見出し画像

神さんとのお仕事㊼ 「信仰、信心とは」

「信仰をしているしていないで人との距離を変えませんが、努力をしているかどうかで力の貸し方は変わります」

信仰をしていれば何事もうまくいくようなことを言っておられる方がおられますが、実際はそうではありません。心なく、感謝なく、努力なく手だけを合わせる人の信仰と、何も信仰をしていない人に神さんは差をつけられることはありません。

このブログでも何度か書いていると思いますが、「宗教に属して信仰をしていることが尊い」と思っておられる方が多くおられます。確かにしっかりと信心をして心穏やかにおられる方もおられますが、大半の方はそうではなく「何かの言い訳を作るために」信心をしているフリをされているように感じます。

なぜそう感じるかというと、本気で信心をすれば教義の先にある「深み」の部分に少しずつ入り込むはずなのですが、フリをされておられる方はほとんどが「誰かの言っていたこと」か「教えてもらった教義の暗唱」しかされないからです。簡単にいえば「入信した時から成長をされていない」のです。そういう方を神さんは、

「信仰をしているフリで安心している人」

と言われます。僕も神さんから「人間が浅い」とよく怒られますが、信仰のフリをしている人は人間が浅い僕からしても「言葉が薄っぺらく」感じるのです。自分で考えた末に出てきた言葉には重みがありますが、聞いた話のひけらかしには重みは出てきません。ましてや宗教に所属をしているだけで安心している人の生き方には、答えをもらった末の行動しかないので何一つ重みはありません。

神さんが言われる「努力」の定義には、自分で考え迷いながらも行動をすることも入っています。

宗教に属しもらった教義の教えどおりに動いてもなんの「努力」もしていないことと同じだと思ってください。そのようなことだけされておられる方に神さんは力を貸すことはありません。逆に宗教に属していなくても、これは正しいのかと常に考え進んでおられる方ののほうが「努力」をしておられるので神さんは力を貸されます。

信仰や信心は、かりそめの「正しい」を手に入れただけで本当の「正しい」ではありません。本当の信仰や信心は、宗教からいただいたかりそめの「正しい」を自分の生活環境に落とし込み、常によりよくなるよう「自分なり」に変化させていく行動なのではないかと思います。

最近は大きな集団に属することで大義名分を得たと勘違いし、成長を止めておられる方が多いように感じます。どれだけ大きな集団に属しても、評価を受けるのは個であることに変わりはありません。ほとんどの方は集団に紛れることでその個を磨くことを忘れ、紛れていることに安心感を覚え動かなくなっています。そういう人たちを一部の頭の切れる人たちは上手く煽動して、いいように使って資産を増やしているのです。努力をしないでいい分、いろいろ搾取されていることに早く気づいてください。

自分の名前で評価を受ける。

肩書や所属先や地位が外れても、一人の人間として恥ずかしくないよう生きることが信仰や信心の一つではないかと思う今日この頃です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?