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「イエスが離れ去って行かれるとき」 


使徒言行録1章6~11節キリスト昇天日礼拝(復活節第7主日)2023.5.21
板野のメモによる八谷先生の説教のまとめ

 本日は、教会暦によれば、キリスト昇天日にあたる。イースターの40日後がこの昇天日となる。なぜ40日後か?それは使徒言行録1章3節「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠を持って使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」の記載に依っている。「甦りのイエス」は弟子たちに40日間、「神の国について」説教し、彼らと共に食事をされたという。この40日という日にちは、聖書ではこの箇所にのみ記述されている。

 では40日を過ぎるとイエスはどうなったか?「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた(9節)」。この「天に上げられた」出来事を「キリスト昇天」と言う。「キリスト昇天」の物語は、ルカ24章50節マル16章19節に、ほぼ同じ内容で語られている。これらは比較的新しい物語である。マルコには付加の形で添えられており、マタイには記載がなく、ルカと使徒言行録で登場する。「キリスト昇天」の物語は、後に弟子たちの信仰によって作られた物語である。しかし古い伝承によると、古代教会において「キリスト昇天」の信仰はあったことがわかる。AD50年頃にパウロによって書かれたフィリピの信徒への手紙2章6~10節に、その最古の信仰告白がある。

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名に膝まずき、すべての舌が、『イエス、キリストは主である』と公に宣べ伝えて、父である神をたたえるのです」。フィリピの信徒への手紙はパウロの最後の手紙である。パウロはここで、すでに教会にあった信仰告白を、「キリスト讃歌」と呼ばれている定型文に組み込んでいる。「「キリスト昇天」は教会の最も古い信仰告白の一部である。「甦りのイエス」を告白する教会は、「神がイエスを高く上げた」という信仰を持っていたのである。

 ではこの「キリスト昇天」は何を告白しているか?
①「キリストの先在」
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものである」。もともとキリストは神と共にあった。神と等しいものであった。
②「卑下」;人間と等しくなった出来事
「神と等しいものであることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ」、これはキリストが人間と等しくなった出来事である。人となった神、人となったキリストが描かれる。これが「クリスマス物語」である。そして「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」という。キリストはどこまで低くなるか?それは十字架の死まで低くなったのである。

 ここに二つの「卑下」、二重の苦しみがある。ひとつは人となる苦しみであり、もうひとつは十字架の死の苦しみである。そして「このため神はキリストを高く上げ」で次の物語に入る。神はイエスを十字架の死から引き上げられた。それが「復活物語」である。「甦りのイエス」は40日間その姿を示された後、「高く上げられ」「神の右の座」に着かれる。そして終わりの日に再びやってこられる。この再臨を目指す「高拳」のキリストの姿を表すのが昇天日である。

 「昇天」と対応するのは何か?それは「受肉」、つまり「クリスマス物語」である。では「キリスト昇天」は私たちに何を語るのか?それはクリスマスのメッセージの逆を語る。同じ信仰を逆に表すのである。クリスマスは「神我らと共にいますインマヌエル」の出来事である。神が人間と共におられる証、それがクリスマスのメッセージである。

 では「昇天」の意味は何か?「こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名に膝まずき、すべての舌が、『イエス、キリストは主である』と公に宣べ伝えて、父である神をたたえるのです(フィリピ2章10~11節)」。ここに「キリスト昇天」の意味が語られている。
①「イエス・キリストは主である」という告白
イエスは苦しみ、十字架の死に至った。しかしそのイエスがよみがえり、神の右におられる。イエスは主となる。イエス・キリストは主である
②「我ら、神と共にある」という信仰告白
それは、「神、我らと共にいます」とは逆方向の告白である。私たち人間が「父なる神を讃える」「我ら人間が神と共にある」という告白、信仰の証である。この「甦りのイエス」が「主である」という信仰は、「我ら人間が神と共にいる」ことを示している。だから私たちは神を褒め讃えることができる。私たちはキリストを通して、苦しい時も「神の右にいる」のである

 「甦りの信仰」を突き詰めると「神、我ら共におり、我ら、神と共にある」という信仰告白に至る。「甦りのイエス」に続く「イエスの昇天」は、我ら自身が「神の右に坐す」ことを教える。だから我らは終わりの日を希望を持って待ち望む。「神と共にある」弟子たちは、次に50日目の出来事に向かう。


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