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 【短編小説】しなさだめ

 今日も雨が降っている。この頃の梅雨時の雨は、昔みたいにしとしととは降ったことがない。いつも土砂降りで、雨水が側溝を流れ下り、近くの小川がすぐにあふれかえって、辺り一面を水浸しにしてしまう。

「全く、良く降るな―」

 丸岡生命保険会社の独身寮の一室で、瀬山和良は、恨めしそうに雨しずくが飛び交う暗い空を見上げて、面長な顔に憂いを漂わせた。今日は日曜のため仕事は休みだが、営業マンの和良にとっては、この休みが日ごろの仕事の疲れをいやすどころか、毎日の営業成績が気になって、かえって焦燥感が募ってくるのだった。

 ここ東北の盛岡支店には、同期入社の宗野芳樹がいるが、四角っぽい顔で人なつっこくおおらかな彼とは何かと比較された。どちらかと言えば内向的な和良は、自分の気持ちを抑制的に内に秘め、表に出ることはあまりなかった。どうしてか無邪気になれなかったのだ。二人とも大学を卒業して入社三年目であるが、毎月会議室に張り出される営業成績を見ると、いつも和良が上位にランクされているのに対し、芳樹は、中よりちょっと上というくらいで目立たなかった。

「和良君は、成績が良くてうらやましい。俺はだめだなあ」

 成績表が張り出されるたびに、芳樹はそう言って和良を羨んだ。

「頑張ればすぐ上がるさ。営業はずっと続くんだからチャンスはいつでもあるよ」

 和良は、いつも同情気味に芳樹を慰めたが、内心は優越感に浸って高所から見下ろす気分になった。

 ある年の五月の初めに、盛岡の北東方面にある岩洞湖に芳樹の車でドライブに行ったことがあった。新緑の季節で、樹木の薄黄緑の若葉がみずみずしく映え、柔らかな空気が頬をなで心が浮き立った。湖畔の白樺は目に優しく、この時同伴した女子社員の君枝怜子と面室香菜も含めた四人は、水と森の自然の中で心行くまで散策を楽しんだ。お昼になって、岩洞湖レストランで昼食を摂ることになった。和良と芳樹はカツカレーを怜子と香菜はてんぷらそばを注文し、四人掛けのテーブルに男同士と女同士がそれぞれ相対するように座った。そのほうが話しやすいし、自然とそんな座り方となった。

「ここはね冬になるとワカサギ釣りが有名ですね。小さなテントを張って、その中で糸を垂れ釣るんですよ」

 香菜が、水色のワンピースの裾を直しながら、卵型の顔をニコニコさせながら言った。

「へー。釣ったことがあるんですか」

 隣の芳樹が興味津々の風情で横を向いた。

「ありません。冬になるとテレビのニュースで必ず流れるから、季節の風物詩ですね」

「僕もテレビは見ましたよ。小さな魚が何匹も釣れるんだね。てんぷらにしたら美味いだろうな」

 和良がよだれをたらしそうな表情で声を出した。

「釣ったわけではないけど、私、食べたことがあるよ。美味しかったわ」

 浅黄色のシャツと紺色のズボンをはいた怜子が丸顔で少し厚めの唇をすぼめるようにほほ笑んだ。

「ところで、話変わるけど、横上支店長が本社に転勤するとの噂があるんだけど本当かな?」

 和良が疑問を口にし、皆を見回した。

「去年来たばかりだし、それはないだろう」

 芳樹が聞いて、言下に否定した。

「ゴマすりが上手いって、誰かが言ってたんだがね」

 そう口から出てしまって、和良はしまったと思った。人の悪口を言えば、回りまわって、いつかは自分に帰ってくると誰かが言ってたような気がしたのだ。

「それはないだろう。人に信頼される人格者ということだろう。仕事もできるし」

 果たして、芳樹が即座に反論した。さらには香菜が芳樹に同調して、付け足した。

「支店長は、人の面倒もよく見るし、人柄が皆に好かれるのよ」

 これを聞いた和良は、これまで香菜に抱いていた彼女の華やかな美貌への憧憬も好意も瞬く間にしぼんでいくのを感じた。

「人は誰しも完全無欠というわけではないのよ。ライバルはいるだろうし、誹謗流言は世の常だわ」

 怜子が機転をきかし、その場の雰囲気を和らげ、和良の失言を薄め、一般論の範囲に封じ込めた。同時に、香菜が芳樹に同調したのを見て、これまで彼に抱いていた恋心を断ち切ったのだ。

 それから二年後に芳樹と香菜が結婚した。どちらも華やかで明るく、爽やかで、これ以上はないだろうというカップルが誕生した。しかも仲人は後任の支店長ときたから将来の栄進は約束されたも同然のようなものだし、結婚披露宴は支店挙げての盛況となった。本社からの来賓として前支店長の祝辞があり、これだけでも支店の芳樹に対する期待の大きさが伝わってくるようだった。ケーキ入刀、友人たちのスピーチと余興、祝電紹介、親への手紙など滞りなく、にぎにぎしく進行し、披露宴が終わった。
 芳樹の友人の一人として和良がお祝いのスピーチをした。

「芳樹君、香菜さん。ご結婚おめでとうございます。お二人とも素晴らしい伴侶を射止められて良かったです。香菜さんは職場の花で、僕もあこがれていましたが、岩洞湖のドライブにご一緒した時にお二人の意気投合ぶりを見て、トンビに油揚げをさらわれたとは言わないまでも高嶺の花と悟りました。完敗です。末永くお幸せになってください」

 芳樹が和良のスピーチを聞いて、参会者の拍手が鳴り響く中、頭をかいて、笑いながら新婦、香菜に顔を向け、何かを言った。次に、あでやかな和服姿の怜子がスピーチに立った。幾分照度の落とした会場の中で、明るいサーチライトを浴び、怜子の姿が鮮やかに光り輝いた。その一部始終を和良はまぶしそうに目を細め眺めていた。

「香菜さんも芳樹さんもおめでとう。お二人ともお似合いですよ。これで私もほっとしました。幾人かの『鮑の片思い』が消えるのですから。香菜さんは幸せ者です。本当にいい家庭を築いてください」

 香菜は怜子のスピーチを頷きながら聞いていて、終わると拍手をして、微笑を浮かべ芳樹と顔を見合わせた。

 その年の九月になった。会議室には八月の営業成績が貼り出されていて、和良は相変わらずトップクラスの成績を維持していたが、芳樹はといえば、わずかに上昇したものの大幅とはとても言えない程、遠い位置にいた。営業の仕事をしていて、その成績を気にしない者はいないはずではあるが、和良が仕事一筋の真面目人間であるのに反し、芳樹は営業能力はさておき、何かと人脈作りには非凡な才があるように見受けられた。本人は自覚してないようだが、根っからの性分というのだろうか、とにかく人と関わることが好みだった。ゴルフ、麻雀、カラオケと何でもこなし、酒も適度に飲み、とにかく独楽鼠のように動き回った。 
 歌は下手、ゴルフも不得手、麻雀も苦手と遊ぶことがほとんど駄目な和良が存在価値を発揮するのは仕事の成績を上げるしかなかったのだが、それが苦行というよりは、彼にとってむしろやりがい、生きがいと感じるのだから、人それぞれの生き方といえるものだった。

「和良君は先月もトップファイブだね。たいしたもんだ。俺なんか逆立ちしても届かない」

 営業会議の空き時間に成績表を見ながら芳樹が和良を羨んだ。

「たまたまだね。お客さんが勝手に保険に入るわけもないし、これでも苦労してるんだ」

 和良が少し謙遜しながら、結婚してちょっと太り気味になったんじゃないのと思いながら芳樹を見た。

「保険販売のコツというか、和良君はどんな風にやってるの。最もそう簡単に秘訣は漏らせないよね」

「秘訣?特別な物はないよ。ただお客様の立場になって、お客様の本当にためになるプランをお勧めしているだけだよ」

「それだけ?嘘でしょう。とても信じられない」

 芳樹はそれを聞いて、半信半疑の体で自席に戻っていった。

 それから間もなく、営業課の主任の一人が他支店に転出していった。主任ポストが一つ空いたのだ。誰が後任になるか、それがしばらくの間、社員の間の関心ごとになった。

「瀬山さんが主任になるんじゃない。営業成績から言っても申し分ないんだから」

 同僚の一人が和良にお世辞を言った。

「それはない。私には務まらない。そんな器じゃないから」

「器ってポジションが作るっていうじゃない」

「いやいや、とてもとても。君こそ適任と思うけどな」

 和良のその言葉を期待してたのか、その同僚は、まんざらでもない顔をして引き下がった。ところが主任の発令は、一か月経ってもなく、だんだんと社員の話題に上らなくなった。
 ある日、本社から総務部長が支店に出張してきた。一晩盛岡に泊まって帰ったのだが、それから二日後に主任の内示があり、その三日後に芳樹が営業主任に発令された。誰もが思ってもいなかった驚きの人事だった。営業成績がそんなに良いわけでもないのにどうしてと社員の雰囲気が騒然となった。

「何でもさ。接待麻雀で、芳樹さんが本社のお偉いさんに国士無双のリーチに、あたりを振り込んだんだってさ。初めてだって、お偉いさん、涙を流さんばかりに喜んだそうだよ」

「翌日は日曜日だったし、ゴルフの相手もしたみたい。だいぶ気に入られたんだね」

 あることないことが、噂となって支店内を駆け巡った。どれもこれもが誇張されて本当とは思えないが、人事の内容が今までにない異例のものなので、その噂もけた外れになる素地は十分にあったのだ。

 まじめに仕事に取り組んでいる人の士気に悪影響が出はしないかと和良は考えたものの、自分の責任ではないしと思うのも馬鹿らしくなってしまった。それにしても真面目に懸命に取り組んでる人が認められないとはと和良は、悔しさを感じ、情けない気持ちでいっぱいになった。
 何よりも悔しいのは、同期の芳樹が先に主任になったということだ。選考の基準はどうなのか、考えれば考えるほど疑問が湧いてくる。仕事一途で芳樹のように社交的になれず、お世辞の一つも言えない和良は、スタートラインからすでに負けていることになる。これでは仕事に精出す人はいなくなるのではとそこまで考えた和良の論理が頓挫した。仕事に熱中する仕掛けがあったのだ。それは、保険契約をとればとるほど手当てがもらえるのだ。これでキャデラックの高級車を買ったという営業マンの話をどこかで聞いたことがあると和良は思い出した。
 結局のところ、人の評価は仕事の実績だけではないということに気付き、和良は、憤懣やるかたない気持ちながら、その辺で気持ちを収める以外に方法はなかった。    

 芳樹と香菜が結ばれて二年目に和良と怜子が結婚した。結婚したといっても二人の関係は、相思相愛の恋人たちのような甘いものとはちょっと違っていた。もちろん憎みあってるわけではないが、何となく戦いに敗れた同じ仲間ということで、お互いに慰めあい理解しあえるようないわば戦友のような関係といえた。

 結婚式は、怜子の発案でハワイの教会で上げ、そのあと新婚旅行としてアメリカの西海岸のロサンゼルス界隈を回遊し、二人とも真っ黒になって帰ってきた。旅行費用は、真面目人間の和良が貯めていたお金を惜しげなくつぎ込み、旅を楽しんだ。俗世間から離れ、文字通り夢のような時を過ごしたのだ。その代わり、帰国後の結婚披露宴は、簡素で形式ばらないものとし、招待客も極力絞り、参加者も気楽に過ごせるように工夫した。
 ハワイでの式の模様とか、新婚旅行先の名所とかのビデオを楽しんでもらい、肩の凝る祝辞とかは辞退した。その代わり、ざっくばらんなスピーチとか余興はオーケーで、できる限り儀式としての雰囲気を薄めるようにした。
 スピーチでは芳樹がこんなことを言った。

「ご結婚おめでとうございます。ビデオでの結婚式とかロサンゼルスでのお二人の様子は本当に幸せそうで感動しました。何事も最初が肝心といわれています。初心を忘れずいい家庭を築いてください」

 新郎新婦のお酌回りで芳樹の席に来ると、香菜が怜子へお祝いの言葉を投げかけた。

「怜子。おめでとう。ハワイでの結婚式、シンデレラみたいでまるで夢のようにきれいだった。わたしも海外に行きたかったなあ」

「ありがとう。一生に一度だから、奮発しちゃった」

 怜子が笑顔を浮かべて次の席へ移っていった。 

 結婚後の二人の生活は、特段の波乱もなく平々凡々と過ぎていった。二年目に長男の信也が生まれ、それから五年後に長女の真美が生まれた。怜子は仕事をやめ、主婦業に専念していたが、子供が大きくなると近所のスーパーで働くようになった。

 和良の仕事については、相変わらず営業成績は抜群で、他支店の営業マンと比べてもひけを取らなかった。ところが支店内の役職について言えば、芳樹がとっくの昔に課長代行まで昇進したのにようやく主任というありさまだった。芳樹との上下関係も開くばかりだったが、今ではそれが当たり前となり、口惜しさが沈殿したまま、上に噴出する力が鈍化してしまった。

 そんな中、家族の面では、驚くべき吉報があった。期待もしてなかった長男の信也が大学の受験で東京大学法学部に現役で合格したのだ。

「おめでとう。和良さんの息子さんは優秀だね」

「やったね。すごい。現役だもんね」

 支店内でも話題沸騰で、行合う人ごとにお祝いと称賛の声を浴びせられ、和良にとっても何年分もの春が一緒に来たようでとにかく嬉しかった。家族でも赤飯を焚いてお祝いし、入学式には全員で東京まで行き、その喜びに浸った。

 それから二年が過ぎた。仕事の面では、和良は主任のままで芳樹との上下関係は変わらず、不承不承とはいわないまでも、上司の指示命令には、サラリーマンの宿命で淡々と従っていた。それが習い性になるというか、表面上は何事もなく過ぎていった。
 その年、営業課長席が空くことになった。その後任に課長代行の芳樹の昇任が囁かれ始めた。人事の季節になると毎年のことで、万年主任の和良はいつものごとく無関心を装った。案の定、芳樹が支店次長室に呼ばれ、満面の笑みを浮かべて営業課に戻ってきた。今回も和良にはお呼びがなかった。芳樹の周りのさざ波を横目に、和良は黙々とお客様の訪問計画を練っていた。   その時

「瀬山さん。支店長がお呼びです」と総務課の女子社員が営業課に来て、和良に告げていった。

 何だろうと以前のことを思い出し、またお客のクレームかなと嫌な予感に足取りも重く、支店長室に入った。中に入ると、大村支店長が自席ににこやかに立っていて、前に来るように和良を招いた。いつもと違う雰囲気に戸惑いを覚えながら和良は支店長の前に立った。

「瀬山さん。おめでとう。あなたは、今度本社の営業技能課長に栄転することになりましたから。発令は一週間後です」

 支店長は、そう言うなり和良を応接コーナーのソファーの奥に座るよう促し、自分はいつもの支店長席じゃなく真向いに座った。

「本社の人事部長から照会があってね。私は一も二もなく即座に推挙しました。わが支店にとっても名誉なことであるし、どうも本社の横上監査役の意向があったみたいですね。とにかくおめでとうございます」

 支店長の態度ががらりと変わった。支店長室を出ると、今度は総務課長に頭を下げられた。

「この度はおめでとうございます。本社から内申書を求められたときは、特Aの評価を出していましたから。とにかくこれからは、わが支店のことをよろしくお願いいたします」

 内示を受けてからの一週間は、和良にとって職場での整理や転任準備など、うわの空の状況で、あっという間に過ぎていった。転任の内示以来、職場での位置関係が逆転し、上部組織の人と見られ、敬意を払われる一方、以前の気安さは消え距離が生じたような感じに打たれた。

「おめでとう。同じ課長でも本社と支店じゃ雲泥の差だからね。それはそれとしてよろしくお願いいたします」

 芳樹はさすがに如才なく現実を許容し、和良の栄進を祝福した。

 転勤に当たっての家庭内の諸事は妻の怜子が抜かりなく処理し、当面は仙台の本社に単身赴任することになった。期待の中に不安も感じながら和良は、発令後三日目に見送りに来た支店員たちの万歳三唱を受け、盛岡駅を後にした。ポストが器を作るプロセスが名実ともにスタートした。




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