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【小説】暗流~アンダーカレント~ 第六話(完)

 梅田の兎我野町に駆けつけたころには、暮色が迫っていた。ホテルや風俗店が軒を連ねているエリアで、日没とともにやっと街が動き出した感じだった。キャバ嬢らしき派手な身なりの女や、陰険な顔つきをした男たちが我が物顔であたりを闊歩している。タクシーが何台も往来を行き交っていた。
 リョウと村井はファミリアの中で、前部座席に肩を並べていた。フロントガラス越しに、なぎさと宗一が入ったというホテルのエントランスがうかがえる。
 待ち構えているあいだ、リョウは藤堂から聞き出した話を、村井に伝えた。
「戸崎は、生まれて間もないリョウを邪魔に感じて、殺そうとしたんか……」
「きっとおふくろは、おれをかばうために戸崎と一緒に大阪へ行くしかなかったんだ」
「なんちゅうやっちゃ……。しかもいくら悪党とはいえ、藤堂という恩人を陥れた。さらにはみどりを殺し、実の娘のなぎさをペットみたいに飼うてる……。同じ人間とは思えへん」
「だけど、なぎさは戸崎の目を盗んで、宗一と会った。なぎさはどうするつもりだろう」
 そのとき、なぎさが一人でホテルから出てきた。おぼつかない足どりだ。彼女はあたりを見廻して、タクシーを停めようとしている。
 リョウと村井は車から飛び出した。
 両脇から彼女を押さえた。なぎさは短い悲鳴を上げて、膝から崩れ落ちた。
「……パパに会わせて……」
 アスファルトの上に彼女のハンドバッグが落ち、派手な音を立てた。中から、化粧ポーチや財布にくわえて、血濡れたバタフライナイフが転がった。よく見ると、彼女の着ている服にも血が点々と飛んでいた。
「ムラさん、中の様子を見てきてくれ」
「わかった……」
 村井がホテルに飛びこんだ。なぎさは彼の背中を呆然と見送ったあと、顔を伏せた。
「宗一を殺したのか?」
 なぎさは頭をもたげた。顔は血の気を失ったように一層青白く、唇はわなないていた。
「……あいつが、私に、逃げろって。逃げなきゃ、殺されるって……」
「一体どういうことなのか、説明しろ」
 なぎさは深呼吸をした。観念したようだった。
「……二年前、私は麻薬を使って友だちを死なせた罪で服役した。でも、その場にはもう一人、男がいたのよ」
「それが松田宗一だったわけだな」
 宗一は、その場にいないことになったらしい。府知事は口止め料として、戸崎に月二百万を払うようになった。そして戸崎の経営する賭場を、府政が守ることを約束した。だが先月、府知事は再選されたことで態度を変えてきた。
「松田宗一は、パパや私には当然近寄ってこなかったし、近寄ることを固く禁じられていた。それなのに、最近になって接近してきたの。今日、大事な話があるといわれて、やつの誘いに乗ったの。そうしたら、府知事が私を始末しようとしてるという話を聞かされた。あいつは私に、どこか遠くへ逃げろといった。私がそれを拒否したら、あいつは私を無理に抱こうとして……」
「どうして逃げるのを拒んだ? あんな父親のもとにいるよりマシだったろ」
「パパは、私のすべてよ。私だけを見て、私を救ってくれたの」
 彼女の目は真剣だった。
「そのタトゥーは……自分で入れたのか」
 なぎさはうなずく。タトゥーの彫られた前腕を、服の上から左手で撫でた。
 ホテルの自動ドアが開き、村井が出てきた。
「大丈夫や、傷は浅い。部屋で気を失ってるだけや。いま救急を呼んでる」
「ムラさん、この子を頼む」
「リョウは……?」
「戸崎に会いに行く」
 
 午後七時。《アンダーカレント》のベルを鳴らしたが、応答する者がいない。重いドアを押した。ロックは解除されていた。目の前には、戸崎の広い背中だけがあった。彼はひとり、カードの散乱したバカラ台の前に腰かけ、ウイスキーの入ったグラスを傾けている。
 リョウはピアノの前に座った。鍵盤蓋を開き、曲を奏ではじめた。切ない音色が店内に響き、染み渡っていく。
 戸崎がピアノを弾くリョウを見返った。「……『酒とバラの日々』か。映画は観たか? おれの一番嫌いな曲だ」
 リョウはピアノを弾きながら、戸崎から目をそらした。いつもは閉め切っているカーテンと窓が開け放たれ、遠くに星くずを散らしたような難波の夜景が見えた。
「おまえもプロを目指していたのか」
 リョウは窓外から手もとの鍵盤に目を落とした。「おれも、あんたと同じように、人を殺そうとしたことがある」
「……?」
「東京の大学に通いながら、ジャズのライブ活動をするセミプロだった。スカウトされてプロになるやつもいたが、おれには声がかからなかった」
 リョウは静かに語る。
「あるとき、いくつかのバンドが対抗するかたちで完全即興のフリーセッションイベントが開催された。その演奏中にゴタゴタがあって、ブレークダウン(演奏中断)した。どこからか噂を聞いていたんだろう、おれを指差して、『孤児院上がりの素人にピアノを弾く権利はない』といったやつがいたんだ。おれはそいつを、ステージ上で半殺しにしてやった」
 戸崎は悲しげな目でリョウを見た。
「そいつは死にはしなかった。おれを訴えることもしなかった。だけど、おれはもうプロとしてピアノを弾ける気がしなくなった」
「孤児院上がりの素人か」戸崎がつぶやいた。
「あんたのやったことは、藤堂という男から聞いたよ」
「……おれを恨んでるか?」
 曲を弾き終えたリョウは、戸崎の隣に腰を下ろした。
 戸崎は立ち上がった。バカラ台を廻って、ディーラースペースに立った。台を挟んで、リョウを見下ろす。
 リョウも目を上げて、戸崎を睨み返した。「一戦やろうってわけか?」
「おれはもうじき逮捕される」
「ここに五百万ある」リョウはクラッチバッグを指で叩いた。
 戸崎は散らばったカードをすべて捨てた。サイドテーブルから新品のデッキを持ってきて、封を切る。華麗な手さばきでシャッフルをした。入念に切り終え、手もとのシューターにおさめた。
 二人のあいだに、吐息さえ呑みこんでしまうような沈黙がおとずれた。
 リョウはホープをくわえて、火を点けた。ダンヒルの金属音が、その場に漲っている緊張をさらに高めたようだった。
 リョウは冷酷なまでの眼光で、テーブル上を見つめた。燻るホープが燃え尽きて、灰と化した。
 右手でクラッチバッグを持ち上げる。それはテーブル上の〈PLAYER〉でも〈BANKER〉でもなく、〈TIE〉と書かれたエリアに置かれた。
「タイ(引き分け)に賭けるやつを見たのは、ひさしぶりだ」
「あんたの気迫に敬意を表したのさ」
 戸崎が人差し指の一本を使って、シューターからカードを一枚ずつ引き抜いた。
 プレイヤーに二枚、バンカーに二枚のカードが伏せて置かれた。
 ディーラーの戸崎が、プレイヤーのカードを一気に開いた。
 3と6だった。合計数は九。
 次にバンカーのカードに手をかけた。
 一枚目は8。
 戸崎が二枚目のカードを摘み上げた。「……おまえは頭がいい」
 戸崎がカードを指で弾いた。リョウの目の前でカードは廻転し、表向きに倒れた。Aだった。
「金のかわりに、質問に答えろ」リョウは両肘をテーブルについたまま、戸崎を見上げる。「おふくろを殺したのは、おまえか――」
 戸崎は目を閉じて、首を縦に振った。
「なぜだ」
「おれがなぎさを愛したからだ」
「…………」
「女子音大生死亡事件が起きる前に、おれはなぎさを犯した。だが、すぐに後悔した。なぎさには酷く恨まれ、みどりは実の娘に嫉妬した。なぎさが出所したあと、ピアニストとして行き場のないなぎさを、店で働かせた。同時に、松田から口止め料を受け取ることで、摘発を恐れて店を転々とする暮らしからも逃れられた。順風満帆に見えたが、おれはなぎさから離れられなくなった。酒に溺れてわめき散らすみどりを前にしたとき、魔が差した――」
 開け放した窓から、パトカーのサイレンが聞こえてきた。
 ドアが開けられ、大勢の警察官が駆けこんできた。
 戸崎がリョウの顔を見て、いった。「警察を呼んだのはおれだ。一人の殺人犯がここにいるってな」
 戸崎は彼らに向かって両手を差し出した。
 ビルを出ると、パトカーが数台停まっていた。ひと気のなかった通りに野次馬が押し寄せている。廻転する赤色灯が通行人を寄せつけまいとしながらも、逆に好奇心を刺激していた。
 戸崎はパトカーに乗せられた。テールランプが遠ざかり、角を曲がって見えなくなったとき、リョウの肩に手を置く者がいた。村井だった。
「……大丈夫か?」
「ムラさん、あんたの執念が実ったんだ。おめでとう――」
 上空には満月が浮かんでいた。やがて黒雲が忍び寄り、その円い輪郭をぼかしはじめる。雲に覆いつくされて月が姿をくらますと、暗い空が街にのしかかった。
 リョウは感情を失ったような空漠とした目を前に向け、足を踏み出した。
「どこに行くんや?」
「さあ。おれは股旅のばくち打ちだからな」
 リョウは難波の雑踏に吸いこまれた。
 
 
 一ヵ月後、なぎさが自宅マンションから投身自殺をした。がらんどうとなった部屋には、リョウに宛てた遺書が残されていた。

『父が母を殺したのではありません。私が殺しました。あなたを殺そうとしたのも父ではありません、母と関係があった藤堂です。あなたと私は、実の兄妹なのです。母はお酒を飲むと、人格が変わりました。男なら誰でもよく、自分で自分を貶めるような女でした。父はそんな母を許し、誰よりも愛していました。あなたは何も知らずに、父を追いつめました。そして、私の父への愛を不純なものとしました。あなたは、周りのすべてを汚した、母の分身なのです』

(了)


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