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教育 其の二

教育 其の一|歌屋 #note https://note.com/fallin7458/n/n8365d8aee99b
の続きです。

居酒屋を出た私とリョウタは国大方面に向けて歩き出した。
大学に行き着く途中にヒロユキのアパートがあり、
何回か遊びに行ったことがあった。
八王子街道から10分ほど歩き、ヒロユキのアパートに着いた。
全8部屋ほどのアパートで、坂の傾斜に沿って建てられており、
そういった造りの物件にはよくありがちなロフトが付いた造りになっていた。

1階の角の部屋がヒロユキの部屋で、
外から見るとカーテンが閉まってはいるが電気は点いていない。
部屋の前まで行き、電気とガスのメーターを見ると、ゆっくりではあるが動いている。
集合ポストには郵便物が溜まり、ポストからはみ出さんとしていた。
長く家を空けているのか、しばらくポストを開けてすらいないのだろう。

リョウタ「やっぱ、いないみたいですね」

私「とりあえずチャイム鳴らして、ダメなら電話してみっか」

そうしてチャイムを鳴らすも、やはり何の応答もない。
仕方ないと思ってケータイから電話を鳴らすと、数回のコールの後ヒロユキが出た。

ヒロユキ「はい」

私「おいヒロユキ!お前今どこいる!?」

ヒロユキ「今家にいますけど」

私「俺も今お前ん家の前いるけど出て来ねぇじゃねえか?
玄関チャイムだって今鳴らしたろ?
どこいんだよ?」

ヒロユキ「だから家にいますって。そんなに大きな声を出さないでください」

私「あぁ?メール読んでないのかよ?リョウタが心配してるって送ったろ?
それにバイトも学校も行ってないらしいじゃねぇか。
お前今何やってんだよ?」

ヒロユキ「彼女といます」

彼女。
ヒロユキと音信不通になって度々出てくるワードが本人の口から出てきた。
その彼女自体がそもそもの問題なような気がしてきたが、
そうなると我々が口を出せるのは、親の小言程度の
「手遅れになる前にちゃんとしなさい」位の事しか無い。

私「…とにかくよ、今家にいるんだったら出てこいよ。
ちょっとでいいから話しようぜ?」

ヒロユキ「彼女が嫌がるんで、無理です」

私「…どういう事?」

ヒロユキ「俺が誰かと話したりすると彼女が悲しがるんで、無理です」

当時はまだ「メンヘラ」という言葉はなかったが、
束縛魔の病んでる彼女にゾッコンって感じなのか、と思った。
ぶっきらぼうに語るヒロユキの口調は、
何だか寝起きのような、どこかおぼつかない話し方だった。

私「じゃあ1時間でもいい!
俺はどうとして、せめてリョウタにはちゃんと話してやれよ!
今リョウタも一緒にいるから、すぐに出てこいよ!!」

ヒロユキ「…ちょっと『許可』を取ってきますから、一回切らせてください」

許可?
そういうとこちらが訊き直す間もなく電話を切られた。
全部では無いが、横で一部始終を聞いていたリョウタも困った顔をして固まっている。

数分後、ヒロユキから着信があった。

ヒロユキ「条件付きで『許可』が出ました。
今から向かうから、場所を教えて下さい」

私「はぁ?お前今家にいんだろ?だから俺らもお前ん家の前にいるんだって。
それに『条件』とか『許可』ってなんだよ?」

ヒロユキ「歌屋くんがいるのって、大学の近くの家ですよね?俺の家はそこじゃないです」

私「…何言ってんだ?引っ越しでもしたのか?
今もお前ん家の電気メーター回ってるじゃんかよ」

ヒロユキ「そこには荷物を取りに行く以外、もう帰らないです。
場所は言えないので、こちらから会いに行きます。
だから場所を教えて下さい」

埒が開かないと思ったので、条件とやらを訊いてみると、

ヒロユキ「1時間厳守でお願いします。彼女が泣くので。
それと彼女も同席します。俺一人で会うと彼女が不安がるので。
それで良ければ会います」

もうヒロユキ自身も病んでるとしか思えなかった。
何をするにしても『彼女』という言葉が付いて回る。
リョウタにもその旨を伝えると、少し逡巡していたようだったが、
「お願いします」と言ったので、待ち合わせ時間を決め、
八王子街道沿いのファミレスまで来るよう伝えて電話を切った。
ケータイを締まった後、何とも言えない疲れに見舞われたが、
リョウタと一緒に待ち合わせ場所のファミレスまで向かった。
その道中、リョウタと電話の内容について詳しく話した。

リョウタ「…なんか、ホントに病んじゃってる感じですね。
俺らが何か下手にやったらいけない気もしてきました…」

私「俺もよ…アイツに彼女が出来ようが、それは別に悪い事じゃないんだけどさ。
にしても最悪、学校とかは普通に行って貰わんと、
アイツのご両親も知ってるからこそ、何かスッキリしなくてさぁ…」

リョウタ「まだ履修的にはセーフだと思うんで、
今から大学来たら全然大丈夫だと思うんですけど、
『荷物を取りに行く以外、もう帰らない』って言ってたんですよね?
もしかして、家とかも解約するつもりなんですかね?」

私「分からんけど、あの口ぶりだったらありえるよね。
何考えてるか分からんけど、一回の恋愛でそこまで詰めるのも危ういとしか思えんよなぁ…」

リョウタ「だからって俺らが何か口出し出来る事でもないですしね…
とりあえず話を訊いて…ってしか出来ないのかなぁ…」

私「とりあえず会おう。そこで判断するしかないよ」

そうこうしていたら待ち合わせ場所のファミレスに着いたので、我々は先に入って待つことにした。

待つこと数十分、女性を連れたスーツ姿のヒロユキが出てきた。
髪を薄っすら茶髪に染め、見るからに高そうなスーツを着て、憮然とした表情で辺りを見ていたが、
我々の存在に気付くと、表情を崩さずこちらに向かってきた。

ヒロユキ「お久しぶりです」

そう無表情で言うと、隣の彼女も軽く会釈した。
彼女も高そうなコートを着ていたが、こちらが着席を促すとコートを脱いでヒロユキの隣に座った。
中も高そうなセーターを着ていたが、その上からでも分かるくらい痩せているように見える。
顔立ちは非常に整っていて、タレントかモデルと言われても信じられるくらい美人だったが、
ヒロユキの家庭教師の教え子ということはまだ高校生くらいだと気付いてびっくりさせられた。
彼女は始終下を向いて、声も発さなければ視線も合わせないようにしていたので、
私も彼女には必要最低限の質問以外はしないよう決めた。

店員が来て注文を訊いてきたのでヒロユキと彼女はホットコーヒを頼んだが、店を出るまで一口も付けなかかった。

ヒロユキ「それで、話したいことはなんですか?」

私「電話でも言ったけど、バイトも辞めて学校にも来てないって訊いたから、最近何してたのかを訊かせてほしい」

ヒロユキ「彼女と一緒にいました。
俺が一緒にいないと彼女が悲しむので」

私「学校は?バイトは辞めても代わりが利くだろうけど、学校ばかりは落としたら潰し利かんだろ」

ヒロユキ「彼女の調子がいい時は行こうと思ってます。
俺がいなくなると彼女の体調が悪くなるので」

私「…スーツなんか着て、どっかで仕事でもしてんの?」

ヒロユキ「彼女からのプレゼントです。
部屋着以外でTシャツなんか着たら見苦しいので。
勤めには出てませんが、最近は彼女のお父様の仕事を手伝わせてもらってます」

何をするでも『彼女』だった。

地元時代にも、バンド関係で酷い依存癖のメンヘラだった彼女を持ったバンド仲間だった友人がトラブルに巻き込まれた事があった。
その時は友人が困っていたので、周りのバンド仲間と何とか解決しにかかったのだが、
ヒロユキの場合は相手と同じ状況に居ることを良しとしている。
そうなると、親兄弟でもない限り余程の口出しは出来ない。
例え、それがどんなに本人の為にならないとしても。

それでも、中学からの付き合いなので、当時まだ5、6年の付き合いだとしても、
親まで知っている幼友達として、少しでも本人の為になるよう口出ししてやるのが自分の役目だと思った。

私「ヒロユキさぁ…お前に彼女出来た事が悪いって言ってる訳でもないし、むしろ中坊から知ってる俺からしたら嬉しいことだよ。
でも、一浪までしてせっかく入った大学に行ってないとか親御さんが訊いたら、
あの親父さんなら激怒すんだろうし、おふくろさんも卒倒モンだと思うぞ。
俺は音楽あるし、無くても家の都合で大学行けなかったけどさ、学歴って大事だと思うし。
それに彼女さんと先まで考えてるなら、尚更大卒って大事じゃねぇか?
せめて親御さんを安心させるためにも、学校くらいはちゃんと出てやれよ」

そう言うとヒロユキは少し黙ったが、
すぐに元の様子に戻ってこう言った。

ヒロユキ「親はもう要りません。彼女が一番大事なので。」

それを聞いて、さっと頭に血が昇った。

私「お前…今何つった?なんぼ色ボケしてても、
言って良いこと悪いことあんだろうが、あぁ!?」

思わず少し大きい声が出たので、周りの客がこちらを見たが、気にせず続けた。

私「ちょっと調子に乗りすぎだろが?
お前の親御さんがお前一人大学に行かせるためにどんだけ大変な思いしてっか分かってんのか?
うちは両親共々甲斐性無くて、俺も音楽なんかに走ってこんなんしてるけど、今のお前くらい薄情な事は言えねぇぞ。
お前も何に調子乗ってっか知らねぇけど、無理矢理でも分からしてやろうか?あぁ!?」

まるでチンピラみたいな物言いだったが、
ヒロユキの言ったセリフをどうしても許せなかった。
横でリョウタが「ちょ…ちょっと…」と言いながら私を止めていたが、
ヒロユキは少し驚いて、それでも表情を崩さないままこちらを見ていた。
そんなヒロユキの表情を見ていたら、
乱暴な話だが、埒が開かなければ店を出てヒロユキを一発張ってやろうかとも思っていた。

私「大体、彼女彼女って、お前らがどんな付き合いか知らんけど、親にも友達にも心配かけても、彼女優先でどうこうとか、色ボケにも程があんだろうが!?
お前そんな薄情な奴じゃなかったろ?
一体何があってそんなんなっちまったんだよ?」

さすがに喚きすぎたのか、店員が「お客様…」と言って近づいてきたので、
謝ろうとしたその瞬間

「彼女彼女呼ぶなあぁぁぁぁぁぁあああああああああああぁぁぁぁああおおおおおおぉぉぉぉぉぉおおおああああぁぁぁああああああ!!!!!!!!!」

と、ヒロユキの隣で黙っていた彼女が叫んだ。
もはや発狂というレベルだった。

隣で必死にヒロユキがなだめつつ、耳元で何か言っていた。
しばらくすると彼女は落ち着き、そのまま静かになって何も話さなくなった。
店員が「あの、お客様…大丈夫ですか?」と聞いてきたので、
騒がせた旨を謝り、会計を済ませて店外に出た。
会計はヒロユキが全て払った。

1時間経っていなかったが、先程の騒ぎでお開きとなり、
街道沿いでヒロユキが呼んだタクシーが来るまでの少しの間、ヒロユキと話したが、
時間が足りなかったので、後からメールで事のあらましを送ってもらうよう約束して我々とヒロユキは別れた。

何ともスッキリしない終わりだったので、
コンビニで酒とつまみを買い、リョウタの家で飲みながらその日の事を話していた。

リョウタ「なんか…すごい展開でしたね…」

私「ごめん…ついカッとなったけど、アイツ何であんなんなっちまったんだろうって思ったら、つい…」

リョウタ「いや、分かりますよ。俺だって友達が親のことあんなん言ってたら問い詰めますもん。
ヒロユキさん、昔実家から好きなお菓子送られてきたからってサークルの皆に配ってたんですけど、
すごい嬉しそうだったし…考えられないんですよね」

私「俺も貰った。『懐かしいでしょ?』って。
俺地元から出てきて半年も経ってないのに(笑)
あんな天然で面白いやつだったのに、どうしてあんなんなっちまったもんだか…」

お互いドッカリとした気分だったが、
飲み始めて1時間程した頃、時刻は深夜を回った頃に電話がなった。
確認するとヒロユキからだった。
思わずリョウタと顔を見合わせたが、スピーカーフォンにして数コール目で出た。

ヒロユキ「お疲れさまです。先程はお騒がせしてすみませんでした」

以前と変わらない、同級生らしからぬ敬語での挨拶だった。
が、声色はやはりなんとなく無機質に感じた。

私「いや、こっちこそ…
ってか、メールで回答するんじゃなかったか?」

ヒロユキ「はい。ただ、歌屋くんにはちゃんと話しておきたいと『妻』に話したので、電話で話す許可がおりました。
時間は限られますが、少しなら話せます」

私とリョウタは『妻』という単語にまたもや顔を見合わせた。
先程の帰宅までの時間で『彼女』から『妻』に昇格したのだろうか。

私「『妻』って、さっきの彼女さんの事か?」

ヒロユキ「はい。まだ籍は入れてませんが、いずれ『妻』になります。
なので『妻』は『彼女』と呼ばれる事を嫌うんです。
俺も『彼女』と呼んでいたのもいけなかったんですが、
さっきの話で歌屋くんが『彼女』と連呼していたのが引き金になって、ああして取り乱したみたいです」

あたかも『お前が原因だ』と言われているような感じがして気分が良くなかったが、
それ以上に『彼女』の執拗さの方が異様で恐ろしかった。
よく結婚を約束した若いカップルにありがちな「夫婦ごっこ」みたいなノリに思えたが、
それ以上の異様さを感じて、薄ら怖さを覚え黙っていたが、
それを察したのか、ヒロユキが続けた。

ヒロユキ「どう思って貰ってもいいですが、俺達は結婚します。
もうご両親にも承諾を得ています。
今はご両親が借りてくれたマンションに住んでいますが、
俺に妻を養っていく経済力が身に付いたら、すぐに妻と新しい住まいに移るつもりです。
妻が言うなら、ご両親との同居も考えています」

『かかあ天下』とかでは決して済まされない、
どちらかと言えば『支配』されているように思えて、
失礼な話ではあるが、気持ち悪くすら感じた。

ヒロユキ「それとドラムも辞めます。
バンドして誰かと関わってると『妻』が悲しむので。
もう金輪際叩かないつもりです。
バンド時代には本当にお世話になりました」

これには本当に驚いた。
学生時代から、大のドラム練習バカと知っているのもあるが、
それを全く苦にもしないほどヒロユキは研究熱心でもあった。
いわばドラムオタクのような奴だったのだか、それが10年近く続けてきた生きがいを辞めるという。
ふと隣を見ると、リョウタの方がショックを受けているようで言葉を失っていた。
尊敬していたバンドの先輩が、あんなにあっさり『辞める』なんて口に出されたら、そうもなるだろうと思った。

私「…なぁ、いつからそんなんなったんだ?」

どう捉えたかは分からないが、ヒロユキは馴れ初めを語り始めた。

ヒロユキ「妻との出会いは家庭教師のバイトでした。
最初は週に2日くらいで教えていたんですが、妻に気に入って貰って、週4日に増やして貰ったんです。
10月頃に妻から告白されて、それから関係も持ちました。
妻は学生時代に辛いことがあって不登校になったそうで、
今でも心に深い傷を負っていますが、俺がいると癒やされると言います。
俺も妻と居ると、心の傷が癒やされていきます。
なので、俺達は一緒にいないといけないんです」

私「心の傷?お前の?」

ヒロユキ「歌屋くんだって気付いてくれなかったじゃないですか!!!」

突然ヒロユキが大声を張り上げた。
スピーカーで聞いていたリョウタも思わず飛び上がる程びっくりしていた。
それ以上にヒロユキの『心の傷』というワードが不可解だった。
確かに亭主関白な親父さんの厳しいしつけがあったり、
実家時代には反抗期もないほど従順な子供であった事を知っているが、
優しく、朗らかなおふくろさんもいたり、
バンドや部活を楽しんで人並みに明るい学生生活を送っていたのも見てきている私としては、
ヒロユキが『心の傷』という言葉を持ち出す意味が全く分からなかった。

ヒロユキ「アイツは俺や母親にいつも頭ごなしに物を怒鳴ってきました。
時には母が折れて泣いていることもありました。
俺も受験の時には心無い事を言われてひどく落ちました。
そんな時でも母は何もかばってくれませんでした。
学校では明るくしてましたが、それもアイツに言われていたからです。
アイツも教師でしたからね、うちで何かあったらとか周りにバレたらまずかったんじゃないですか?
だからアイツの思うようになりたくなかったんですよ!
だからこっちの大学に出てきたんですよ!
あんな家、もう二度と縁も持ちたくないですよ!!」

親が聞いたら泣きそうな話ではあるが、
私には半分勢いで言っているような印象を受けた。
ヒロユキが言うように、親父さんへの鬱屈と、
言い返せずかばってくれなかったおふくろさんへの不甲斐なさも実際に感じていたのだろうが、
その年の夏にヒロユキは地元に帰省している。
そこまで激しい拒否感を示している人間が、どうして実家なんかに帰れるのだろうか。

ヒロユキが変わったタイミングと『彼女』と関係が始まった頃がちょうど合う。
やはりコイツが変わった要因は『彼女』なんじゃないか?
初めての異性交友と、ねじれた方向での傷の舐め合いでおかしくなってしまっているんじゃないか?と邪推した。

私「お前が誰と一緒になろうが、この先どういう進路をとろうが、俺らはとやかく言えないよ。
でもさ、さっきも言ったけど、親御さんも今までお前を大事に育ててくれたとは思うぜ?
俺のバンド友達とかも知ってんだろ?
ロクでもない親の元に生まれたせいでまともに学校も行かせてもらえなかったり、
満足にメシも与えられなかったりして、いろいろ道を踏み外してた奴もいたろ?
それと比べてどうこうじゃねぇけど、お前の親御さんも決して愛情がなかった訳じゃないと思うよ?
少なくとも、大学にも専学にも行かせられなかった俺の親よりは立派に教育されてた思うけど」

ヒロユキは黙っていた。
彼なりに思う事もあるのだろう。
何とか少しでも柔らかく思い直してもらえないかと思って言葉を考えた。

私「とりあえずさ、お前が誰と結婚するでも、俺もリョウタたちも反対はしないよ。
親父さんに反発持つでも何も言わないし、それも正常なことだと思う。
ただ、おふくろさんには優しくしてやれよ。
お前が『親は要らない』とか言ってたなんて知ったら、絶対泣くと思うぞ?」

そう言うと、ヒロユキはこう返してきた。

ヒロユキ「両親は離婚しました。親権は父です」

思わず唖然として何も言えなかった。
ようやく出た言葉は「いつ?」だった。

ヒロユキ「10月の頭くらいです。俺が夏に帰省した頃にはそういう話があっていたそうです。
親父はせめて俺が大学を出て社会人になってからとか吐かしてたみたいですけど、母が耐えられなかったようで。
母から電話で知らされて、それっきりです」

言葉が出なかった。
一瞬、いつも気さくで朗らかなおふくろさんの顔が浮かんだが、
そんな話を訊いた後だからか、何だかぼやけてすぐ消えた。
私がようやく「何で言ってくれなかった?」と訊くと、
ヒロユキは泣いているのか、嗚咽を漏らしながら、跡切れ跡切れにこう言った。

ヒロユキ「…だって、歌屋くん…に言っても、どうにもならないじゃないですか…
俺の代わりに…親父から俺と母を守ってくれたんですか?
母が…出ていくのを…止めて…くれたんですか?
俺は…どうすればよかったんですか!?」

それからヒロユキは電話越しでも分かるくらいに泣き声を上げだした。
今なら『それはお前がもっと早くに立ち向かっておくべき家の問題だったんじゃないか』と言っていると思うが、
当時の自分には、その考えはあっても、それを口に出せるほどの経験と勇気はなかった。

スピーカーから衣擦れのような音が聴こえ、
ヒロユキの泣き声がくぐもって聴こえたかと思うと、
電話口から女性の声がした。

?「お聞き頂いた通り、ヒロユキは今こういう気持ちです。
ヒロユキは私が教育しました。
おかげでヒロユキも心の傷を認識して、自分と向き合っています。
私もヒロユキに本当に癒やされています」

きっと『彼女』だろう。
すっと横で聞いていたのだろうか。
そう思うとゾッとしたが、先の件もあるので
『…奥さんですか?』
と訊くと、「はい」と答えた後『彼女』は続けた。

彼女「今、ヒロユキは私の胸の中で泣いています。
ヒロユキの事を心配してくれた事については妻としてお礼申しますが、
ヒロユキに本当に必要なのは私だけです。
今後は私達で幸せになりますので、もう二度とヒロユキには連絡しないでください。
こちらもこの電話が終わってから着信拒否しますから」

一方的な言い方だったが、腹を立てる余裕もなかった。
電話口の『彼女』の声は、留守番電話の自動音声のように無機質で、
生きた人間が発している言葉とは思えない程、冷たく平坦だった。
何か言おうと思って、でも何も言えないでいると、リョウタが口を開いた。

リョウタ「あの…奥さん、すみません。ヒロユキさんと少しだけ話しをさせてもらえませんか?」

恐る恐る、リョウタは言葉を選んで話した。
少し間を置いて『彼女』が億劫そうに答えた。
ファミレスで叫んだ以外で、初めて感情らしいものを表した時だった。

彼女「…もう時間はとうに過ぎてますし、ヒロユキもまだ泣いているので話せないと思いますが、
ヒロユキに聴こえるように受話器を耳に近づけてあげますので、手短にお願いします」

そう言われて、少し間を置いてからリョウタは言った。

リョウタ「ヒロユキさん、もう帰ってこないんですか?
俺、ヒロユキさんとバンド出来たおかげで、サークルも楽しくなったし、バンドも頑張ろうと思えたんですよ?
ヒロユキさんの人生だから、俺らにとやかく言う権利はないけど、ヒロユキさんはそれで良いんですか?
もうあんなかっこいいドラム叩いてるヒロユキさんには会えないんですか?」

何も返ってこなかった。
リョウタも何か言いたそうだったが、何も言えないままでいると、
『彼女』が電話口に出てこう言った。

彼女「ヒロユキは話せないようですので、これにて失礼させて頂きます。
先程も言いましたが、もうヒロユキには連絡しないようお願いします。
それでは、さようなら」

そう言われて、電話は切られた。

しばらくリョウタと呆然としていたが、
しばらくしてリョウタが口を開いた。

リョウタ「なんか…疲れましたね(苦笑)
巻き込んじゃって本当にすみません…」

私「いやいや!こっちの問題でもあったし!
それにしても…なんかスッキリしない話だったなぁ…」

リョウタ「奥さ…彼女さん、『教育』って言ってましたよね。
どっちかって言ったら『洗脳』って感じに思ったんですけど…」

私「俺もそれ思った。なんぼ家庭のいざこざで荒んでてても、あんな一気に病みモードになるなんてそんな無いと思うし」

リョウタ「それに、それを『教育』って言っちゃうあの人が怖いと思いましたよ。
だって年だってまだ高校生くらいでしょ?
どんな引き出しあったらそんな言い回しが出来るのかなって考えたら…なんか怖くて」

同感だった。
翌々考えてみると恐ろしい言い方だった。
どんな家庭環境にしても、家族を意のままに動かす発送自体が怖いことだが、
それを『教育』と言いのける神経が分からない。
どんな目線から見ていたらそんな言い方が出来たのだろうか。

それからなんとなくヒロユキの話題に触れるのが憚られたので、
話題を音楽の話に移してしばらく語った後、
また何かあったらお互い連絡をし合うよう約束し、リョウタの家を後にした。

その後、ヒロユキとは音信不通になった。
例の事件があってからしばらくして、一回だけヒロユキが住んでいたアパートの前を通りがかった際、
外から部屋の様子を見たことがあったが、空き家になっていた。
おそらくは荷物も完全に移して引っ越したのだろう。

リョウタとはちょくちょく近所でも会ったり、
サークルの定演なども行ったりして交流はあっていたが、
ヒロユキ関係の話を聞いたりはしなかった。
彼も進級するにしたがって、レポートや就活の準備などで忙しくなっていき、
私もそれなりに音楽活動でバタバタしていたので、絡む回数は減っていった。

季節は流れ、1年と少しして家庭の事情で帰郷することになった。
帰り際に数日時間を作って、お世話になった人々へ挨拶回りをした際にリョウタとも久々にゆっくり飲みに行ったのだが、
その時にリョウタからこんな話を聞いた。

リョウタ「あれからヒロユキさんと同じ職場だった友達から聞いたんですけど、
ヒロユキさんの彼女、そこのバイト先では有名なモンスターだったそうで、
友達はその子に当たらなかったそうなんですけど、
ヒロユキさんに当たるまで4、5回くらい担当のカテキョを変えてたそうなんですよ。
理由はよく分からなかったんですけど、多分ヒロユキさんがやられたみたいに変に依存されそうな兆しがあったからじゃないですかね。
ヒロユキさん、面倒見良かったって言うか、困ってる人を放っとけないような人だったじゃないですか?
だからそこに付け込まれたんじゃないかと。」

なんとなく頷けた話だった。
地元の高校時代も、学園祭のバンドでドラムを頼まれたら断れずに3バンドも掛け持ちしていたし、
他のバンドでギターが足りない時は私に依頼してきたりもした。
それこそ、ご老人が横断歩道を渡るのを自主的に手伝うなんていう、
絵に描いたようなボランティアまでしていたような奴だった。
そんな心根の優しい男だったからこそ、
そこを病んだ彼女に付け込まれて一緒に堕ちていったのだろうか。

出立の日、宅配便に荷物を託し、早めに出ようと大家さんに挨拶に行ったら、
大家さんは自分のタクシーで送ってくれた。
最後までお世話になりっぱなしだったが、大家さんは笑顔で
「また横浜来る機会があれば、いつでも運転手するからね!」
と言ってくれて、涙腺が緩みかけた。

駅に向かう車中、ふと大家さんが口を開いた。

大家さん「本当は言わない約束だったんだけど、
歌屋くんも地元帰るって言うし、もう時効だから…

実はあれから、一回だけ歌屋くんのお友達を乗せたんだよ」

お友達?誰だ?と思ったが、
すぐにヒロユキの事だと分かった。

大家さん「いつ頃だったかな…確か去年の今頃だったか、
一回お友達を降ろした山手の付近で、えらく酔っ払ったのを乗せたんだ。
乗せてから歌屋くんのお友達だって気付いたよ。
相変わらずバチッとしたスーツなんか着ちゃってて、その時は一人だったよ。
ベロンベロンに酔っ払ってて、住所訊き出すのが大変だったけど、
俺も前の時の事があるから、まるっきり初見のお客さんとして乗せたんだ(笑)

行き先聞いたら『元町』って言うからさ、
まさかこんだけ酔っ払っててまだ飲むつもりかと思ったけど、そこは俺も何も言えないじゃん?
結局、元町で降ろしらんだけど、それまでずっとポケットの中でブーブー言ってんだよ。
ケータイ鳴ってんじゃないかと思って、その時ばかりは
『お客さん、ケータイ鳴ってないですか?』って訊いたらさ、
『今は大丈夫です』なんて言うの。
なんか変な言い方だなーって思ったけど、そこはお客の言うことだからね、そのままにしといた」

多分、例の『彼女』からだったのだろう。
高そうなスーツを着て、始終鬼電が入っていたという事であれば、
その時は『彼女』と一緒に過ごしていたと見て間違いないと思う。
だが、もし大家さんの話が本当なら。
その当時の人間関係や住まいを捨ててでも優先した『彼女』からの着信を、なぜヒロユキは取らなかったのだろうか。

大家さん「元町で降ろしてからもフラフラして歩いてっからさ、
大丈夫かと思ってしばらく見てたんだけど、
ポケットからケータイ取り出して見てたみたいで、
しばらくしたらすっげぇ大きい声で『クソがぁ!!』って叫んでたの。
なんかムシャクシャして飲んでたんだろうけど、
若いうちからあんな飲み方してたら、年取ってロクなのにならねぇと思って心配したんだよねぇ…

おっと!別に悪口言ってる訳じゃなくてホントに心配してたんだからな!(笑)
歌屋くんはそんな地元戻ってもそんな飲み方したらいかんぞ」
大家さんは笑ったが、自分は曖昧にしか笑えなかった。

経緯も状況も分からないが、おそらくヒロユキは彼女の『教育』から覚めていたのではないのだろうかと思う。
不倫したカップルなどにあるそうだが、
浮気がバレた際に本来のパートナーに対し居直って、
浮気相手がいかに魅力的であることを引き合いに出したり、
別れたら相手と一緒になると信じて疑わないことが多々あるという。
それを薬物でおかしくなることと重ねて「ラリる」と言うらしいが、
あの時のヒロユキも「ラリっていた」状態だったのだろうか。
それが時を経るにつれて、少しづつ元の状態に覚めていったのが、大家さんが乗せたという時期だったのだろうか。
だとしたら、その時ヒロユキは、自ら閉ざしてしまった我々との繋がりをどう思っていたのだろうか。

横浜駅のロータリーで降ろしてもらい、
最後に握手をして「それじゃ、またな!」と大家さんに言われた時に、不覚にも涙が零れてしまった。
失ったり、無くなってしまった繋がりもあれば、
こうして生まれた新しい繋がりもあった。

人の縁とは異なるものだと思い、大きな横浜駅の駅舎を見つめて、
遠くに行ってしまった友達の顔を思い浮かべたが、
やっぱり何だかぼやけてしまって、考えるのを止めた。

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