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「イエスに手をかけて捕らえた」

 先週より受難節に入っている。マルコ14章43~50節は、イエスがユダに裏切られ、逮捕される物語である。旧約聖書の創世記第3章において、人間は蛇に誘惑され、その誘惑に負けてしまう。神の戒めを破る人間の罪が描かれる。新約聖書において、イエスは40日間にわたるサタンの誘惑を受ける(1章12~13節)。そしてそれを退けて試練に打ち勝つ。人間は蛇の誘惑に負け、イエスはサタンの誘惑に勝つ。
「神の子(神の愛する子)(1章11節)」イエスの生涯は試練・誘惑をもつて始まつている。「神の国は近い(1章15節)」と「神の福音を宣べ伝える」イエスが、神の国から「遠い」「荒れ野」で、まず始めに試練に会う。それはなぜなのか?問いが突きつけられる。

 14章32~42節は「ゲッセマネの祈り」の物語である。イエスは祈る。まず自分の願いを祈る。「この盃を私から取りのけてください(36節)」と。しかしイエスの祈りは変わる。「しかし私の願いでなく、御心に適うことが行われますように(36節)」と。自分の思いや願いを求める祈りから、神の御心を探る祈りに変わる。しかしイエスが戻ってくると「弟子たちは眠っていた(37節)」。イエスが神の御心を祈る間、弟子たちは眠つてしまつていたのである。イエスはペトロに言う、「シモン、眠つているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚ましていなさい。心は燃えても、肉体は弱い(38~39節)」と。誘惑とは何か?「心は燃えても、肉体は弱い」は英訳では「The spirit is willing but the flesh is weak」。Spirit(魂・霊)はwill(思い。意志)を持っている。しかし肉体は弱い。弟子たちにも、イエスと一緒に祈ろうという心、思い、意志はある。しかし肉体は弱い。だから、その意思にかかわらず肉体の欲望(欲求)に負けて居眠りをしてしまう。魂と肉体が分離するところに誘惑がある。本来あるべき姿であろうとする思い。意志とそうならない現実の姿が乖離する。そこに誘惑、試練、試みがある。

 これらのことが如実に出てくるのが、イエスの逮捕の物語である。「さて、イエスがまだ話しておられると、12人の一人であるユダが進み寄ってきた。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群集も、父Jや棒を持って一緒に来た。イエスを裏切りろうとしていたユダは『私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃さないように連れて行け』と前もつて合図を決めていた(43~44節)」。ユダはどんな人間であるのか?ユグの紹介がある。ユダは「十二人の弟子の一人」であると。聖書はユダを「イエスの弟子」とはつきりと書く。弟子の本来あるべき姿は、師に従っていく姿である。ユダもその意志を持っていた。しかしそのユダがあるべきでない姿を表してしまう。本来イエスに従うべきユダがイエスを裏切るのである。

 「祭司長、律法学者、長老」たちは神殿で聖書を学び、聖書を教える人達である。彼らのあるべき姿は、聖書に従って生きる姿である。しかし、その彼らが遣わした群集は「剣や棒を持って一緒に来」る。そしてその「人々はイエスに手をかけて捕らえ(48節)」る。「1父1や棒を持つて」「イエスに手をかけて捕らえる」、それが彼らの遣わした人々の現実の姿であった。さらに「居合わせた人々のうちのあるものが、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした(47節)」。イエスの回りにいた人々も剣を抜く。イエスに従って生きていこうとしている人々も剣を手にする現実がある。「私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていた(49節)」。イエスは昼間、神殿の境内で教えていた。イエスは教え、人々は学んでいた。これがあるべき姿。しかし、夜になると、人々は剣を取り、手下に打ちかかる。あってはならない姿が現実となる。そして「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまう(50節)」。イエスに従う意思、思いを持っていた弟子たちが、現実にはイエスを見捨てて逃げてしまう。

 まことに「心は燃えても肉体は弱い」。ユグも、弟子たちも、祭司長も、律法学者、長老も、群衆も、その肉体の弱さが顕になる。すべての人間が誘惑に陥る。そして、あるべきでない世界、真実とは違う世界に迷いこんでしまう。聖書はそれを「罪」と呼ぶ。

 その中でイエスが言う、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである(49節)」と。祭司長、律法学者たちはこれまで聖書を学んできた。イエスの弟子たちは「神の国」のことを聞いてきた。しかし今日の物語の中で、誰も聖書を語らない。それどころか聖書の言葉が一言も出てこない。その中で、ただ一人イエスだけが聖書を語る。聖書の言葉を語る。このような事態にあっても、イエスだけが聖書の世界を生きている。イエスだけが聖書の言葉が実現するように生き抜いている。ここに人間とイエスとの違いが描かれる。人間は、蛇の誘惑に負け、イエスだけが荒野のサタンの誘惑に打ち勝つ。なぜか?それはイエスだけが聖書の言葉の現実を生きているからだ。 

 誘惑、試練、試み、この中にあって、聖書の言葉を生き、試練に打ち勝つ神の子イエスを見つめていく。同時に肉体の弱さに破れる人間の姿を見つめていく。罪に陥る人間の姿を見つめていく。イエスを十字架に追いやっていくこの人間の姿を見つめていく。


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