「この世界は自分の脳が作り出したものでしかない」と受け入れることが自由の第一の源泉
私たちは、客観的な現実を生きているわけではなく、脳が作り出した個人的な・主観的な現実を生きているということについて。
脳は、作話しているという話があり、私はこれは事実だろうと素直に受け入れます。
つまりは、こういうことです。
五感を通じて私たちはこの世界を客観的なものとして把握しているわけではありません。
むしろ脳が補完した「現実」を生きていて、それ以外の「現実」というものはありえません。
例えば、視覚を通じて正確に目の前のものを見ていると思うわけですが、実際はほとんどのものを見ていません。
ほんの視界にはいるもののうちの一部を知覚し、あとは「目の前のものはこういうふうになっているだろう」と補っているだけで、実際には脳は逐次目の前のものを処理していない。
仮に今目を閉じたところで、周囲のものがどのようなものだったのかを正確に描写できる人はいないはずです(描写したところで、それは知覚したものではなく、過去の記憶や想像によって補完されたものでしかないはずです)。
これは単純に視覚だけの話ではなく、私たちの生きている現実そのものが、このような脳の無数の補完の連鎖によって成り立っているもの、
あるいはもっと端的に定義してしまえば、脳が脳の思うように作り出したものでしかないはずです。
もう少し抽象的な領域でいうと、解釈というもの自体が、そもそも脳の補完作用によるものでしかなく、例えばある出来事についてのそれが何であるかという解釈は、無数にありうるわけです。
BGMが流れているとします(今流れているのですが)。
アップテンポのBGMで、それを耳障りと捉えることもできますし、
文章を書くにあたってアップテンポのほうがキータッチが進むと捉えることもできます。
あるうまくいかなかった先週の出来事を失敗だと捉えることもできますし、
自らの糧として貴重な出来事と捉えることもできます。
捉え方によって、空間そのものがまるで違うものに瞬時に変化します。
すべて脳のなせるわざです。
既製のものとして、客観的に用意された世界は存在しない。
目に見えるものも、目に見えないものもすべて、脳の解釈次第だ、
そのように振り切って考えることは、心もとなさにもつながりえますし、
同時に非常な自由にもつながりえます(これもまた選択次第)。
メタバースという言葉が流行っています。
若干マーケティング的なバズワードの様相も感じますが、
VRの進化によってあたかも現実と区別のつかない体感を、
今後もたらしていくことになると予想されます。
現実というものが、より曖昧になって理解されていくこと不可避でしょう。
究極的にはこの世界は、メタバースと等価のものというと言い過ぎでしょうか。
そのように考えることは、
外部の世界に糸を引かれて、用意されたレールを走っている人々には、
つまり外発的なモチベーションによって動かされている人には、耐え難いことかもしれません。
反面、内発的なモチベーションによって突き動かされている人にとっては、
自由と力をもたらし、行動の源泉となりうるものだと思えます。
もっと自由に描き、解釈してしまっていい。
なぜならば、そもそもがそのようなものだから。
世界はそのようなものでしかないから。
すでに自由に生きている人にとっては何も目新しい考えではなく、
ごく自然に受け入れている「事実」なのだと思えます。
無数の五感すべき、解釈すべき対象が周囲いっぱいに広がっている。
脳は順次補完して解釈していきます。
そのときに、ただダラダラと嫌々と渋々と惰性のままに解釈するのか、
あるいは自分が望む軸をもって、
その軸によってワクワクと生き生きと向かい合っていくのか、
それらすべて自分次第であり、自分の責任ということになります。
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