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西尾維新『新本格魔法少女りすか』紹介兼感想

一気に、水中から『彼女』は姿を現す。それに伴い、床を満たしていた血液がずずずずずぅっと、潮が引いていくかのように、その嵩を低くしていく。当然だ──『彼女』の肉体を構成しているのはこの『血』。血液こそが、その血液に刻み込まれた魔法式こそが──水倉りすか、自身なのだから。

 
 2003年、雑誌『ファウスト』にて、第一話『やさしい魔法はつかえない』が掲載されたところから、本作は始まった。
 2004年7月に、講談社ノベルスにて第1巻が発売。
 濃厚な文体にスパイスの効いたキャラクター、モチーフを取り入れつつもユニークな世界観に奇想天外な着想をもって織り成される、ファンタスティックでグロテスク、ノスタルジックでジュブナイルな物語は、読者に強烈な印象を植え付け、メジャーとまでは行かずとも根強い支持を獲得する。
 その後、書籍は第3巻まで刊行され、雑誌連載も順当に続く⋯⋯が、第十話を最後に連載がストップ。
 それ以来長らく音沙汰がなく、読者は続きを待望するも、『ファウスト』が廃刊したのもあり、諦めの声も多く出ていた──

 ⋯⋯が、なんと、2019年11月26日、Twitterの西尾維新公式アカウントにて、『新本格魔法少女りすか ラストオブ魔法少女』が、雑誌『メフィスト』2020年VOL.1から連載開始との報がもたらされる。
 第一話が掲載された2003年以来、17年ぶりの、タイトルを変えてのリスタート。この報せを受け、長年待ちわびていた数多の西尾維新ファンが《狂喜乱舞》(ダンシングウィズマッドネス)したことは言うまでもない──


 ⋯⋯なんて、私は雑誌や単行本をリアルタイムで追っていた読者ではないけれど。
 私が本作を手にしたのは、当時の正確な年も歳も覚えていないけれど、『めだかボックス』を受けてのことだった──中学で出会い、人生で最ものめり込んだ娯楽作品である『めだかボックス』が、私にとって初の“西尾維新”体験だった。ここで感想を述べることではないが、まあ⋯⋯とにかく、鮮烈だった。
 それで、西尾維新さんが小説家であることを知るや否や、まず手に取った作品の内のひとつが、この『りすか』だったように思う(たしか、『きみとぼくの壊れた世界』と同時購入だった。先に読み終えたのはあちらだったが、先に開いたのはこちらだった)。
 そんな本作──勿論、正確には今回購読した講談社文庫の方ではなく、新書版の講談社ノベルスの方になるが(ところで、こういう話には疎いけれど、新書が刊行された16年後に文庫版が発売されるって、そうそう見られない事例なのでは? )──を開き、まず衝撃を受けたのは、文章が2段組の構造をしていたことだった。そして次に衝撃を受けたのは、その強烈な語り口である。

 小説にはこのような語りかたがあるのか。
 あんな風に他者を見下したり、侮蔑したりする文章が、小説にはあっていいのか。
 物語の主人公は、あそこまで性格が悪くてもいいのか。
 などと、ある種の感動を覚えたものである。
 ⋯⋯なんて風に言えば、何だか貶しているようにも聞こえるが(主に語り部の供犠創貴を)、そうではなく、しかしそれだけ私が小説や物語というものに抱いていた既存の概念を根底から覆されるような、そんな読書体験だったということを言いたいのだ。
 勿論、そうした感動が、それまであまり本を読んでいなかったことに起因しているのもあるだろうけれど、少なくとも当時の私には、何から何まで新鮮だった。⋯⋯まあ、今でも創貴に匹敵する強烈な語り部なんて、そうそう会えるものじゃないと思っているが。


 本作の、主たる特徴というか、まず目を引く要素は何かと言うと、やはり、ヒロインである小学5年生の女の子・水倉りすかが、常備しているカッターナイフで己が肉体を切りつけて──リストカットすることで、魔法を発動させるという点だろう。何とも恐るべき魔法少女である。⋯⋯私が初めて本作に触れたときは、リストカットという行為そのものを全く知らなかったというのもあって、複雑な設定してるなーって感じの捉え方をしていたものだけれど。
 リストカットと言っても、水倉りすかという少女がいわゆるメンヘラ、病んでいるというような性格をしているわけではなく、彼女にとってのリストカットは、あくまで魔法を行使するための手段でしかない。そういうところも、改めてキレてるなと思う。リストカットだけに。

 本作における魔法は、魔法陣を描いたり、呪文を唱えたりするような、古典的なベース(詳しくないのでいい加減なこと言ってたらごめんなさい)に沿ったものである。魔法を発動させるために、入念な下準備が伴う世界観なのだけど、その中でりすかは、例外的にそのような下準備を要しない性質を持っている。
 だからその点に関しては、頭の使いどころにはなっていなくて(頭を使うのは敵サイドの方である)、その代わり、りすかの中で肝となるのは、最強かつ限定的な切り札──『変身』である。その切り札を、如何にして発動させるか。それが本作のバトルにおける要点で、そのために知恵を振り絞るのが、りすかのパートナーである語り部の少年・供犠創貴の役割となる。
 りすかの『変身』は、各話の中で、ある種の「お約束」になっていて、そこがまた楽しみどころである。⋯⋯それを楽しみどころと言うには、あまりにも残酷でショッキングな発動条件を要する切り札なんだけども。

 ⋯⋯と、ここまではやや感想というよりは紹介的な話になったけれど、ここからは各話ごとに語る形で、物語の詳細に踏み込みます。  
 もう少しネタバレ注意。



第一話 やさしい魔法はつかえない。

 
 福岡県木砂町、地下鉄新木砂駅で発生した、不可解な電車事故。その現場を目撃した創貴は、魔法使いが関与していると推理し、りすかと共にある場所へ赴く──。

 ミステリがベースとなっていることが強く表れた第一話。  
 読み返して思ったこととしては、『クビキリサイクル』は、結果的に玖渚友が謎を解くと見せかけて語り部の戯言遣いが謎を解くといったフェイントを行なっていたのに対し、こちらは創貴が謎を解くと見せかけてりすかが謎を解くといった仕掛けになっているんじゃないかということ。『ザレゴトディクショナル』を読む限り、この頃の作品はどれも戯言シリーズ(の逆)を意識していたとのことなので、十分にありえる可能性だと思う。

 バトルを終えた後の、駅のホームでりすかが創貴に向かって発した台詞、「だからずっと!  友達でいよーね! 」が凄く好き。
 今回もそうだけど、これは一度目の再読のときに印象に残った台詞。それまでの物語展開や彼女とのギャップもあって、いっそのこと感動的ですらある。
 小学生らしさ、というものだろうか。
学校にも通わず、ひとりで父親探しと魔導書の写本に明け暮れる日々を送っていた中、初めてできた友達と同じ時間を過ごすのが楽しいという、ごくありふれた、小学生の女の子としての感情。

 『ニャルラトテップ』の称号を持つ神類最強の大魔道師・水倉神檎の、忠実な『道具』として『製作』されたというりすかは、あらかじめ普通の少女としての人生を用意されていない。そんな彼女が、普通の小学生が普通に送る体験の中から得る感情と同じものを、同じく普通でない小学生の創貴との、普通でない体験の中で得る。
 彼女には父親探しという使命があって、創貴とはそのための協力関係にあるけれど、同時に、そんな彼と一緒にいられること自体が、彼女にとって幸せなのだ──放課後、友達と遊んでいるがごとく。
 創貴はりすかのことを「手に余る駒」と認識していて(故に彼は、りすかのこの台詞に虚を衝かれる)、りすかも望んで彼の非情な指令に従うなど、ふたりの関係は、一般的な友達関係とは到底言い難く、ぎこちない、ともすれば歪なものであるけれど、だからこそ、そんなふたりの物語に、『少女不十分』の文脈を、西尾維新作品の根底に共通するテーマを、強く感じるのである。

 ⋯⋯ところで、タイトルの元ネタを知ってる人がいらっしゃるなら教えてください(小声)。


第二話 影あるところに光あれ。

 
 少女専門の誘拐犯とかいうやべー奴と対峙する話。⋯⋯第一話と比べてあらすじがアバウトでごめんなさい。
 初めて読んだときは、偉大な魔法使い『影の王国』こと影谷蛇之の魔法に対する、創貴が編み出した第一の作戦が、実に小学生的な攻略法で心躍ったものだけど、読み返すと第二の作戦の凶悪さがやべえ。伏線まで丁寧に貼られている。

 前回の高峰幸太郎の「動機」も強烈なものだったけど、影谷蛇之の「動機」、というか「性癖」もまた強烈だった。
 少女を少女のまま保存したいという影谷の欲求は、「大人になんかなりたくない」りすかへのカウンターになっているようにも思えて、笑えない。彼は彼で、皮肉の効いたオチが待ち受けているのだが(そこはちょっと笑う)。
 思うに、りすかシリーズの敵役って、自分の欲求に忠実な、清々しいまでの外道ってタイプの人間が多い気がする。ジョジョ三部みたいな。次の水倉破記は例外にせよ、「やられ役」に全振りしたかのような彼らのキャラクターは、西尾作品としては結構異質であるようにも。

 そんな、創貴の第二の作戦も、影谷の性癖も吹き飛ぶくらい強烈で凶悪だったのが、ラストの創貴の行為なのだが。
 あれは忘れられない。初めて読んだときから。


第三話 不幸中の災い。

 
 前話の出来事をきっかけに、りすかと創貴の衝突、仲違いが描かれる第三話。
第一話の感想で、りすかの小学生らしさについて述べたけれど、ならば今回の対立もまた、小学生らしさと言うことができるだろうか。

 自分の中で、シリーズの中ベストエピソードのひとつとして挙がっていた話だったのだけど、読み返してみるとかなり内容を忘れていた。水倉破記さんの過去とか。
 逆に覚えていたのは、創貴と破記の対決の決着のつきかたが、素晴らしく熱かったということ。それと、あそこから迎える、創貴とりすかの仲直りが、どこかノスタルジックな味わいがして、非常に好きなのだ。

 これまでのバトルでは、戦闘スタイル的にそうするしかないというのもあって、肉体的な被害が甚大なのは圧倒的にりすかの方だったのだけど、第三話では創貴がひたすら血塗れになる。酷いこと(前話)をした奴は酷い目に遭う、ある意味因果応報と言える⋯⋯。
 いずれにせよ、西尾維新作品の主人公は、バトルにおいて、必要以上に血塗れになりがちである。



 最後に、ノベルス版と文庫版の違いについて。
 ノベルスに存在した、西村キヌ氏による挿絵が収録されていないということが、文庫の最も惜しまれる点である。西尾維新さんによるあとがきもなく、新たに描き下ろされた表紙絵を除けば、文庫は相対的に寂しいつくりになっている。
 ⋯⋯なのでせめて、次巻以降でツナギちゃんが新たに描き下ろされることを望みたい。欲を言えば彼女の“あの姿”を見たいのだけど、流石にあんなの表紙にできないか。

 あとは公式のあらすじ。実際に読んでから衝撃を受けた身としては、創貴の性格についてはあまり言及して欲しくなかった。「小学生らしからぬ小学生」って紹介も、ちょっと微妙だし。「心に茨を持った小学5年生」というノベルスの方の紹介文が好きだったというのもある。ノベルスはあらすじからキャッチコピーまでスタイリッシュ過ぎた。
 ⋯⋯一番酷いのは、巻末の新刊紹介における本作の説明である。
 “小学生らしからぬ小学生の供犠創貴と、『赤き魔女』水倉りすかによる、縦横無尽の冒険譚!”

 ×『赤き魔女』 ⚪︎『赤き時の魔女』

 よ り に よ っ て そ こ を 『 省 略 』 す る な !!

 ⋯⋯(笑)。


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