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エゾヒグマ

《950文字》
北海道大雪山のとある山での出来事だ。
それは山肌にも登山道にも雪渓がびっしり着いた残雪期だった。
下山時、本当は良くないのだけれど私はルートをショートカットしようと思って登山道がある付近から外れて雪渓を下り始めた。
そこそこの急斜面で、登山靴でスキーをするように滑り下りる事ができる。
これを登山用語でグリセードと言う。
とても楽しいしラクチンだ。

その時、斜面の下の方を小さな丸い黒い影が横切った。
仔熊だ。ヒグマの仔だ。
やばい。やばいぞ。
心臓が早鐘を打つ

案の定、「ウゥゥゥ…」という低い唸り声が聴こえてくる。
母グマが威嚇してきているのだ。
近づくなと。
地鳴りのような低い唸り声がわりと近い位置から響いて来るように感じた。
斜面の下から獣臭を含んだ風が吹き上げてきた。

全身の血が逆流するような恐怖心に反射的に斜面を駆け上った。
けっこうな急斜面なのだが、狂ったようにピッケルを雪に突き刺しながらそれまでの人生で出した事のないようなスピードで駆け上った。
あれこそが火事場の馬鹿力だろう。
登山道付近まで戻っても、へたり込む事もなくそのまま駆け下るように下山した。

仔連れのヒグマは大変に気が立っていてとても危険だ。
北海道のヒグマは本州のツキノワグマの2倍以上の大きさがあり、時速60kmで走る。
人間が走って逃げられるわけがない。
まして襲われたら命が助かれば相当運がいい。
雄の成獣など立ち上がれば3mにもなる。

ヒグマに遭遇したらどうするか。
絶対に背中を見せてはいけない。ヒグマは本能的に必ず追って来る。
ヒグマの目をしっかり睨みつけ、小さな声でぼそぼそと何か喋りながら静かに後ずさりしゆっくりその場を離れる。
絶対に叫んだり走ったり急な動きをしないこと。

万が一襲って来たら闘うしかない。
パンチ一撃で首がボールのように吹っ飛ぶ。
皮膚と脂肪が分厚いのでナイフを刺しても致命傷にはならない。
鼻先や目を狙ってナイフや鉈を刺すというより全力でぶっ叩く。
運が良ければ命くらいはギリギリ助かるかもしれない。
丸腰なら身体を丸めて少しでも内蔵と首を守り、あとは神様仏様に祈るくらいしかない。

北海道の山ではヒグマが王者でありアイヌにとっての神だ。
畏怖の念を決して失ってはいけない。
できるだけ遭遇しないよう工夫して共存しなくてはいけない。

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