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「わたしについて来たい者は」


 イエスとは誰か?「イエスが1人で祈っておられたとき、弟子たちは共にいた(18節)」。イエス自らがその弟子たちに尋ねる。「群集は、私のことを何者だと言っているか(18節)」と。「弟子たちは答えた『洗礼者ヨハネ』と言っています。他に『エリヤだ』という人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』という人もいます(19節)」。人々は「洗礼者ヨハネの再来」、「旧約の偉大な預言者の再来」、「旧約の預言者の甦り」などといっていた。そこには様々な答えがあった。この「群集はどう言っているのか?」という問いは、人の噂や評価を尋ねた問いである。それは所詮、他人事の問いである。

 そこで、イエスは弟子たちに問い返す。「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか(20節)」と。このイエスの問いは他人事の問いにはならない。それは「あなたはイエスを何者だと言うのか」を問う。その問いはあなた自身を問う。そしてその問いは、私たち自身に向けられている。イエスというお方は何者なのか?この「何者か?」という問いは「何か?」という問いではない。「イエスとは何か?」というwhatの問いではない。それは哲学の問いであり、他人事の問いである。ここでは「何者なのか?」というwhoが問われている。「私にとってイエスは誰か?」、それが問われている。ペトロが代表して答える。「神からのメシアです(20節)」と。「メシア」とはヘブライ語で「油注がれた者」を意味する。それはイスラエルの王が、その即位にあたって、頭に油を注がれる儀式に由来する。それがギリシャ語で「キリスト」と訳される、ペトロは「あなたは神からのメシア・キリストです」と答えている。ペトロにとって、イエスというお方は何者なのか?ペトロはイエスを「メシア・キリスト」と告白している。ここにイエスを「メシア」と信じる信仰告白が始まる。

 「メシア」はイスラエルの王である。この人間の王は人間を支配する。だが、「メシア・キリスト」は違う。この「メシア・キリスト」は人の上に立って人を支配する王ではない。人々はそれを誤解する。だからイエスは弟子たちを「戒め(21節)。この「メシア・キリスト」は人々の下で、人々に仕える僕である。「メシア・キリスト」は人々を治める王ではなく、苦しむ僕である。

 イエスを「メシア・キリスト」と告白する時、私たちは人を支配する王をイメージしない。人に仕える僕の姿をイメージする。私たちにとって「イエスとは誰か?」それは苦しむ「メシア・キリスト」である。いま私たちは教会暦で受難節の中にいる。私たちはイエスの苦しみについて、受難節第2主日て学んでいる。主なる神が苦しまれる。キリスト・イエスが苦しまれる。これはどのように描かれてきたのか。「神が苦しむ」、「キリストが苦しむ」、それはどうやって苦しまれるのか?神の苦しみを二つの仕方で考える。そこにはパウロが受け取った古代教会の最も古い信仰告白がある。パウロの最後の獄中書簡である「フィリピの信徒への手紙」の2章である。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめいに自分のことだけでなく他人の事にも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです(1~5節)」。ここではイエス・キリストが、互いに「へりくだる」ことの模範であるという「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(6~8節)」。

 パウロの教会の伝承は、それをメシア・キリストの「へりくだり」、「従順」と表現する。神学の用語ではこれを「卑下」という。神が低くなる、下行する。ここには2種類の「卑下」が描かれる。「キリスト」は「神の身分」、「神と等しい」という。キリストは天地の初めから「神と共にあった(ヨハネ1章1節)」。そのキリストが「人間と同じ者になる」。最初の苦しみはこの「人となる苦しみ」である。これは「受肉」と呼ばれる。福音書においてはクリスマス物語であり、神が人となる出来事である。もう一つの「卑下」が「十字架の死」である。人となったイエスが「十字架の死」まで苦しまれるのである。イエスの苦しみに出会う私たちはどうするのか?「私について来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい(23節))」。イエスをキリストと信じる者は、この世においてどうするのか?それはイエスに従っていくのである。イエスに従うことは、苦しむイエスに与ることである。

 イエスが十字架を背負って歩まれたように、一人一人が自分の十字架を背負って、答えを求める。自分にしか負えない十字架がある。私には私に課せられた十字架がある。その十字架を担って、イエスについていくのであるイエスは言う。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者はそれを救うのである(24節)」。「自分の命を救おうとする者は命を「失う」。ところがイエスのために「生命を失う者」はかえって命を救う」、命を得るという。そこに大いなる逆説の世界がある。


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