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匂いが宿る場所

秋が来た。これから雨が降る。今日は晴れそう。

季節の変わり目や天気の様子は、ネットやTVの情報よりも五感、特に嗅覚に頼る癖がある。

上京してから6年、住み始めてからは約2年。癖を頼りに傘を用意し降水確率は東京に来てからも大体80%くらいを誇る私の嗅覚だけど、最近どうも鈍っているようだ。

私が生まれたのは茨城県石岡市というところで、東京から車で行くと2時間くらいの場所。渡辺直美ちゃんが生まれ育ったということ、秋にでっかいお祭りがあるということ、駐車場は大体どこの店も結構広いということくらいしか私には紹介ができないのだけど(いやもっとあるはず)、住んでいた地域には林や神社があり、超自然に毎日森林浴ができるほどの山々なんかもある、いわゆる”田舎”だった。

小学生の頃はよくどっかの家の竹藪をくぐり抜けて、ショートカットして汚れながら登校していたり、学童では森へ、木苺や筍を狩りに行って遊んだりもして、野焼きの匂いを嗅ぎながら帰路に着くのが日常だった。

いつも嗅ぐ帰り道の匂いは、その時の感情によって変わる。

親に怒られると構えながら歩いている時は、空気を吸っても吸っても緊張が解けなくて、生ぬるい匂いがした。友達と上手くいかなくて落ち込んでいる時は、とても暗くて、焦げ臭い、晴れない匂い。好きな子と沢山話せて嬉しかった時は、まだ太陽の匂いが残っているような、爽やかな匂い。

10年以上前のことなのに、ここまで記憶しているとは自分でも驚いているが、その時々の匂いは一番思い出の便りになるのだと思う。時々の匂いを知っているからこそ、『ああ、自分は今こういう感情なんだ』と気づくきっかけにもなる。感情で匂いが変わるというか、天候の変化に限らず、空気の匂いで自分の感情に向き合いながら帰っていたのかもしれない。

さて、冒頭にも書いたが、今は昔ほど嗅覚は優れていなく、毎日毎時間同じ匂いを感じて過ごしている。思いに耽るというか、感情に耽ることが少ない。今もぼーっと東京の曇り空を見て、車の走る音を聞きながら書いているが、そこには気持ちをくすぐってくる匂いが存在しない。嗅覚が反応しないからなのか、なんだか上手く、常々感情と向き合うことができていない。

ネット上やSNSで人と繋がって、気持ちを落ち着かせることはよくある。でも、情報を得られるだけで、それってまだ自分の気持ちをよく知る一歩には繋がってないんだろうな。情報にすがるだけじゃ、悲しいとか、苦しいとか、素直な気持ちも置いてきぼりだし、自分と向き合った心のログが残せない。

東京って土とか自然が少ないから、こんな平坦に生きてるのかな?と極端な結論を冒頭書いている間は編み出しそうだったけれども、嗅覚が劣っている、感情が汲み取れない、と思う理由としては、ただ単に自分に向き合える場所を認識していなかっただけなのかもしれない。

匂いが宿る場所にはその分、忘れられない思い出のシーンが作られる。今はまだコロナ禍で外へ繰り出すことは難しいけれど、匂いから自分の感情を探れるように、感じ取りやすいなと思う場所に行きたい。畑の野焼きのように、人の暮らしぶりが匂いで感じ取れるような場所でもいいし、朝パンの焼く匂いが街から溢れてもいい。匂いに限らずだけど、素直に感じ取りやすいものがあることが、居心地の良さを作っていくんだろうな。


#暮らしたい未来のまち

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