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西尾維新『人類最強の初恋』感想と最強シリーズについて

「──だが、それならばお前も既に目的は果たしたのではないか? これ以上、お互い時間を無駄にすることもあるまい」
 あー、あたしはあんたと違って、時間にそんな多くの価値を見出してないから。
「時は金なりと言うぞ」
 つまり時間にはたかが金くらいの価値しかねーんだろ。時は人なりっつーなら、もっと大切にしてやってもいいけどな。

 
最強シリーズについて

 
 表紙を飾る女性・哀川潤を主役としたシリーズ。
 哀川潤とは、戯言シリーズ、人間シリーズに登場する、通称・人類最強の請負人。赤色。普段はシニカルに構えつつも、誰よりも熱く真っ直ぐな主人公気質で、戯言シリーズでは語り部を務める「ぼく」(戯言遣い)をからかったり戒めたり、厄介ごとに巻き込んだり支え導いたりする存在。最強のみならず万能であり、ミステリーでもある同シリーズでは、(戯言遣いが推理を披露したその後に)解決編を担当するのが定石となっていた──解決した事件を完結させる、終わった物語を更に終わらせる。その役割はスピンオフでも存分に発揮され、バトルがメインとなる人間シリーズにおいても、ラストを締め括ることが多い。

 そんな誰よりも主役らしくあり続けた彼女が、いよいよ主役を担当することとなったのが本作であり本シリーズである。作者の西尾維新さんは、ノベルス版のあとがきで、哀川潤を主人公とした話について、「書こうとして書こうとして、そのたび何度も挫折してきました」と述べている。ここで経歴を振り返ってみると、2010年に『零崎人識の人間関係』四部作が同時刊行され、人間シリーズが完結を迎えた後、雑誌『メフィスト』にて『哀川潤の失敗』が集中連載された(全5話。連載から長らく宙に浮いていたが、最強シリーズ続刊の『人類最強の純愛』『人類最強のときめき』にて無事収録)。同時期には哀川潤を主役とした『緋色の英雄』なるタイトルが予告されるも、刊行されないままである( 西尾維新さんの言う挫折とは、このことを指しているのかもしれない)。そしてその後、2014年に本作の表題を飾る『人類最強の初恋』が、『メフィスト』に掲載される──ノベルスとして書籍化するのは、その1年後である。
 因みに、『ザレゴトディクショナル』では戯言シリーズ第1弾『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』で小説家デビューを果たす以前の、応募作すべての主人公の名が哀川潤だった、といった話が述べられている。もっとも、彼女が最強キャラとなったのは、主役の座を降りた『クビキリサイクル』でのことだそうだが。

 当然、最強シリーズは戯言シリーズ、人間シリーズとは同一世界上の物語となる。読者として、先にその二つを読む必要があるかと言えば、どうだろう。個人的には十分アリだと思う。戯言ワールドを形成する様々な固有名詞が、詳しく説明されないままどんどん出てくるけれど、それらを知らないまま読み進めるのも、それはそれで面白い読書体験になりそうではある⋯⋯。 

 戯言、人間シリーズに対する本シリーズの特徴について。はぐれ者といった点において、哀川潤は戯言シリーズの戯言遣いや人間シリーズの零崎人識と同様に括ることが可能だが(西尾維新作品は総じて、はぐれ者たちによる人間賛歌である)、そのはぐれかたのスケールが違うというか、まず、話ごとに当たり前のように世界各地(ときには世界すら超えるのだが)を行き来している。戯言シリーズで、父親を探すため本編の外側で世界半周していたくらいである。
 そして、世界各地を行き来するということは、世界レベルで波乱を巻き起こすということでもある。戯言シリーズでは、終盤で“世界の終わり”がひとつのキーワードとなったのだけど、物語の規模という点ではあまり実感が湧かない部分があった。対してこの最強シリーズは、よりリアリティあるものとして、それを実感させてくる──一編一編に、世界の危機が隣接している。物語の規模以外にも、主役の立ち位置や、それから視点──見ている世界の違いというのもあるだろう。

 そう、本シリーズは、哀川潤が語り部を務める。性格的に裏表のあるタイプではないとは言え、これだけの大人物の手の内ならぬ心の内をダイレクトに晒すというのは、作者としてもかなりの挑戦となったことだろう(先に執筆された『哀川潤の失敗』は他者視点)。西尾維新さんは『零崎人識の人間関係』刊行時のインタビューにて、零崎人識がかっこよくなり過ぎたから、そのかっこよさを潰さなければならなかった(=苦しみや、生の感情を描いた)と述べていたのだけど、本シリーズの哀川潤に関しては、あまりそのような意図はないように感じられる。物語シリーズ・セカンドシーズンで行われた「裏切り」ともまた違う、潤さんは語っても潤さんなんだなといった、再確認としての一人称なんじゃないか。そのままでかっこいい人だから。かっこつけない──そう、括弧がつかないのである。球磨川禊ではないけれど、本シリーズにおける哀川潤の台詞には、鍵括弧が存在せず、独白と台詞が一体となっている。裏表のない彼女の性格が表れた書きかたである。 
 ところで、最強シリーズほど極端な形ではなくとも、こうした地の文と会話文で会話する書きかたは、比較的近年の西尾維新作品によく見られる。忘却探偵シリーズや美少年シリーズなど。会話文でボケて地の文で突っ込みを行うのみならず、地の文でボケて会話文で突っ込みを行う様は、新鮮かつスピーディーな読み味である。⋯⋯もしかすると、本作がそうした手法、作風の走りとまではいかなくとも(あまり文体に注目して読んだりはできていないけれど、戯言シリーズの時点で少なからずは見受けられる)、その確立に繋がったんじゃないかと、今回の再読で感じた。

 再読。そもそもこのような感想記事を書くに至ったのは、文庫版が発売したことによる再読がきっかけである。両者(講談社ノベルスと講談社文庫。サムネイル画像の左がノベルスで、右が文庫)の違いについて述べると、一方的に後者の不満点を挙げることになるが⋯⋯。講談社文庫での西尾維新作品は、元々「西尾維新文庫」といった名称で特殊な装丁がなされていたのだけど、どうやら『少女不十分』を最後に(『西尾維新対談集 本題』を最初に⋯⋯小説に限るなら『掟上今日子の備忘録』を最初に)その装丁がなくなったようで、銀色の背表紙が灰色になり、あとがきも収録されなくなった。更に本作の場合、表紙絵が流用だったり、ノベルスに存在したイラストが収録されていなかったり、かと言って新規イラストもなく、サイズや値段を考慮しなければ、文庫版はノベルス版の完全下位互換となってしまっている。勿論、小説を読む分には何も問題はないのだけど(内容は不変)、戯言シリーズや人間シリーズとの統一感が完全に失われている点に関しては、何とも寂しいと感じざるを得ない。

 ⋯⋯と、シリーズの概要はここまでとして、以下は各話の感想になります。因みに最強vs○○というのはこちらが勝手に名付けただけで小説のタイトルではありません⋯⋯。

①最強vs最愛
『人類最強の初恋』   

「⋯⋯わかりました。もう何も言いません。あなたが人類最強だということを示してください。我々に、世界に、そして宇宙に」


 戯言シリーズから、いくらかの年月を経て(細かい時系列は不明だが、戯言シリーズ当時にはリアルの方でも存在しなかった東京スカイツリーが建っていたりする)。
 人類最強の請負人・哀川潤が強くなり過ぎたことで、世界の各組織や機関などが紳士協定を結び、彼女への仕事の依頼を禁じ手とした。そのことに本人が気付いたところから、物語は始まる。  
 ⋯⋯以前、とある孤島での物語を「人類皆きょーだい──っつってな」の一言で締め括った潤さんが、まさかその人類からハブられることになろうとは。 
 そんな中で彼女が出遭うのが──出遭うというか、遥か上空から直撃をお見舞いされるのが、後に『シースルー』と名付けられることになる謎の物体、あるいは宇宙人である。⋯⋯そのついでに、潤さんがいた無人の東京都が更地と化したりするのだが(かつて似たようなことを人類最終がやっていたな⋯⋯)。

 そんな導入から、ER3システムを大混乱に陥れるシースルー。西尾維新さんは以前、どこかのインタビュー記事で、「最強」の能力とは人から愛される能力であると述べていたけれど、シースルーが有する性質は、正にそれを体現している──最強に対する最愛。それと対面した潤さんは、零崎曲識の人体操作や、呪い名のスキルを連想していたけれど、個人的には紫木一姫の処世術が一番近いように感じられた。他にも匂宮理澄の「弱さ」や闇口崩子の愛されぶりなど、強さとは対極の能力や性質をもって生き延びてきた者は少なくない。

 兎にも角にも、シースルーと対峙した者は皆、その恐るべき──否、愛すべき性質に囚われてしまう。誰もがその性質ばかりに注目し、解析しようとする中で、しかし潤さんのみがその内側、シースルーという「個人」に目を向けた。同様に。世界中の誰もが哀川潤を『人類最強』として畏怖及び憧憬する中で、シースルーのみがその内面を慮った。人類外の彼のみが、彼女を一個人として捉え、誰もが見ていない部分を見通していた。
 シースルーから『恋愛星人』(ヒューレット准教授の命名⋯⋯『クビキリサイクル』の時点で彼の名は登場していた)という装飾を剥がした哀川潤と、哀川潤から『人類最強』という装飾を剥がしたシースルー。その点において、両者は強く対応している。

 複雑な要素を取っ払った末に見えてくる真相は、不意打たれるほどに真っ直ぐなもので、ドタバタを経て──一周回ってそのシンプルな結末に着地する様が心地良い、シリーズ開幕の一編は、そんな物語だった。

 ⋯⋯因みに、シースルーの弱点のひとつとして挙がった、「人間は好きなものでもぶっ壊せる」のいうのは、かつて玖渚友を破壊した戯言遣いや、匂宮出夢の幻像を打ち破った零崎人識もまた当て嵌まると言えるだろう。ここで戯言シリーズや人間シリーズを通じて描かれてきたことに帰結するのが素晴らしいなと思う。

 

②最強vs最硬
『人類最強の失恋』 

あたしはこんなに世界と人類が大好きだってのに、嫌われたもんだ。こうしてもろに、ぽっかりと空に浮かぶ地球を見上げることができるからか、しみじみと思う──まるで、片思いなのだと。

 
 あらすじを一言で述べると、哀川潤が地球外──月へと追放される話。どうしてこうなった。 

 このシリーズは潤さんの相方に該当する人物が話ごとに変化したり、あるいは『初恋』のように最初からいなかったりする。既存の登場人物が登場しないわけではないけれど、そこは潤さんらしく、いついかなるときも新しい出会いの扉が開かれているということなのだろう。 そして今回、潤さんの相方を務めるのは、『初恋』でも登場した哀川潤係(嫌な係だ)のひとり・長瀞とろみ。距離が近付いたこちらの方が、彼女の様々な面が見られて、魅力的な人物として仕上がっている。バディとしても面白い組み合わせ。天才と凡人のバディというのは西尾維新作品あるあるだけど、とろみの場合は凡人というより、(潤さんと出遭ってしまったことで)自信を喪失したエリートである。

 物語に関しては、ノベルスで最初に読んだときはあまり印象に残っていなかったのだけど、今回の再読では、才能についての語りや、そこから延長して、他の人々や、月面で対峙する地球外生物(?)ストーンズとの対比によって示された潤さんの生きかたについてなど、興味深く読むこととなった。以前『少女不十分』の記事を書いたときに掘り下げるべき内容だったな⋯⋯。

 並外れた、桁外れの才能を持った人物が、生きるため、あるいは愛する者と共に在るためにそれを手放す、喪失するといった在りかたは、西尾維新作品においても決して珍しい価値観ではない。そんな中で、“自分が人類最強だってえ自覚症状は、そりゃ最高楽しいに決まってんだろ”だとか、“あたしは最強であることがとっても好きだから、それで最強をやめようって気にはなんねー”なんてことを言い切ってしまえるところが、潤さんの「違う」ところなんだろうなと思う。「人間として生きたいならば、自分の性質なんてものはできるだけ隠すべきだ」と述べたのは零崎双識だったけれど、対して潤さんは己の逸脱にどこまでも前向きだ──だからこそ、現在進行形で強くなり過ぎていくのかもしれないが。 
 勿論、零崎一賊が抱える性質と、潤さんの強さといった逸脱を同列に語ることはできないが、『普通』に固執していた双識が、潤さんに憧れた理由として、そうした側面もあるのではないだろうか──彼女に「異端者としての希望」を見た可能性。

 潤さんは他者に譲歩する(請け負う)ことはあれど、自分が世界に「適合」するなんて価値観は最初から存在していなくて、そこが半端に社会不適合な性格をした私みたいな人間にとっては憧れるポイントだったりするのだけど、その上で彼女が凄いのは、皆を、人間を愛し続けるところである──どれほど嫌われ、どれほど避けられ、どれほど裏切られようと。 
 自分を貫きながら、愛する皆と生きていく──突出したまま、人類のレベルに合わせて足並みを揃えたりせず、かつ彼らと仲良くしようとする彼女の人生は、どれほどハードなものか。だけど、そんなハードな人生に挑み続けるのが、哀川潤の哀川潤たる所以なのだろう。

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