真理追求(科学)と宗教と、成功哲学について

大袈裟なタイトルを書きましたが、備忘録として。

さまざまな分裂・亀裂が席巻するする世の中、徒然とメモ。

それぞれを私なりに定義しているフレームがあるのでその整理。

真理の追求は終わりのないものであり、着地の見られないもの。
宇宙論とか量子論とか、科学による知見で示唆されるものはあっても、そこに着地としての「解釈のないもの」を私は科学だと捉えています。

反面、そこに「着地を見出すもの」が宗教であり成功哲学。

着地を見出すその地点その様において二分され、

「何もかも把握している「教祖」を想定するもの」が、宗教。
つまり、社会・世界全体の正しさを解釈する存在を想定し、彼の定義するものを個々人の意見よりも重視・期待した時点で、それは「宗教」。
彼の意見の絶対性を求める類のもの。

同じように「途中で着地を見出し(真理追求から離脱し)、現世利益を着地とするもの」を「成功哲学」と捉えています。

雑多なものを特定の視点によって三つにあえて単純化しているフレームなので、
当然それぞれは重なりあいます。
(「スピリチュアル」なものにおいては、これらは混沌としているところもあります。そして自分は「宗教」的なものについては、否定的な分、こういうフレームをもって物事をみている部分があります)

この投稿はこのフレームの整理でしかないわけなので以上なのですが。

ここからは雑感として、

不寛容な世の中になっているなと思うのが、人々が「宗教」を求める風潮。

誰かが何かを言ったとして、行なったとして、それはただの小さな一個人の表出でしかないわけです。
全世界を担う「教祖」でもない一個人の言動に対して、完全な解釈、全ての言動が一致する思想、全てのお手本(時として全ての問題を解決する言動)を期待してそのギャップを叩く、など。

「教祖」を求めているわけでもなく、信者になりたいわけでもない。
むしろ、「宗教」なんて価値あるものとしてはいけないもの。
本来、誰かに全面的に正義など明け渡してはいけないものなのに、
そんなものを人に求めている時点で、よほど不安定な生き方をしているのだな、と感慨深く雑感。





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