「ほかの人が先に降りていくのです」
降誕節第7主日 2024.2.11 板野靖雄
板野のメモによる八谷先生の説教のまとめ
ヨハネ福音書5章1節以下は病人のいやしの奇跡物語である。「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた(1節)」。物語の時期は「ユダヤ人の祭り」の時。ただし如何なる祭りであるかは不明である。「エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で『ベトザダ』と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった(2節)」。物語の場所はエレサレムのベトザダの池である。なお後代の発掘調査でこれらの回廊が確認されている。
「この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、身体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた(3節)」。何故か?それは池にまつわる不思議な伝説があったからだ。「彼らは、水が動くのを待っていた。それは主の使いが時々池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき時、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである(3b~4節;底本に説が欠けている箇所の異本による訳文)」。この伝説に基づいて、病人たちや怪我人たちが集まって水が動くのを待ち続けていたのだ。
イエスのいやしの物語が始まる。「そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた(5節)」。その人は人生のほとんどをベトサダ池の回廊に横たわっていた。イエスはその人を見て「よくなりたいのか(6節)」という。それは不思議な問いだ。その人が「よくなりたい」と思っているのは自明のことではないのか。その人は、「もう長い間病気であり(6節)」、いやされたいから、池のほとりに横たわり、水が動くのを待ち続けていたのだから。しかしその人はイエスの問いには答えず、イエスに訴える。「主よ、水が動く時、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです(7節)」と。その人は嘆く。「動けない自分を助けて池に入れてくれる人がいない、他の人が先に降りていく」と。「自分は病人の中でもさらに弱い。だから真っ先に池に入れない。だから治らないのだ」と。この人は、この池の伝説に取り憑かれていた。自分の人生をこの伝説に明け渡していた。元の「治りたい」という思いがやがて、どうやって池に入るかという関心に変わっていった。なぜ病気が治りたいのか?それはいのちがあるからだ。「池に入る」は治るための手段にすぎない。そして治ることの目的はいのちをより生きることである。ところがこの男は、生きることを忘れている。治るため手段がここでは目的になってしまっている。
なぜ人は健康でありたいか?それはいのちをしっかりと生きるためである。健康は手段である。目的はいのちである。だから病気であってもいのちを生きるのだ。どんな時も主なる神の御心に従って、そのいのちを生きるのだ。そして生きるために命があることに感謝する。神によって命を与えられ、生かされていることに感謝する。自分を助けてくれない他の人が悪い!この愚痴だけとなる。これがこの人の38年の人生であった。一番大事な「生きる」という目的を見失い治るための手段が目的となってしまった。目的と手段が逆になった38年間であった。
イエスはその男に問う、「よくなりたいのか」と。それは男にその生き方を問うている。「こんな伝説にしがみついていてはならない。ここにいてはだめだ。もっと違う生き方がある」と。ではそれはどんな生き方か?イエスは命じる。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい(8節)」と。
1.「起き上がりなさい」。イエスは38年間池のほとりに寝ていた人に言う、「起き上がりなさい」と。「起き上がる」、それは眠りから目を覚ますこと。池の伝説にとらわれることは眠ることだ。「その眠りから目覚めよ」と言う。またこの言葉はエフェソ5章14節「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ」を想起させる。これはイースターにおける招きの言葉。「起き上がる」、これはイエスの復活の出来事である。これはこの男の人生のもう一度の始まりの物語である。伝説にしがみつき死んだように横たわるだけの男が「起き上がる」。それはこの男のいのちの復活の物語である。
2.「床を担ぎなさい。「床」とは病人が38年間、すみかとして寝ていたところ。目的と手段を逆にした場所。今まで自分が床の上にいた。今度は逆に「あなたがその床を担げ」と言う。あなたの依って立つ根拠をひっくり返すのだ。
3.「歩きなさい」。38年横たわっていた男に「歩きなさい」と言う。池の伝説にとらわれて目的と手段が逆になった場所。「もうここにいてはならない。もう一度自分の生き方へ歩き出す。ここではない所へ自分の足で出て行きなさい」イエスに、そう言われた男はどうなるか?すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出した(9節)」。その男は「起き上がり」「床を担ぎ」「歩き出した」。その男の生き方が変わった。目的なく横たわり続ける人生ではなく、自分の足で歩き出した。38年にして、初めて自分の生き方を始めた。これは悔い改め、立ち返り、メタノイアの物語である。ここにイエスの復活物語の小さversionがある。
教会は、1週間ごとに、自分のよって立つ場所を見つめ、1週間の間に見失ったものを取り戻す場所である。この時にメタノイアが起こる。私たちは、他人のせいにしない。私たちはもう一度立ち上がり、歩きます。メタノイアは感動ではない。聖書を読んで、立ち返り、生き方が変わる。私たちはイエスの言葉、聖書の言葉を聞いて立ち返る。これが私たちの聖書の読み方である。2月14日の灰の水曜日、これより受難節(レント)に入る。
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