心から内斜面を登り尾根へ、という道のりに置き換えて図式化しています。

内海から尾根へ向かうには、困難がつきまといます。身体は重いし、尾根から風が吹き降りてくる。こころに生じた傷、混乱、葛藤、社会の偏見、などなどです。負荷なく軽々と登り切るなんてことができない。時間がかかる。

時系列を整えて回想される暴力の語りは、語ることができるようになるまでに必要とした時間の経過を想起させるのではないでしょうか。ランダムに切り替わる静止画と聞き取れない叫び。断片化されたピースを、事後的にこつこつはめていくわけです。暴力体験を軽快に語る四郎が費やしたこつこつはどれほどのものだったのでしょうか。ぼくは、この四郎のこつこつに思いを巡らすことで、かれに流れた時間を感じとってみたくなるのです。

悲しいことに、過去を整理して受け止めたところで四郎が癒されることはなく、事件の謎と解明されていく真実が、うんざりするくらいに四郎を過去に引き留め続けます。数年ぶりに実家に帰ってきて、久しぶりの一家団欒、母親は病院だけど父親兄弟、あと友人とその浮気相手、で一緒に食卓を囲もう、というときになっても四郎は頑なに父親と同席することを避けます。整理できても許すことはできない、四郎は反発します。天才的な頭脳と驚異的な腕力によってチャッチャッチャッと事件を解決に導く四郎に、どことなく幼さを感じるのはこうした場面です。

あれ、四郎、なんよ帰って来たんか。ちょっと待てや他から椅子取ってくるから。ええよ四郎、俺もう食ったからどいてやるぞ。ちょうどいいくらいの高さの椅子ってどこか他にあったっけ?ええからなにか適当なの持ってきてやれや。「ふざけんないらねえよ」と実際に口にする俺の声が風呂場の中にエコー。(p92)

舞城王太郎『煙か土か食い物』講談社

反抗期を経て親と和解することで人は大人になる、なんてことが言いたいわけではありません。親との関係性に固執すればするほど、子どもであることから逃れられない。父親の過去の暴力を許すか許さないか、その2択に囚われている限り、四郎は子どものままでいるのです。

だからこそ、四郎は軽くなろうとする。過去に縛り付けられてしまった自分をどうにか遠くへ投げ捨てていきたい、けど、決してそんなことができないとわかっているからせめて言葉だけでも軽く。軽さによってしかあらわすことのできない重さが、ここにはあるのです。

悪魔の時間は終わりだ四郎!ナウ、イッツアタイムトゥビーアドクター!カモンベイビィ、レッツロックンロール!アルゥゥゥゥゥガ!(p323)

舞城王太郎『煙か土か食い物』講談社

物語の終盤、この場面を読むたび、ぼくのこころは揺さぶられます。四郎の言葉は、四郎をどこに連れて行ったのでしょうか。未読であればぜひ読んでみてください。既読でも、ぜひ読み返してみてください。

続編は『暗闇の中で子供』。失敗したのかな、と言われたり言われなかったり。いや、面白くないわけではないです。ただ、やりきれなかった感があるとは思います。やりきれなかったことをやりきったのが、『ディスコ探偵水曜日』なのかな、と思います。そんな感じで、おしまいです。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?