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おばちゃんが涙もろいワケを考えた。

歳をとって涙もろくなった。
よく聞く話である。
「犬も歩けば棒に当たる」と同じぐらい、聞き古されて
ろくに意味も考えずスルーしてしまうほど、よく聞くセリフである。
が。50を過ぎて、所謂おばちゃん真っ只中の私は
ここ数年実感が激しく、このセリフをスルー出来なくなっている。

思えば最初の異変は、テレビ番組を見て泣くようになったことだ。
私は若いころ、「はじめてのおつかい」という番組があまり好きではなかった。
偶然目にすることがあっても、すぐにテレビを消すか、チャンネルを変えていた。
興味がなかった。むしろくだらないとさえ思っていた。好きな人ごめんなさい。
ところが最近になって、何気なく見ていると。
・・・突然涙がこぼれてきたのである。自分でもびっくりだ。

幼子が財布を握りしめ、お店の人に拙いことばでほしいものを告げる。
なかにはうまく伝えられず、目的のものを買えないピンチに陥る幼子も。
思わずテレビの前で、「違う、そうじゃない」を叫ぶおばちゃん。

そもそも、
「お肉屋さんに行ってひき肉を300グラム、お菓子屋さんに行ってお饅頭、郵便ポストにお手紙投函」
などというミッションが過酷すぎる。
実際にこのようなミッションがあったかどうかは知らない。知らないが、
なにせこの番組では、幼子はみな、こういった複数の指令を受けるのだ。
はじめてのおつかいにしては厳しすぎる内容ではないか。
いったいどういうつもりなのか。

やっと買えたと思っても、幼子には重いであろう荷物をアスファルトに引きずりながらの帰り道。
引きずられる袋の中身が心配で仕方ないおばちゃん。

あろうことか、そんな過酷ミッションを自分よりもさらに幼い弟(妹)を連れてこなす幼子まで現れる始末。
無事におうちに帰ってきた暁にはそりゃーあなた、
おばちゃん涙のスタンディングオベーションですよ。

私が泣けるのは、
幼子が頑張っている、それだけではなく
当然ではあるが、ミッション中に何事もないよう
おびただしい数(に私には見える)のテレビ局のスタッフが、
ある者は買い物中のおばさん、またある者は電気工事のおじさん と
一般人に扮して、バレバレの警護をしている様子。これに感動するのである。
(この感情、みなさまに伝わるものか・・・)
番組のためとはいえ、おとなたちが幼子を全力で守っている姿。
しっかり守られた中で、(そうとは知らず)必死で頑張る幼子。
大丈夫。君は守られているからね。ミッションにのみ集中していいんだよ。
「し~んぱ~いないからね♪」脳内に鳴り響くKANさんの歌声。(大好きでした。合掌。)
とにかく見ていると心があたたかくなるのである。

これは自分が子育てを終え、小さかった頃の我が子を思い出したりするからなのだろうか。
そんな単純な理由なのだろうか。
しかしそう考えると思い当たる節がいくつかある。
例えばテレビで出産シーンなどを見ると、それがドラマであれドキュメンタリーであれ、一発で涙腺崩壊である。
保育園でサンタの登場に狂喜乱舞する子どもたちや、
秋田のなまはげに襲われ(?)
「いい子にします!いい子にします!う~あ‘‘あ‘‘あ‘‘あ‘‘~~~~~!!」
と泣き叫ぶ子どもたち
挙句の果てには、ニュース番組で
「地元の高校生が地産地消を学び、自分たちで開発した商品の販売会を道の駅で行いました」(→ありがとうございましたー!!と笑顔で頭を下げる生徒たちの映像)
なんて様子が映っただけで泣けてくる。
泣きながら自分で笑ってしまった。
なんでこんなことで泣いてる?私。

子どもたちが、若者が、なんか頑張っている
もはやそれだけで泣けてくるのだ。

余談ではあるが、
いつぞやは近所の農業高校の生徒たちが、
「わたしたちが育てたシクラメンです!」と授業の一環で訪問販売に来た時には
植物を育てるのが致命的にヘタな私だが、
どうしても彼らに報いたく、一鉢買ってしまった。
寒い季節に、うら若いお嬢さんや口下手な青年が、
一軒一軒知らないお宅のピンポンを鳴らして回り、お花を買ってほしいだなんて。
無下に帰すことなどできなかったのである。

私が目にするそれぞれの彼らが、どんなふうに頑張ってきたのか想像する。
もしかしたら嫌な気持ちになったりもして、決して前向きで明るい気持ちじゃなくても
もっと言えばたいして頑張ってなくて、別にただなんとなく、やらされているだけの行動だったとしても
まだ若く成長途中の彼らが過ごしている日々を。
たぶん当の本人はそれほど重要視せずやり過ごしている時間を。
おばちゃんはすごく良いと思うのだ。

いいね。
今は何とも思ってないだろうけど、
それ、かけがえのない思い出になるよ。
おとなになったら、きっと思い出して、心がきゅっとなるよ。
頑張ったことはもちろんだけど、頑張らなかったことも、無駄に過ごした日の事も。

若くて未熟で浅はかで。
元気で瑞々しくて勢いがあって。
そんな素晴らしい日々を、今まさに生きている。
そんなことに気づいてもいない彼らが運んできてくれる空気は
生き生きとして、苦しいほど眩しい。

自分もこうだったなあ。我が子もこうだったなあ。
人は歳を重ね、いろんな経験をすることで
「共感」の材料が少しづつ増えてゆくのだろう。
おそらくその共感が、心を動かすのだ。
・・そう。「心が動く」んだなあ。
おばちゃんになって、毛穴やらなんやらが緩むように物理的に涙腺が緩くなったわけでは決してないのだ。

心が動いてしまう、結果、涙が出る。
しかし若い頃はこんなことで泣いたりはしなかった。
では若者は心が動かないのか。いや、そんなことはない。
感受性豊かでナイーブ、そしてはちきれんばかりに若い彼らである。
そりゃあ動きまくりであろう。
こんなおばちゃんなど比べ物にならないほど、躍動しているに違いない。
心が動いて涙が出るなら、四六時中涙が止まらない事態になるはずだが
そんな若者など見たことがない。

ではなぜ「歳をとって涙もろくなった」と感じるのか。
私の場合、目の前に共感し理解できる事象があり、
そしてそれが自分にはもう二度とやってこない時間であることを思い知る
その、ノスタルジアが涙を誘うのだ。
おばちゃんになればなるほど、「懐かしい」と思うこと・ものは増える。
若者が心動くとき、「懐かしい」という感情よりは
「わくわくする」とか「新しいことを知った感動」とか、そういったことの方が多いだろう。

ひとりごとのように思いついたまま書き始めたのだが、
書いているうちになんだか腑に落ちた。
思うだけで泣けてくるほど懐かしいことが増えてきたなんて、
寂しいような、幸せなような。
片手間に冬至カボチャを煮ながら書き上げた、今日のnoteであったとさ。









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