宗教単元
事前課題
課題図書を読み、自分が思っていた「宗教」のイメージとの違いを話し合ってまとめてみておいて下さい。
※課題図書:立花隆『臨死体験』(上下巻)
宗教のイメージ
日本人はあまり信仰していない。
多くの人に「危ない」や「怖い」などあまり印象が良くないと思われているもの
近代以前の大きなパラダイムともいえるもの
宗教自体に悪はないが政治的に利用されることや紛争につながることもしばしば
キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、オウム真理教、エホバの証人、統一教会、創価学会・・・
税金がとられない
人をある意味で「狂気」を生み出すもの
広義の「宗教」であれば、身近な「推し活」や「恋愛」もそれに内包される。
絶対的なもの
よくわからないもの
(よくわからないからこそ)イメージが1人歩きしているもの
現代日本において、○○教を信仰しているとはなかなか言いにくい。
政治的立場くらいに触れてはいけないタブーなもの
哲学や倫理との違いがよく分からない
宗教のイメージ(臨死体験を読んで)
臨死体験などある意味で「科学」では捉えきれていないものの解釈を担う存在。
「生死」に立脚しているもの。死生観と結びつきが強いもの
病気や死など生きる苦しみから逃れるために生まれたもの(死を肯定している面もあったように思った)
論理を必要としないもの
世界の解釈をしたもの
臨死体験終了後にあれが何だったのか各体験者がもった解釈・信じているもの
上に宗教のイメージをつらつらと書き連ねてみたが、読了後宗教のイメージが大きく変わったわけではない。何故講師はこの著書を宗教理解にあたって課題図書としたのか常に問いながら読んでいた。ただし、宗教を論理を必要としない「絶対的なもの」と定義したときに少し重なる部分もあった(LAP同じチームのメンバーとの対話の中で気づかせてもらった部分も大きいが)。私たちは日々生活する中で、必ず悲しいことや苦しいことに出会う。そういった苦しみの中で最も面倒くさいのは「わからないこと」なのではないかと思う。人は知的好奇心を持ち、誰しもが学ぶことを根源的に求めている生物だと私は考えている。何かを人は信じないと生きていけないのである。「わからないもの」をわからないとしてそのままにしておくことができないのである。どうやったら火は起こせるのだろうか。どうして、物は落ちるのだろうか。どうしては人は死ぬのだろうか・・・。わからないことを一つ一つある意味でその時代その場所で「信仰」できる解釈で私たちは心の平穏を求めてきた。ある人にとっては、それが恋人であり、家族であり、金であり、モノであり、科学であり、宗教であった。そういったわからないものに説明を加えることで何となく納得したように考える。宗教と科学では全く説明の仕方が異なるし、その手法も大切とされる規準が異なる。「臨死体験」もまた「死」と近いところにあるが、わからない対象・体験だったのだろう。それを心理学や科学的見地をもってしてもあまり解釈しきれない。そういった説明ができないものに対して、「絶対的な存在」を導き「論理」という説明を不要にした説明、それが「宗教」なのではないだろうか。例えば、因果関係を導いてきたときに「AならばBである」という説明をしたとき、Aが変化したらBも変化する。そんな簡単に説明がコロコロと変わってしまっては困る。こちとら不安なのである。変化するものでは、変化するものに向き合うことはできないのである。いつの時代も、どこでも通用する「正義」が私たちは求めている。その中の一つが「宗教」だった。普遍的で不変的、120%正しくて、めちゃんこ凄いんだ、という狂信的な信仰を基盤とした「絶対的な解釈(≒神)」が宗教のように私には思われた。
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