愛されれば価値があると信じていたから
恋愛依存度の高かった私が
こんなに静かに生活してるなんて
以前の私にどう想像できようか。
男の子たちとの交流を絶ってからというもの
私の毎日はどうなったかというと、
ものすごく穏やかになった。
彼らの行動や反応や言動と自分
がキレイにスパッと切れたからだ。
あれから彼からLINEが来たり
連絡が来たりもするけれど
やはり考えた末、返信するほどでもないとの結論になり、既読スルーという返答が妥当だと判断。
それは彼らへの当てつけでもなくて
彼らの「独り言」に私がもう付き合わずとも良い
という気持ちになったからだ。
男女の関係というものは
肉体の関係も含め、双方のコミュニケーションのうえに成り立っていて、キャッチボールをするかのように相手と自分がいるからその行為が成立している。
どちらかがそれに飽きたら
もうキャッチボールは成り立たないのだ。
私の場合は
好き放題な場所に投げるコントロール力のない暴投をする男、
もしくは私の方ではなく壁に投げる男、
または自分のフォーム確認ばかりしていていつまでもボールを投げない男など…
キャッチボールまともに出来るやつおらんのか
という気持ちになったからであーる。
いや、むしろ
私自身が過去に男たちとキャッチボールをするなかで、自分のテクニカル面が上達していったに違いない
キャッチボールという恋愛ゲームは
相手としているように見えて実は
自分自身そのものを知り、ふりかえり、極める行為であるから。
私は男の子との付き合いで知った
▫️愛される女でいなければ、という力み
▫️愛されて価値のある自分でありたい、という力み
▫️愛されて安心したい、という力み
▫️運命の人に出逢ってもう頑張らないでいいという場所を見つけたい、という力み
愛されたらもう頑張らなくていい
愛されたら価値を証明できる
私はきっと恋愛ゲームの末にこんな賞品を勝ち取りたかったのだと思う
つまり、私も彼らと同様に自分の「独り言」
を同じ時間のなかで呟き続けていただけなのだと思う。
それらを証明するために、勝ち取るために
実のところ彼らは必要なくて
自分自身と向き合うことで手にする事が出来るのだと、、疲れ果てた後に はたと気付いた
だからもう
私に彼らは必要ではなくなったんだなぁ。
改めて思う
私たちは愛を見つけようと外の世界に目を向け
必死に期待に応えよう、好かれようとするけれど
その外の世界の人達も私と同じように
自分の独り言に必死で夢中になっている最中なのだ、と。
完璧にやろうとしなくていい
ちゃんとしようとしなくていい
間違えてもいい
また間違えても大丈夫
相手の期待に添えなくても
自分の思ったのと違う結末になったとしても
今の歳の自分が予定よりも成長してないと感じたとしても
あの人より素晴らしくなれていなくても
全然気にすることないんだ
人間はみんなどこかが未熟で不完全だ
そんなもんだ
完璧だから好きなんじゃない
不完全だから可愛らしくて愛おしい
自分が弱いからこそ、守ってあげたいと誰かの生き甲斐になれているかもしれない
そのまんま
いまの自分
すっぴんの私
飾らない等身大の自分で生きる
無理しない
焦らない
比べない
そして自分のことを素晴らしいとも思いすぎないことだし、自分のことを卑下しすぎないこと
みんな自分に精一杯で生きてるんだ
そんなに完璧主義になっていたら
一体いつ人生を楽しむ時間になるんだ?
いまの私は
かつて追いかけていた理想の自分を追うことを完全にやめた
敗北したのではなく
「理想」という「妄想」に取り憑かれていた自分を手放したのだ。
人が私をどう言うか知らん
人が私をどう思うのかなんて知らん
でもいつだって私は自分のことを
「うん、いいぞ。いまの私はなかなかだぞ」
と思っていられるように生きていきたい。
なんか断捨離したみたいに気持ちがすっきりとしていて心地よい風が吹き込んでいる。
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