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朝顔

通勤ラッシュよりもすこし早い時間、今日も駅の向かい側のホームに、青色のエナメルバッグを見つけて安堵する。

学校からの帰り道、いつもそのバッグを探していて、見つければすぐに追いかけた。卒業してからわずか1ヶ月、青色のエナメルバッグを肩から下げた三上裕也の姿を見つけても、追いかけることが出来なくなってしまった。

6:50、都心へ向かうのとは逆方向のホーム、階段のすぐそばで三上は電車を待っている。そちらを見ていると気づかれないように、電車が来る方向を見つめながら、視界の端で彼を観察する。文庫本よりもすこし細身の分厚い本は、英単語帳だろうか。三上はいつも俯いてそれを広げていた。

3分も経たないうちに、こちらのホームに電車が来る。窓の外が見える場所で吊革につかまると、ようやく堂々と正面から彼を見ることができた。1ヶ月前までほんの数十センチの距離で話すことができたが、今では何メートルも離れた箱の中から眺めるのがやっとだ。

遠ざかる三上の姿を見送ったら、ターミナル駅に着くまでの7分半、目を閉じて共に過ごした時間を思い出す。それは、これから始まる、目まぐるしく息苦しい一日を耐え抜くために、どうしても必要な時間だった。

中学に上がってすぐに同じ学習塾に通うことになってから、三上とは色々なことを沢山話した。他愛ないことも、真面目なことも。

目を閉じている間、その会話の一つ一つを振り返ろうとしてみるのだが、不思議と具体的な中身を思い出せない。いつもまぶたの裏に浮かんでくるのは、帰り道に必死で追いかけた青いエナメルバッグだった。

それと、眩しいほどに漂白されたカッターシャツ。修学旅行で訪れた初夏の京都の竹林のにおい。一緒に自販機で買ったミルクティの缶の熱さ。ふざけあって下の名前を呼ばれたときの甘美な響き。そんなものばかりを思い出す。

毎朝、駅で三上の姿を確かめるたび、「ああこんな顔だったのだな」と、思うのだ。

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