杉野 歴史(近世)

・三教分立時代

1500年に藤島国が崩壊し、島全土を統一する勢力が無くなると、各地で複数の勢力が力を増し、やがて三つ巴状態となった。
それぞれの勢力は別々の宗教を持っていたため、一般的にこの短い時代を「三教分立時代」と呼ぶ。
以下がその3つの勢力である。

1.蒼月李氏勢力(以下、蒼月勢力)
現在の蒼月市を拠点とし、日本の神道を元に周辺の宗教をまとめて杉野で独自に成立した
杉野神道」を信仰していた。
杉野神道の中心地である「蒼月神社」の重役である「蒼月李氏」が集団を率いていた。

2.藤島信仰勢力(以下、藤島勢力)
藤島半島を中心とする島南東部を拠点とした勢力。藤島半島の雄大な自然の中で暮らし、彼らの信じる宗教は自然崇拝・アニミズム(全ての物に神が宿る、という考え)的な原始的な宗教であったと言われる。

3.仏教勢力
南空半島や玖島などの島北部を拠点とし、主に中国から渡ってきた人々で構成された。中国との結び付きが強く、藤島国時代から強い力を持っていた。

3つの勢力はしばらくの間共存していたが、蒼月勢力の支配下であった「蒼月港」が貿易港として発展し始めると、彼らは徐々に力を増していった。

・統一国家の成立

1533年、現・峡地市藤山原区で蒼月勢力と仏教勢力の衝突が起こったことをきっかけに、蒼月勢力と仏教勢力が完全な対立関係になり、1540年には仏教勢力は完全に蒼月勢力の支配下となった。
それと同時期に、蒼月勢力は
八代国(やしろのくに)」を建国。
国土は全域が蒼月神社の荘園とされ、国土管理は蒼月神社のみに置かれた「国宰(ククヌツカサ、こくさい)」と呼ばれる職が行った。

なお、日本の神社にも存在する「宮司」や「祭司」は杉野では「宮宰(ミャーヌツカサ、みやさい)」「祭宰(マツイヌツカサ、さいさい)」と表記される。
これは「宰」は「司」と同音かつほぼ同義で、日本の同様の役職と区別するために別の漢字が当てられたものとされる。
国名の「八代」は、蒼月神社(社=やしろ)を中心としたためや、
数が多いことを表す「八」から、国が長く続くように願ったなど複数の説があるが、詳細な理由は分かっていない。

八代国は成立直後に朝貢国となり、また東南アジアとの貿易も活発に行った。
結果、八代国は成立から10年ほどで琉球に次ぐ東アジア貿易の中心地となった。

さらなる国土拡大を目的に、1545年、八代国は藤島半島侵攻のための征東隊を結成し、
未だ支配下に無かった藤島勢力の領地へ服属を求めて侵攻。
しかし、藤島半島の厳しい自然環境に耐えられず、第一次征東隊は壊滅。
その2年後に第二次征東隊、及びその4年後に第三次征東隊が派遣され、藤島勢力の首都のみを集中的に攻撃していたがどちらも再び失敗。

結果、最初の征東隊結成から12年後の1557年に派遣された第四次征東隊で、藤島勢力の重役や一般市民を含む18名を人質にとり、
「八代国からの財政支援と部分的な自治」を条件に服属させることに成功した。

・八代国

17世紀に入り、琉球侵攻によって琉球王国の外交・貿易が不活発になると、琉球王国に変わって中継貿易の中心地となり大きく発展した。
また、正式な領土ではないが後の船停島や台湾北部も貿易船の停泊地として利用された。
17世紀前半、服属を求め日本から複数回軍勢が派遣されたが、いずれも失敗に終わっている。

またこの時代から、国内で銅が神聖視され始める。この理由については諸説あるが、1615年かは行われた蒼月神社の大改築ではこれまでの日本風建築から中国風建築の影響を強く受けた独自の建築様式になると共に、全ての建物の屋根が銅瓦へと張り替えられている。

1615年の蒼月神社大改築については、外交関係が深まる中で独立国としての威厳を保つためとされている。大改築前の蒼月神社は、木造の小規模な神社であったとされている。

1626年、蒼月港にスペイン勢力が到来した。スペインは八代国を東アジア貿易の中心地とすることを望んだが、明による報復を恐れ植民地化はされなかった。
八代国は国の南方にあった細長の島を大急ぎで平定し、西洋人居留地とした。
その島はスペイン人によって「isla donde paran los barcos(船が泊まる島)」と呼ばれた。その影響で、八代国でも「船停島(ふなどめしま)」と呼ばれるようになった。

17世紀後半、台湾からオランダ勢力が撤退し鄭氏政権が確立されると、八代国はたびたび鄭氏政権へ様々な支援を行っていた。

1683年には台湾が清の統治下へ入るが、八代国は古くからの朝貢国であったため独立状態のままにしていた。
また八代国を独立したままにしていた理由について、清は台湾を「化外の地」としてさほど重要視していなかったため、台湾の大部分の統治を八代国に押し付けるためでもあったとされている。
ただし八代国も、台湾北部を港湾として整備するのみで、南部はほぼ手付かずのままだった。

1854年の日本開港や1858年の清の開港を受け、19世紀末頃にはこれまでのような貿易の中継地としての立場は弱くなっていった。
しかし、八代国の独自の文化は欧州を中心に人気を博し、その美しさから「東洋の真珠」とも謳われた。

1895年に締結された下関条約により台湾が清から日本に割譲されると、同時に八代国も日本に編入され、八代国はその300年以上の歴史に幕を閉じた。

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