「一周回って常識で考えろよ」の話

 最初に言っておくと、「常識とはそもそもなんだ」を確定させたい訳ではない。

 常識は状況、立場、環境、時代等によって変わるから、一つ固定された常識というものは存在しない。
 それに自分の好みの問題や、自身の利害の問題、或いは精神的圧迫を目的に「常識で考えろ」と言う人がいるのも確かである。

 そういう事情により、常識という言葉は使いづらくなっているのは確かだ。
 とはいえ、明らかに度を越した行動をした時、それに怒っている人に対して「常識は人それぞれなのだから」と言う人が、人並み程度の道徳を備えている事はあまりないのは、誰しも経験上理解できると思う。

「人が自分をどう見ているかなんてどうでもいいだろう」
 というのは、一面的には正しいが、それが人を積極的に不快にさせていいと言うことにはならない。
 確かに、何が不快なのか、どうして不快なのかと言う話になっていくと、その不快という感情そのものが社会通念的にアリなのかどうかと言う話にもなる。

 この辺は結局バランスでしかない。
 ノイジーマイノリティに全面的に妥協する事で、社会効率だの自由だのが全体的に奪われるのはアリなのか。
 具体的な基準は決められない。

 しかし、人の「お気持ち」を馬鹿にしていると、自分の感情で我慢できない現象に対して、「お気持ち」という誹りを受けた時、どういう顔ができるだろうか?

 コレはリベラルとコンサバの戦いとか、表現の自由とフェミニズムの戦いとか単純な二元論では語れない。
 複雑であり面倒であり、どうしようもない。

 そうであるなら、人が批判するだろう事は、それが合法的であっても隠れてすべきだろうし、その批判が十分な妥当性を持っているのであれば、自分のわがままを押し通していいことにはならない。

 結局のところ、相手がどう思うかと言う事をきちんと考えられるかと言うところになる。
 その上で自分の行動と相手の言動とを判断すべきだし、それは相手方も自分に対してすべきだろう。
 そういう風に全員が相手のことを考えられるからこそ社会は成立し、平和になるのだ。

 どのような立場であれ、良識とか道徳とか形のないものこそ大事にすべきで、それを捨て去れば、万人は万人に対する闘争を行うしかなくなるのだ。

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