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『きみの色』観た

『きみの色』観たので初見感想を。

詳細端折ってもtwitterだと長くなりそう、かつ意義深いものでもなく、ただどこかへ書いておきたかったのでここへ書いておく。

一言で言うと「祈りのある作品」。

『ルックバック』観た直後にも同じこと思ったのだけど少し違う。
まぁ祈ってるシーンが多いとか(実際多いが)そういう意味ではなく作品自体がそうである、そう意識させる構造になっているということ。どういうことなのか考えながら書く。

物語自体は全くもってハッピーと言うに相応しいものでしかない。大好きな人と仲良くなり、紆余曲折あってバンドを組む。自分にしか無い才能やセンスのはけ口を得て、好きな人と好きを共有し曲を作り、文化祭で発表する。数え役満みたいな幸せそのもの。


仮に「青春もの」と言った場合に多くの人が想像するであろう軋轢や摩擦や痛みなんかがほとんど無い。無いというか薄められて描写されないと言った方がいいのか。

ただこう言うと同監督の過去作『けいおん!』や『たまこまーけっと』を引き合いにしてそういう作風だろと思われるかもしれないが、『聲の形』はマイルドながらも痛みを取り扱った作品だったので別にそういうことではないんだろうなと。

問題は冒頭。主人公がひとり呟く二ーバーの祈り「主よ、変えられないものを受け入れる平穏をください」と。これがずーっと引っかかってしまう。
これをいきなりぶっ混むことで、変えられないものって何だ?という引っ掛かり。自分の力の及ばない範囲、外部環境を意識する。


登場人物のイントロダクションが十分でない、まだ物語が動いていない内にそんな世界の名言シリーズみたいな引用をぶち込まれては、何か重要なテーマが語られたのでは?と思ってしまう。つまり物語の最中にも「外側で起きている何か」否応にも意識してしまう。


しかしそれは最後まで語られることはない。主人公にとって「変えられないもの」かつ「受け入れ難いもの」とは一体何だったのか。
一切語られることが無いままハッピーに、軽やかに、物語は終わっていく。

主人公は何のために、何を祈っていたのか

「劇中歌が祈りなんだよ」とか「そもそも音楽って祈りだから」という結論でもまぁいいっちゃいいけど、それだけだと足りないというか、待て、語られないもの、埋もれて、消え去るもののためにこそ、祈りはあるのではないか。いや逆か、どうしようもないから祈るしかないのか、等あれやこれやと考え、頭から離れない。

作画は良いし音楽は良いし、テンポも良い。ハッピーとしか言えない物語の進行も、冒頭に打ち込まれた楔によってその明るさのコントラストから真っ暗いトンネルの中を出口に向かってひた走るようで若干怖くもあった。このまま終わったらどうしようwみたいな。それは向かい風の嵐の中をカッパ着て突き進むような前傾姿勢。そうか祈るときに人は頭を下げるもんだ。そんなことを想ってしまったあたりでこれはそう思わせる仕掛け、つまりは「祈りのある作品」だと結論した。というか諦めた。どうかそうであってくれ


しかし改めて思うのは二ーバーの祈りは良い。言葉のチョイスが良い。翻訳が良いのかな。


「変えられないものを受け入れる平穏をください」


ありきたりだと「罪をお赦しください」ってなるけど、それだとなんか尖ってるし気取ってるし大袈裟な気がしてしまうんよな。本当に変えられないものなら当人に責任は無くて、それをお赦しくださいってなんか潔癖に聖人過ぎてウザっ!てなる。


それが「変えられないものを受け入れる平穏」だと無理が無い。なんか等身大な感じがする。過去に何があろうが世界で何が起ころうが、等身大のカタギはコツコツ仕事して生きていくしかないもんな。製作者も然り。

と、色々考えはしたが2chとかネット界の伝家の宝刀「作者はそんなこと考えてないよ」炸裂してもいいし。実際に考えてなくてもいい。単に明確でないからこちらが考えざるを得ないだけの話だ。「誰も祈りの話なんかしてないよ」でもいい。なぜなら、おまえがしなくても俺がするから。俺がしなくても誰かはどこかで、今日、語られないもののための祈りをしている。時間的、あるいは空間的に、変えられない、外側の何かに。

終わり

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