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「遠くにいるすべての人にも」

板野のメモによる八谷先生の説教のまとめ
使徒言行録2章37~42節
聖霊降臨節第3主日 2023.6.11

 使徒言行録2章1節に五旬祭の日のペンテコステの出来事が語られる。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然激しい風が吹いてくるような音が、天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。これが聖霊降臨の出来事である。それが実際にどのような出来事なのかはわからない。しかし確かなことがある。この日から「ペトロは11人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた(14節)」。ペトロは「立ち上がり」説教を始めたのである。ペンテコステの出来事は弟子たちが「立ち上がった」出来事である。ペトロが逃げ出さず、人影に隠れず、キリストの真理について語り始めた出来事である。

 ペトロは「力強く証しをする(40節)」。イエスを知らないと三度否んだあのペトロが、十字架から逃げ出してしまったあのペトロが「甦りのイエス」について「力強く証しする」のである。ペトロの説教は36節の「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」という信仰告白をもって終わる。この言葉が言わんとする「十字架につけられたイエスは甦りの主である」、「イエスはキリストである」は古代教会の最古の、最初の信仰告白である。

 では、イエスをキリストと告白する者、すなわちキリスト者はどうなるのか?
「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほか使徒たちに『兄弟たち、私たちはどうしたら良いですか』と言った(37節)」「すると、ペトロは彼らに言った『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けます』(28節)」。ここで、イエスを主と告白する者には四つの「約束」が与えられると言う。それは①悔い改める、②イエスの名によって洗礼を受ける、③罪の赦しを受ける、④賜物としての聖霊を受ける、の四つの「約束」である。

①悔い改める
 これはイエスの福音の始めの言葉「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1章15節)」にある。「神の国」を前にした「悔い改め」である。これは心の持ち方ではなく、「立ち返り(メタノイア)」という生き方の問題である。
②イエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受ける
 イエスはヨハネから洗礼を受けた。これからは、イエス・キリストの名によって洗礼を受ける。私たちが「甦りの主」と告白する方の名前によって洗礼を受けるのである。
③罪の赦しが与えられる
 立ち返り、神の国を求めて生きていくのである
④賜物として聖霊を受ける
 聖霊は私たちの心のあり方、いわゆる「霊性」や悟りではない。聖霊は外から働いて、外から私たちに与えられる。イエスをキリストと告白するキリスト者に、外からの聖霊が働く。その神の霊の働きがキリスト者を生かす。この四つの「約束」に生きるのがキリスト者の生き方である。

 この約束にペトロはさらに付け加える。「この約束は、あなたがたにも、あなた方の子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり私たちの神である主が招いてくださるものなら誰でも、与えられているものなのです(39節)」。ペトロの説教を「聞いて心を打たれた(37節)」エルサレムにいるイスラエルの人々がこの「約束」に与るのはわかる。しかしペトロは「あなた方だけではない」と言う。「あなた方の子ども」にも、さらに「遠くにいるすべての人」にこの「約束」は与えられると言う。

 この「遠くにいる人」とは誰か?この「遠く」とはどういい意味か?
①時間的遠さ:
今の時間とは隔たった時間に生きる者。それは子供たち、さらには子孫である。それは時間的に未来に隔たった時間を生きる者たちである。それはさらに時間を過去に遡り、先祖にも当てはまる。「神の約束」は子孫にも先祖にも救いの「約束」を語ることができる

②距離的遠さ:
「エルサレムには天下のあらゆる国から帰ってきた、信心深いユダヤ人が住んでいた(5節)」。また「私たちの中にはパルティアメディア、エラムからの者がおり、またメソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポントス、アジア、フリギアパンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる(9~10節)」。これはユダヤにとって「全世界」でる。この人達は各地に散って帰っていく。地理的に隔たった遠くにいる人にも、「神の約束」が与えられている。

③民族的遠さ:
全世界に散っていく民族、その民族的な違いを越えて「神の約束」は与えられている。イエスをキリストと信じる信仰の故に「神の約束」が与えられている。神が招くすべての人に「神の約束」が与えられている。このペトロの説教から何が生まれたのか?「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日、三千人ほどが仲間に加わった。彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった(41~42節)」。「仲間」ができたのである。ペンテコステの出来事は、「仲間」を生み、そしてそれは「交わり」となる。ペンテコステの日、それは教会が生まれた日である。教会は「仲間」である。教会は「集まり(エクレシア)」である。教会は建物ではない。「神の約束」によって、キリストの名によって「集められた者」が教会である。


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