まあでも、それでもいいんじゃないか(日記)

小説を書きたい、と思っているわけではない。
文章を書くのが好きだ、という話でもない。
たぶん、書かないと辛いのだと思う。

高校生くらいの頃に、携帯で千~二千字くらいの文字を打つ習慣があった。
創作活動というよりも、頭の中に思い浮かんだことを書き出す作業に近かったと思う。オリジナルの、所謂一次創作だったり、好きな作品の二次創作だったり、割と何でも楽しく書いていた。
小説作品は好きだが、元々読書家というほどでもなく、インプットも少なければアウトプットも拙い、何とも中途半端な人間だった。それは今もだけれど。
書くために必要な勉強もしていない。書くこと自体が目的のようなものだったから、目標も無かったのだ。

それでも、私はずっと書いて生きていくのだろうなあと、漠然とそう思っていた覚えがある。
小説家に対してかっこいいと思うことはあれど、自分がなりたいわけではないので、今と変わらず、趣味でぽちぽちと、書いていくのだろうなあと。

事実、ゲームで遊んだり漫画にハマったり、時々お絵かきをして遊んだりしながらも、文字を打って生きていた。
下手だなあと思うことはあったけど、そんなに深刻には考えていなかった。あくまでも趣味なのだから、好きに書けていればそれでよかった。
書く以外のことで手一杯で、数か月程度間が空くこともあっても、書けないと悩むことはあまりなかった気がする。そうやってぼんやりと、何年かは文字を打って生きていた。
(私の文章を読んでくださった人にしてみれば、何年も書いていてこの程度か、と思われるかもしれない。上手い文章を書きたいのであれば、私のように、ぼんやりと何となくで書き続けても仕方ないという反面教師になれば幸いである。)

ともあれ、思っていた通り、私はぽちぽちと文字を打って過ごしていた。
インターネット上に公開するのは、「これで終わり」という一区切りを付けるためだが、幸運にも、嬉しいリアクションを貰えることがあった。いくら自分の好きなように書いているとはいえ、人に褒められて嬉しくならないわけがない。
けれども、「人に読まれるのだから上手な文章を書かなければ」と思い始めてしまうと変に緊張するため、結局は自分の好きなように書いていた。誰かのために、ではなく、書くということそれ自体が、自分にとって大切だったのだと思う。

それくらい、書くという習慣は、生活の一部だった。
だから、書けなくなったときは、本当にきついものがあった。

原因は明らかに就職なのだが、困ったことに、職場が悪かったのではない。もし職場に原因があったのであれば、転職という手段も取れたが、どうにも転職で解決する問題ではなかった。
では何が悪かったのか、と言えば、ちょっとネガティブな話になるので、今回は省略する。機会があれば書くかもしれないが、現在進行形で特に何も解決していないので、話のオチが無いのだ。

ともかく、私は何も書けなくなってしまった。自分でも吃驚するほどに、何も書けなかった。

それでも初めは、書きたいと足掻いていた。
小説を読んでみたり、数百字でも良いから書いてみたり。しかし事態は好転せず、どんどん「書けない」という状態は悪化していった。
書けないということはこんなにも苦しいのか、と思った。一文字も書けず、真っ白な画面を前にしてぼろぼろ泣いたこともある。
書きたいと思うだけで精神的に辛くなり始めた頃に、このまま生きていくしかないと方針を変えた。生業にしているわけではないのだ、書けなくても生きてはいける。

確かに、書けなくても生きてはいけた。
テレビドラマや映画を楽しむ程度の余裕はあったが、そこから何をするわけでもない、一消費者として、何年も普通に生きていた。
ただ、ずっと消化不良を起こしているような、頭の中に詰まったものがそのまま腐っていくような、そんな気持ち悪さが持続していた。
この嫌な感覚をずっと抱えていくしかない、と思った。
書くことが出来ないとこうなるのか、とも思った。

それでも、どうしても書きたいと思ったのは、月並みながら、感情を揺さぶる作品に出会えたからである。
書けない時期に触れた作品達も、とても良いものだった。感情的に救われた作品も数多あり、その頃に触れたお気に入りコンテンツのことをAEDと呼んでいるくらいだ。その節は本当に感謝している。
多分、時期的なものもあるのだろう。仕事は相変わらずだが、ちょっとした山場を越え、若干なりとも精神的な余裕が出始めていたから、あれだけ苦しかった「書きたい」という感情に向き合おうという気になったのだと思う。

前置きが長くなったが、ここからが本題である。

「書けなくなったときに、どうやって書けるようになるか」
書きたくても書けない状態から、何とか書き出せるようになるまでの経過を、備忘録として残しておけば、この先同じ状態になったときの参考になるかもしれない。
参考にならないかもしれないが、何も無いよりはマシだろう。例え需要が無くとも書き綴るのは、私の得意分野だ。

1. 余裕を持つ

これが一番難しいかもしれない。時間的余裕は勿論、精神的余裕が無いことには、後述の全てが叶わない。
仕事に関してはちょっと自力ではどうにも出来ない範疇もあるため、自分で出来ることとして、暇つぶしにしていた他の趣味を放り投げた。思考を割ける容量は、出来るだけ空けておくに限る。
ただし、下記のモチベーションに繋がる趣味は削らないこと。モチベーションは大事なので、本当に。

2. モチベーション
欲が湧くような、良い作品と出会うこと。
一時期、アウトプットが出来ない苦しみから、インプットも制限していたことがある。頭の中から書き出せない状態に、何かを詰め込むのは本当に苦しい。
苦しい時は無理をしない。でもモチベーションが無ければ書こうとも思えないので、新しい作品との出会いを恐れないこと。何が切欠になるかは分からないのだから。

3. 書く習慣付け
これが結構成功したと思う。
とにかく書けない状態だった時は、パソコンを立ち上げることもままならなかった。数か月単位で自分のパソコンに触れないような時期もあった。
書く以前の問題だから、まずパソコンを立ち上げる習慣付けをしようと、目的もなく毎日パソコンの電源を入れたこともある。これは失敗した。開いても何もすることがなく、十分くらいでシャットダウンしていたのだ。
書くという習慣のために、パソコンを立ち上げる習慣付け作戦は上手くいかなかった。習慣付けに成功したのは「数百字でいいから、毎日好きな作家の文章をタイピングする」という目標を立ててからだった。
元々は、文字を打つことに苦手意識を持ち始めていた自分の手に、書く作業を思い出させるためという理由が大きかった。
何も書き出せず、途方に暮れることを繰り返し、私は書こうとすること自体が怖くなってしまっていた。その一番の難関である書き出しの抵抗感を薄れさせるため、既存の文章——それも好きな作家の好きな文章を書き出すことで、私は書くことが出来る、と体に覚えさせようとした。
その目論見が成功したかどうかは分からないが、文章構造の勉強にはなった気がする。このテンポで書く、という勉強をするには、お手本になる小説をただ読むより実際に書き写す方が身になると感じた。読むだけだと物語に夢中になり過ぎて、結果普通の読書になってしまうから、というのもあるかもしれない。呑気な読者根性である。
習慣付けのコツとしては、毎日数百字から気が向けば数千字、無理せず出来るペースで書き写すこと。数百字でもいいので、絶対に毎日行うことを意識した。一日でもサボると絶対にそこで挫折してしまうと思ったからだ。
今日は何字書いたか、合計何字書いたか、を記録することで、「ちゃんと続いているなー」「今日は何字書いたか記録してない。書かなきゃ」という気持ちのコントロールも上手く出来た。百字くらいしか書けなくても気に病まない。とにかく毎日書いていることが偉いと自分に言い聞かせ続けた。
四十日間くらいやってみて、自分の文章を打つ頻度の方が多くなり、「書き写す時間があったら自分の文章打ちたい」と思い始めた頃には辞めてしまったけれども、今でも勉強のために時々やった方がいいとは思っている。

4. 実際に書く
自分の場合、書けないということ自体の苦しみが足枷になっていた。
そのため、書きたい理想を思い求めるよりも、まずは書きやすいものから書き始めることを優先した。「書くことが出来る」という状態にさえ持っていければよかったのだ。
資料もほとんど要らないような、当たり障りの無いちょっとした話。脳裏に思い描いた景色のスケッチ。そういったものからスタートし、「書くことが出来る」という自認が芽生えてから、書きたいものを書き始めた。

5. 書くことを肯定する
曲がりなりにも文章(のようなものだと自分では思っている)を書いている人間が思っていいことではないかもしれないが、「そんなに上手じゃなくても別に良い。今はもう書いていること自体が偉い」というマインドを持つことが、書くモチベーションの維持に繋がっている。
何故かと言うと、元々書けなくなっていた理由の一端に、「自分の書いた文章は、人から見るとあまりに下手で見るに堪えないものではないのか」という恐怖があったからだ。
練習して勉強をして、文章が上手になれば自信を持って書けるようになるのかもしれなかったが、書けない状態にあった私は、何をどうやっても「でもこれも、人から見たら何を書きたいのか全く分からないのでは」と気になってしまっていた。その結果、何が正解なのか分からず、一文字も書き出すことが出来なくなってしまったのだが。
現状、自分の書く文章に対し、全くと言っていいほど自信はない。普通に下手だなあと思っているし、学生自体に書いていた文章の方がまだ読めるとさえ思う。
「まあでも、それでもいいんじゃないか」と最近は考えている。元々、自分のための趣味だったのだ。これでお金を貰っているわけでもないのだし、好きにやっていいはずなのだ。
今は、下手でも書いていることそれ自体が、自分にとっては凄いことなのだ、と毎日言い聞かせている。何年もずっと出来なくて、出来ないことが悔しくて苦しかったことが、出来ている。私には、それで充分なのだと。
ただちょっと、あまりに書くのが下手すぎて、無駄に時間もかかるわ文章にならないわで苦戦するため、スムーズに書ける程度には上手くなりたいなあとも思っている。このなけなしの向上心は、折角なので上手く利用していきたい。

そうして何年かぶりに書く時間を取り戻し、私はふと思い出した。
書くと、気持ちが少し楽になるのだ。
昔から、書くことでストレスを発散していた自覚はあった。頭の中にあるものを文章として書き出すことで、渋滞しがちな自分の思考を整理していた面もある。
書けない時期に溜め込んでいたモヤつきも、書くことを再開してからはほとんど感じなくなっていた。
何を書こう、どういう表現をしよう、とわくわくする気持ちが甦り、それ以外の、ネガティブな感情に振り回される時間が少なくなった気さえする。

私は、きっと、書けないと辛くなるのだ。
小説を書きたいだとか、文章を書くのが好きだ、とか、そんな素敵な理由で書いているのではない。たぶん、書けないと辛いから、書いているのだと思う。
文章を書く動機としては不純かもしれないが、自分にしてみれば結構な死活問題である。
もし今後、また書くことが出来なくなってしまう時が来たら、この備忘録を参考にして、「私の性格上、書けるようになった方がいいと思うから、ちょっと試してみよう」と腰を上げてほしい。もしもの未来でもそう思えるよう、願っている。

こんな、その内読み返すかどうかも分からない日記のために睡眠時間を割くのはどうかと思うが、何事も書かないよりはマシだと思う癖がついてしまっているようだった。
「まあでも、それでもいいんじゃないか」
書けるということの方が、私には大事だった。


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