友達の作り方論的なのについて
ぶっちゃけ意識して友達作りとかしてる? ってのがオチなんだけど、色々考えさせられる。
友達って何というか、色々人と交流していて、最後に残った人間関係ってだけなんじゃないかね。
こういうのが友達だとか、親友の定義とか、そういうのがいまいちパッとしない。
何というか、やたらウェットな関係を本当の交友関係だと信じてる人が偶にいる。要は漫画的な人間関係が真実なんだと思ってるのだろうな。
自分自身がどうなりたいかは、自分が努力して近づけることはできるけど、相手がいるというものに理想をぶつけるのって、実際いたら友達になりたくないぜ?
偶に暇なときにメシ食いに行くだけでも友達だし、Twitterのスペースで喋るだけでも、楽しくやれるなら友達じゃないかね? なんでこうハードルを上げてしまうのか?
打算とか一方的な好意とか、そう言うので近づくなんて場面を割と見聞きするけど、そんなの楽しいのかしら?
友達をコレクションだと思って、フォロワー数誇る人いるけど、それってどこまで行っても自分本位だろうと。
大人になると友達作れないってのは、一面的には正しいけど、別の面では間違ってる。
新しいことに興味を持って、変なプライド持たなければ、そんなに難しい話ではないよなぁ。
色んな場面でありえる事だけど、ある種の集団に混ざってるだけで、友達が増えた気になる現象とかある。
横着な連中の中のいじられキャラみたいなの。
そこまで言わないにしても、「君、そこにいて楽しい?」って人っているところにはいる。
帰属欲求を満たす事は友達とは違うんだよなと。
帰属欲求を満たすことと友達作るのは違うんだけど、それを勘違いすると集団心理に流されやすくなる。
帰属にしがみつくことが全てになって、自分の人生を豊かにしようという意識がなくなる。
自分の人生を豊かにするとは、何処に所属してるとか、どれほどフォロワーを増やすということでも、有名人の知り合いがいるとかでもない。
人と交流して、様々な刺激を受けて、自分をよりマシな存在にしようという事だ。
その為には、友達の言葉に耳を傾けるとか、紹介されたものにトライしてみるとか、適度な心地よい距離感を保つとか色々ある。
勿論、その距離感がほとんどゼロが気持ちいい同士って人もいるだろうし、稀に絡むぐらいがいいと言うこともある。
専ら奢られっぱなしとか、自分が与えられるものがないとか、そう言う負い目を感じる場合だってあるだろう。
でも、相手が自分のこと友達って言ってくれるなら、それは友達なんじゃないですかね?
「自分が友達って言ったら迷惑かけるかも」みたいなこと言う人おるけど、これって単に相手が自分のことを友達じゃないって言ったときの予防線なのよね。
自分が友達だと言って、相手が違うって言うなら、相手はそんな程度の人間だったってだけじゃない?
一方で、ちょっと話した――一方的に語りかけただけで友達判定しちゃう人もいるので単純な話ではない。
重要なのは、相手が喜んでることに満足できるかどうかじゃない?
会話って話が盛り上がることに価値があるけど、どうも友達がいないとか少ない人って、どんだけ自分が喋ったかとか、相手を黙らせたかって事をスコアだと思っちゃうのよね。
本質は、相手と豊かな人間関係を築き、自分を豊かにすることであり、自分の狭い了見を満足させる事じゃない。
豊かさとは他人に観察される数字ではないし、人に評価される属性でもない。
友達を通して、自分に新たなものを見つけられればとても幸福だし、自分がもしそれを相手に与えられるのならば、それが自分の価値なんじゃないかな?
そしてそういう人は、うっかりしたとこで出会った人で、楽しくおしゃべりできたり、同じ目標を持ってたりとか、そういう人ってだけだよ。
敢えて方法論があるとしたら、多くのことに興味を持つことと、素直になること。そして自分本位にならないってだけじゃないかしら。
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