見出し画像

分かち合うこと、分け与えること~「仲良し」と「服従」の狭間で~

街中で仲良さそうに歩く二人以上の集団を見て、それが「服従」から成っている関係だと思うことは難しいと思います。何故か一人だけ、全ての荷物を持たされている等の光景が無ければ。

しかし、見えない「荷物」はあるかもしれません。男女カップルの笑みの半分が、女性側の過重な家事負担により、男性側の快適を保障した結果生まれたものだったらどうでしょう。結構ありそうな話では無いですか。
しかも、対等な話合いの結果そうなったのなら良いものの、何となく流れでそうなっているパターンも多いかもしれません。程度の差こそあれ、片方が片方に「服従」し、優位な方も実は「古臭い慣習」に「服従」している。

私自身、「古臭い慣習」から完全に自由な自信はありません。

言われる前に自発的に動き評価される、という事が日本では広く受け入れられていますが、これこそ「服従」を「仲良し」でくるんだ最たる例かもしれません。表面上進んで協力しているように見え、全て平穏です。ええ。

上司と部下が連日深夜まで仕事の大変さを分かち合う(「仲良し」)時、そこに隠れた「権力による仕事の分け与え」(「服従」)が存在するのか否か。多くの会社にありそうですが、本当のところは個々の事例を詳しく見ないと分かりません。

では、歪んだ「服従」関係を正し、その過程で欺瞞の「仲良し」では無い、相互信頼と平等、自由に基づいた「連帯」を追求するのはどうでしょうか。素晴らしいことに見えませんか。

私も理論上は大賛成です。しかし社会で試みられて来た事を振り返れば、眉をしかめたくなる事もあります。

例えば差別に反対する時に、差別されている側は多くの場合、切実な状況にあります。最悪命も奪われかねない。そうなれば、差別を強いる「服従」構造への戦いが、身を賭けた激しいものになることは想像に難くないでしょう。適切では無い状況を強いられているのに、強いられている側にだけ適切さを求めるのは筋が通りません。

しかし、戦い自体が周囲を全て差別的か否かで判別し、あらゆる分かち合いすら、「服従」が隠されている、として拒否すること。そこには問題が生じますし、戦い自体が追い込まれ、更に敵味方を分け過激化するでしょう。
それでも、一番の問題は「服従」構造であるため、安易に過激化を批判することはできません。「差別が一番問題であるのを理解しているが、過激化も止めるために、何か意見しながらも連帯できる事は無いか」という人々はやがて沈黙し、減って行くでしょう。

それは国際情勢でも同じで、ウクライナ戦争で侵略したロシアが悪なのは決まりきったことです。理論として一番正しい。しかし戦争前の多面的な状況やアジア、アフリカ、中南米を含む世界の事情、欧米側の過去と現在の対応に隠された問題等を全て捨象し、ほとんどの人にとって分かり切った結論をただ叫び、単純な行動を繰り返す事は、問題解決に役立つのでしょうか。

もっとも正しい理論から、もっとも悲惨な現実が導かれないか、私は危惧します。

差別者という権力の一部に対する戦いも、侵略を続ける強権国家ロシアに対する戦いも、傷付きながらも抵抗を続ける集団への美しい「連帯」が広く見られました。しかし「連帯」はやがて、少しでも異なる意見が生じるのを恐れ、ギリギリまで意見を同じに擦り合わせ、付いていけない人達を排除するようになりました。全てではもちろん無いですが、少なからず見られた光景です。これはもはや「連帯」では無く、同質性に基づく「服従」と言えます。

しかし「連帯」が「服従」に変わったとしても、それによって社会が変わったり、侵略の効果が少しでも薄れた以上、全否定する事はできません。見えにくくなったとしても、都合良く資源を分け与えようとする権力は監視されねばならない。

「『服従』はもちろん嫌さ。でも闘争を続けても結局『服従』。それも嫌だよ」

そう思う人が一番多いでしょう。何となく、2022年後半から現在にかけて、あらゆる不正や権力に対峙し続けていた人達も、「連帯」を装いながらも消耗を続ける「服従」状態に愛想を尽かし、自分達を守るための分かち合いの場の構築を始めたように感じます。

ハッシュタグや大手メディアを通じて発される大文字のイシューでの儚い「連帯」(からの「服従」への豹変)では無く、中長期的に信頼関係を築ける「連帯」へ。これが現在あらゆる場所で起きている流れに見えます。

もちろん、社会に「服従」を強いる状況が幅広くある以上、闘争が弱まることは、社会からの現実逃避や、正すべきものを正せないという悪い状況が、これまで以上に跋扈することに繋がりかねません。

それは30年以上経済的な停滞を続け、少子高齢化が進み、社会的なアップデートや人権への理解がまだまだ道半ばで、何となく近隣諸国が怖いから目的も財源も明確化しないまま軍拡に突き進む、我が国への諦めの気持ちが反映されているのかもしれません。
(国会も与党も軽視し、ただただ米国からの評価を強調する軍拡こそ、虚無を内包した「服従」の際たるものかもしれません。しかも米国も口では「大歓迎」しながら、意外と冷めている、という話もあります。そうなれば全方位が凍えるような虚無です)

また、舞台を日本に限定する必要はもはや無く、だからといって海外に住むことだけを国際化と呼ぶ必要も無く、繋がり、財産、情報源、発信先等、何かしらの分野で海外と積極的に繋がりながら生きていけば、特定の場所で強いられる「服従」から相当程度自由になれる、というのも真理でしょう。

しかし、真の「連帯」を築こうとする際にも、想像力を巡らせる必要はあると思います。弱り切ったまま、それでも生きるために「連帯」を求める人達が、国境の内側、外側問わず、どこかにいるのではないか、という事を。

そして、権力がその人達から奪った資源を、自分達をなだめるために分け与えているのではないか、という事を。

正義も暴走すれば人々に「服従」を強い間違えますが、そもそも何故正義は狂わされたのか。以上のような根本の問題は、いつどこで誰と「連帯」するにしても、考え続けられなければいけません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?