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西尾維新『少女不十分』へのクソデカ感情を10項目に分けて書き綴ってみた。


 2019年7月20日にfc2ブログの方で書いたものに微調整を加え再投稿したものとなっています。タイトルを今風(たぶん今風を履き違えている)にする程度の微調整ですが、念のためリンクを貼りつけておきます。
https://negativealternative.blog.fc2.com/blog-entry-11.html?sp


 西尾維新さんの小説『少女不十分』の感想や考察、私的見解を語る記事となります。ネタバレは勿論、戯言シリーズや人間シリーズ、物語シリーズの『終物語(上)』まで(&『混物語』)、『めだかボックス』、忘却探偵シリーズなどの作品の結末や真相についても言及しています。
 個人的に、『少女不十分』を語ることは、己の西尾維新観を語ることと同義であると思っていますので(いっそのこと全シリーズ、全作品を網羅したかったが、当時も今も、まだ読めていない作品が多い。お恥ずかしい限りである)、仮に読まれる方がこの世にいらっしゃるのなら、その点についてご了承いただけると幸いです。

 それでは。
 僕の黒歴史を衆目に晒そうと思う。



①『少女不十分』の、西尾維新ファンの中での認識について

 
Q.『少女不十分』ってどんな小説?
A.これが好きじゃない人は西尾維新ファンじゃないって言うような小説です。

 ⋯⋯なんて言うと、映画とかの感想で「これで感動しない奴は人間じゃねえ!」とか言ってる人みたいで自分でも嫌なので早速取り消すが⋯⋯。
 実際、どうしても好みや相性というものがあるので、多くの西尾作品が好きでも『少女不十分』はあまり好きじゃないってかたも中にはいらっしゃるだろうし(例えば言葉遊びだとか、キャラ同士の掛け合いだとか、そういったものを求めて手を出したとしても、『少女不十分』はあまりそれらの期待に応える類の作品ではない)、そういう方々を差別していると取れるような物言いはなるべく控えたいものである。

 それでも、ある程度の数の西尾作品、中でも『少女不十分』以前の著作品群に触れている読者なら、この作品がファンにとって特別な一冊になり得るということは間違いなく読み取れる、そんな性質を持った作品だとは断言できる。
デビュー作『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』から十年、西尾維新という作家を追い続けてきた読者を大いに驚かせる、そして喜ばせる仕掛けを持った、幾多の西尾作品と比較しても内向きに閉じた作品、それが『少女不十分』。

 ただ、個人的には、他の西尾作品のことを抜きにしても、単純に作中のあのシーンや、あの言葉の数々に、感銘を受けた読者、もしくはこれから受け得る読者が確実に存在すると信じているので、一概にファン御用達だとは断言し難いものがある。
 何故なら、私がそちら寄りの読者だったから。『めだかボックス』に没頭してから他の西尾維新作品──りすか、世界などのノベルス──に手を伸ばした私としては、そのこと自体に悔いはなくとも(『めだかボックス』は最高の漫画作品だと今でも思っているというのもあって)、戯言シリーズからリアルタイムで西尾作品を追っ掛けてきたファンの方々には嫉妬せざるを得なかったりもする⋯⋯。

 とにかく、今や総著作数三桁の域に到達している、数ある西尾作品の内のひとつ、みたいな軽い捉え方をされると、個人的にも苛立ちを覚えてしまうような作品なのである。
 言うまでもなく特別だけど、安易に人前では語らず、もしくは敢えて特別であることを隠し通しながら、それでもやはり特別なものとして心の中にひっそりと仕舞い込んでおきたい ⋯⋯語るのは難しいけれど、個人的にはそういう作品だと認識している。


②『少女不十分』の世間的な立ち位置と、メディアミックスについて  

(さっそく某人物の名前に関するネタバレあり)

 
 西尾維新(以下、個人的に慣れないが敬称略)は、『西尾維新対談集 本題』において、読者が一番始めに触れることの多い著作に、『化物語』や『クビキリサイクル』と並べて、この『少女不十分』を挙げている。
 それを読んだとき、その二つと並ぶほどなのかと驚いたものだけど、著作の大半をシリーズものの作品が占める中で、割と数少ないノンシリーズ作品であることや、大学生の青年が小学生の少女に監禁されるといった衝撃的で興味を引くあらすじ(故に色物認定されがち)、更に後に文庫化されたことなどを踏まえると、そりゃそうだよなと納得する。

 これは私同様、というか私以上に、『少女不十分』を特別な作品であるとして、心の内にひっそりと仕舞い込んでおきたいと思っているファンのかたにとっては喜ぶべきであると共に複雑な感情があったんじゃないだろうか。
 今では漫画版(著.はっとりみつる)が、小説以上に読まれているのだろうけれど、漫画自体のクオリティはさておき、メディアミックス展開はして欲しくなかった、小説だけに留めて欲しかったというかたも少なからずいたように思う。

 ロクに他の西尾作品に触れていない癖に『少女不十分』について気軽に語るな、そもそも触れるなと思ってしまったりとか、漫画でしか読んでいない人達が(漫画を指して)「『少女不十分』が」といった主語で語ることを恐れたりとか。
狭量だと言われるかもしれないけれど、要はそれだけの逆鱗なのである。

 因みに、私が複雑な心境に陥ったのは、西尾維新作品公式学パロ漫画である『青春奇人伝!240学園』にて、登場人物のひとりとして、『少女不十分』の主役・少女Uが登場したことである。
作者公認(西尾維新はメディアミックス作品のような、自身が手掛けない作品による“解釈”に関して、あまり口を挟むような作家ではないらしい)であるとは言え、「数ある西尾作品のキャラクターの一人」として彼女が登場したことを、どう受け止めるべきか分からなかった。
 今でも、彼女がそのように登場するのだとすれば、せめてU・Uとしてではなく、本名である夕暮誘といった名前と共に登場して欲しかったといった思いがある。
 その名を共にすることで初めて、彼女は物語の登場人物になれると思っている⋯⋯というか、本編で彼女がそうなれたのは、「あのとき」だったと考えているので。
 そのあたりについてはまた後に(④あたりで)少し触れることになる。


③『少女不十分』のミステリーについて

  つまり、ある小説に取りかかって先を決めずに記していくとしても、一日目に書き始める時点からすでに謎めいた状況や謎めいたキャラクターがとにかく出てこざるを得ないんですね。それが二日目、三日目と書き続けるにつれて、作者である僕がその謎を解きながら書いている。(略)このキャラクターは何でこんなことになっているのか。あるいは、このシリーズは何でこんなストーリーになっているのか。奇妙なストーリーになっているにしても、そうなるに至った合理的な理由があるんじゃないか。
(『西尾維新対談集 本題』)
『謎があって、解明される』。小説を書く上でも、キャラクターを描く上でも、それが僕の基本姿勢としてあるように思います。
(『掟上今日子の備忘録』刊行の際の作者コメント)

 上述の引用文は西尾維新の創作スタイルについての本人の発言である。
 こうした西尾維新の言う書きかたは、例えば物語シリーズのセカンドシーズンで顕著に見られる。謎めいたキャラクターや謎めいた状況が、どうしてそのような過去や現状になっているのかといった疑問への解答。当初、作者も知り得ぬ未来だったと言う白紙状態から、作者が過去作を推理し、キャラクターの内面と真摯に向き合い謎を解き続けることで進展する物語。

 そして、それに従って捉えるなら、『少女不十分』は、作者自身による更なる規模での謎解きだったのだと思う——作者が過去十年間、どうしてあのような奇天烈な作品の数々を書き続けてきたのかといった壮大な「謎」に、作者自身が答えを見つけ出し、そこに新たな意味を付加した物語なのだと思う。

 一緒に登校していた友達がトラックに轢かれたのを見て、先に手元にあるゲームの電源を切ってから、友達の死体に駆け付けて泣き出す、少女Uのような奇怪な行動を、西尾維新の書く物語の登場人物はごく自然に、日常的に行なっている。
 彼女のような人達はときに奇異な目で見られ、ときに軽蔑され、ときに恐れられ、ときに虐げられ、そしてときにこんな風に言われたりすることも珍しくない——「人として大切なものが欠けている」、と。
 それは何故なのか。彼らは、或いは自分は何故そうなってしまっているのか。僕達はどうして欠けているのか。
 そんな僕達が、それでも生きていくことは——幸せになることはできるのだろうか? できるとすれば、そのためには、何をすればいいのだろう? 

 これらの疑問に常に向き合い続けてきたのが西尾維新という作家であり、そして、そういったテーマを体現した存在が、語り部である小説家志望の「僕」であり、ミステリアスな少女Uであるのだと思う。
 Uは、十年間作家業を続けてきた西尾維新が、本作の執筆に応じて過去を回想するに至り、十年前の自分——「僕」に向けて送り込んだ、いわば未来からの刺客なのだと思う。

 そんな彼女に対しどのような答えを導き出すのか。それが『少女不十分』という物語であり、彼女はいつだって——彼が作家志望者だった頃から、十年間作家として活動し続けていた間も、それから今に至るまで、ずっと——彼の心の中に生き続けてきたし、これからも生き続けていくのだろう。


④『少女不十分』のラストについて

(※ここから本格的にネタバレ入ります)

 
 ラストでUの本名が、「僕」と共に明かされたことについてだけど、あれはミスリードの回収──この話はフィクションですと示す役割を有しているほかに、ただの「出来事」であり「事件」であった監禁劇さえも、二人の再会と共に、ひとつの「物語」として昇華された、ということを表現しているのだと思う。
 名前があって初めて、人は物語の登場人物となれる。

 『少女不十分』とは、作家志望者が作家になるきっかけの話であると共に、ただの事件がひとつの物語に生まれ変わる瞬間を描いた小説でもあるのではないだろうか。
 コミカライズ版3巻(最終巻)の煽り文に、『「事件」が終わり「物語」が生まれる』といったフレーズがあるのだけど、ここで言う「物語」とは、「僕」がUに語った数々の“おとぎ話”や、その後に小説家となった「僕」の手により生み出される物語群のことを指し示しているのみならず、これまで描かれてきた「僕」とUとの出会いから別れ、そして再会までを含めた、一連の「事件」であり「出来事」そのものを指しているのではないかと思う。


⑤『少女不十分』で語られた「お話」と、西尾維新作品における桃太郎やシンデレラについて

だけど僕がおとぎ話としてUに語り続けたのは、桃太郎のように『正しくて強い者が勝つ』話ではなかった。シンデレラのように『真面目な者が報われる』話でもなければ、白雪姫のように『心の綺麗な人間が見初められる』話でもなかった。
(『少女不十分』)

 『少女不十分』のクライマックスで、「僕」が「お話」をするに至ってのこの言葉。
 西尾維新作品に対する作者による自己言及とも取れるくだりである。
 ⋯⋯ここで重要だと思うのは、あくまで西尾維新作品は『桃太郎』や『シンデレラ』、『白雪姫』のような物語ではないというだけで、決して西尾維新作品には桃太郎やシンデレラ、白雪姫のような登場人物がいないわけではないことである。むしろ彼ら彼女らのような人物は、頻繁に西尾維新の書く物語に登場している。

 西尾維新の作品には、弱い人間と同様に強過ぎる人間がいて、間違った人間と同様に正し過ぎる人間がいて、不真面目な人間と同様に真面目過ぎる人間がいて、良き心を持たない人間と同様に心の綺麗な人間がいる。 
 ところが西尾維新作品は『桃太郎』や『シンデレラ』、『白雪姫』ではないので、強過ぎる人間は強過ぎるが故に孤独に陥り、正し過ぎる人間は正し過ぎるが故に弾かれる。真面目過ぎる人間は真面目過ぎるが故に報われないし、心の綺麗な人間は綺麗過ぎるが故に汚れを負う。

 そして、西尾維新作品は、こうした彼らも同様に肯定する。
 何故なら、彼らもまた、弱い人間や間違った人間、不真面目な人間や良き心を持たない人間と同様に、一般や普通といったものからかけ離れた、道を踏み外してしまった人間であることに変わりないのだから。
 デビュー作『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』の頃から、「天才」といった存在を多く書き続けてきた理由のひとつとして、こうした側面があるんじゃないかと思う。

 西尾維新は、物語シリーズの羽川翼について、次のようなことを述べている。

羽川という人物に顕著なことで、(略)読んでいても書いていても、苦しいけれど同時に「好きだな」と思うのは、突出している人物、突出した才能の持ち主がかならずしも幸福にならない、むしろより多くの不遇を味わったりもするというところなんです。「好き」と言ってしまうと、才能がある人の苦しみを楽しんでいるふうに思われてしまうけれども(笑)、そうではなくて「納得する」という感覚ですね。  
 
フィクションだから、本来ならば夢が必ず実現するふうにも話を作っていけるはずなんですけどね。才能のある人が楽しい方向に行ってもいい、と読者のかたからは想像されるのかもしれないけれども、書いているうちに、そうはいかなくなってくる。しかも、それがほんとうに現実に即して物語が進んでいるのかと言えば、それも答えに窮するところがあるんですよね。
(『西尾維新対談集 本題』)

 物語シリーズを読んでいて、彼女のような人間は本当に幸せになれるのだろうかといった心境に駆られる読者は多いだろうし、自分は本当に幸せになれるのか、なっていいのかといった登場人物自身による疑念や諦念も西尾作品には多く見られる。幸福耐性の無さ、というか。  
 だけど疑心暗鬼に陥りながらも、懐疑的でありながらも、それでもそれなりの折り合いをつけて何だかんだやっていくというもまた、西尾作品の根底にあるものなのかもしれない。

 強くて正しくて真面目で心の綺麗な人物といった点において羽川翼と並ぶ完璧超人、逸脱した化物である『めだかボックス』の黒神めだかに関しても同じことが言える。
 さながら少年漫画のヒーロー(性別的にはヒロインか)としての資質を体現した彼女だけども、『めだかボックス』という作品は、物語が展開していくに連れ、彼女の異常性、非人間性をこれでもかと読者に突き付けてくる。
 それでも、最後にはやはり肯定する。
 究極の異常性と、それすらも支配する超越的な人格を兼ね備え、それ故に孤独に陥る少女——話を重ねるに連れどんどん人間から離れていく彼女を、異常なままに肯定する。孤独なままに肯定しながら、同時に孤独を否定する。

 ただ、そんな『めだかボックス』を、化物が人間になるまでの話として締め括る辺りが、西尾維新なりの人間愛、人間賛歌なのだと思う(作中において、めだかとの別れの際に“ばいばい、人間。”と返した球磨川禊と、初期から一貫してめだかをバケモンと呼び続け、寄せ書きにおいても相変わらず“迷惑かけたな バケモン。”と記した鹿屋必修とが対照的に映るが、そのどちらもが彼女を肯定する言葉になっているのが素晴らしい)。

 そう、人間賛歌。
 西尾維新が敬愛する漫画家・荒木飛呂彦が『ジョジョの奇妙な冒険』において、前向きな自由意志を持った人間の在り方を是としたならば、西尾維新はその定義から外れた人間、人間のネガティブな側面だったり、化物と称されるような非人間的な人間(我々のような生き物が、「あいつは人間じゃない」などと軽蔑、差別する対象に該当する人間)を肯定する。

皆も誇ろう。
孤立し、異端であることを。
たとえそのために、酷い目に遭ったとしても。
(『少女不十分』)
「いの字。私は悲しいことがあったときに泣いて、嫌なことがあったときに怒って、楽しいことがあったときに笑って、人を好きになって幸せになり、人を嫌いになって喧嘩をし、一人でいるときは寂しくて、世間とうまくやっていくのが、人間らしさだとは思わないよ」
(『ヒトクイマジカル 殺戮奇術の匂宮兄妹』)
作家とは厄介な生き物である。
大抵の場合彼ら彼女らは自由奔放にして自分勝手で、重ねて優し過ぎて厳し過ぎ、およそ社会性と呼べるものはなく、わがままで、他人の都合や他人の迷惑をいっさい顧みず、大胆不敵な割に繊細で傷つきやすく、粗雑なほどにデリケートで、(略)一言で言うなら嫌われ者だ。

作家とは厄介な生き物である。
それは彼ら彼女らがどうしようもなく人間だからだ。
(辻村深月『スロウハイツの神様(下)』の解説文)
赤坂くんは読切にて自分の役目を全うしてくれたけれど、もちろん私は彼が、普段、仲間の前では、めだか達に負けず劣らずな、奇人変人であると信じている。
(『めだかボックス コンプリートガイドブック めだかブックス 箱庭辞典』)

 ⋯⋯人間賛歌というか、変人讃歌?


⑥『少女不十分』と他の西尾維新作品との小さな共通点について

 
 物語の終盤で、「僕」はUのことを、頭のおかしな少女でもなければモンスターでもなく、可哀想な女の子だと認識を改める場面があるのだけれど、倒すべき存在だと思っていたものが救うべき存在へと変わり、人間離れした怪物の正体はただの可哀想な子供(人間)だった⋯⋯といった展開は、多くの西尾作品に通底するものなんじゃないかと思う。

 例えば、『めだかボックス』でめだかの前に立ちはだかるボスキャラクターの多くは、敵であると同時に救済対象でもある。
 例えば、物語シリーズ・セカンドシーズンの『傾物語』と『恋物語』では、救うべき対象(八九寺真宵、戦場ヶ原ひたぎ)と倒すべき対象(キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード、千石撫子)とが同時に存在しているのだけど、それぞれの語り部(阿良々木暦、貝木泥舟)は救うべき対象の為に倒すべき存在に立ち向かいながらも、最後には倒すべき対象に救済行為を行うといった、二重救済の物語となっている。

 また、『少女不十分』作中で、監禁事件が始まったきっかけは、Uが青年に自身の本質を目撃されてしまったからなのだけど、西尾作品において、自身の本質なりコンプレックスなり、見られたくないもの(正体)を「隠す」、それも過剰なまでに⋯⋯といった価値観を持った登場人物も少なからず見受けられる。

 例えば、クローゼットに夢を隠していた千石撫子。
 例えば、過剰な演技によって、何事にも感動しない本質を隠し通して生きてきた空々空。
 例えば、読書傾向から自身を探られることを回避する為に、読みたい本と共にダミーの本を同時に借りていた逆瀬坂雅歌。

 Uを始め、彼ら彼女らに共通するのは、自分の秘密や正体を知られることを、恥ずかしがりだとかそういった性格の問題では片付けられないレベルで、恐れや強迫を抱く、ということだろうか。
 誰にも自分を知られたくない。
 探られたくない。
 理解されたくない。
 知られてはならない。
 彼女達の隠蔽は多くの場合、完璧からは程遠く、年相応の稚拙さ故に隙が生まれ、故に物語が生まれるのだが、それでも彼女達は皆、己を隠すこと、偽ることに必死だったのだ。

別にこれは空々に限った話ではなく、彼のように、他者とは大いに違う人間性、他者とは大いにズレた価値観を持つ人間が一番怯えるのは、『世間からつまはじきにされること』なのだ。
責められること、怒られること、叱られること。
修正のしようのない自分の性格で、そういう事態が起きてしまうことをもっとも恐れる——下手な動きをして正体がバレてしまうことに震えるのだ。
(略)もっとも、人間性の違うところ、人間性のズレている箇所が、『他人にどう思われようと気にならない』という者——いわば自己を放棄している者はこの限りではないという注釈を、今の内にしておかないことは、文脈上不可能である。
(『悲鳴伝』)



⑦『少女不十分』以後の西尾維新作品に見る「幸せ」について

 僕がUに語ったお話は⋯⋯物語は、一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話だった。頭のおかしな人間が、頭のおかしなままに、幸せになる話だった。異常を抱えた人間が、異常を抱えたままで、幸せになる話だった。友達がいない奴でも、うまく話せない奴でも、周囲と馴染めない奴でも、ひねくれ者でも、あまのじゃくでも、その個性のままに幸せになる話だった。恵まれない人間が恵まれないままで、それでも生きていける話だった。
(『少女不十分』)

 このように、『少女不十分』では、「幸せ」とは最終到達地点に存在するものとして語られているのだけど、その一方で、『少女不十分』が刊行されてから、比較的近い時期に刊行された『恋物語』にて、語り部を務める詐欺師が次のような台詞を述べている。

「別に幸せになることが、人間の生きる目的じゃあないからな。幸せになれなくとも、なりたいもんになれりゃいいんだし」
(『恋物語』)

 また、『めだかボックス』(こちらに関しても『少女不十分』より後の時期に描かれたエピソードに該当する)でも、主人公の黒神めだかが、劇中の組織・月氷会が提示した「幸せを獲得できる条件」を突っ撥ねた上で、次のようなことを述べた。

私は幸せになる前に、まず自由になりたい。
(『めだかボックス 17』)

 後者に関しては、「まず」自由になってから、それから幸せになるという意味での発言とも取れるが(もっとも、めだかは勝ち取ったその自由もまた、友達のために放棄してしまうのだが)、この両者は、幸せになることよりも優先すべきものがあると主張している点において共通していると言える。
 特に『恋物語』は、「前の逆」が作品を執筆する際の基本姿勢となっていると公言する西尾維新のことなので、『少女不十分』に対するカウンター兼アシストの意を、自覚的に詐欺師の台詞に込めた可能性も決してゼロではないと思う⋯⋯正確には、『少女不十分』の直後に刊行された小説は、『恋物語』ではなく『鬼物語』だが。

一冊書いたら、かならずその逆のことを書きたくなる僕の性格ゆえですが。この本の逆のことだってありうるんじゃないか、この本ではみんなでがんばってあるひとつの結論を出したけれども、逆のことが答えだという場合もありうる、違う結論の出しかたもあるはず⋯⋯
(『西尾維新対談集 本題』)

 「それでも幸せになれる」と「幸せになることよりも」。
 全ての道はローマに通ず、ならぬ全ての西尾作品は『少女不十分』に通ず──『少女不十分』が他の西尾作品におけるテーマが行き着く収束点ではあるのだけど、西尾維新はその『少女不十分』すらひとつの通過点として、以後の物語を作り続けているのかもしれない。
 ⋯⋯いや、まあ、私がたまたま『少女不十分』以後に書かれた二作品に注目したというだけで、西尾維新作品における幸せとは元々こういうものだったってことも考えられるが(『本題』にて、物語シリーズはどの作品も共通して、あまり幸せな結末にはならないと述べられていたのは個人的には盲点だった。確かに多くの作品がビターエンドだ)。


⑧『少女不十分』における異端者の幸せと、西尾維新作品における登場人物の成長・一般化について

 
 一般的ではない人間が、一般的ではないままに、幸せになる話。
 頭のおかしな人間が、頭のおかしなままに、幸せになる話。
 異常を抱えた人間が、異常を抱えたままで、幸せになる話。
 友達がいない奴でも、うまく話せない奴でも、周囲と馴染めない奴でも、ひねくれ者でも、あまのじゃくでも、その個性のままに幸せになる話。
恵まれない人間が恵まれないままで、それでも生きていける話。

 今更言うまでもなく、『少女不十分』のこれらの言葉は、西尾維新作品そのものを指している。しかし、その一方で、シリーズが進むにつれ、人間関係が変化したり、守るべきものが出来るなどして主人公が自ら成長を望むことや、彼らが変化を遂げた結果「普通」の人間に近付くことも珍しくない。

 例えば、戯言シリーズの戯言遣いは最終的に、玖渚友と共に普遍的な幸せを手に入れる。
 玖渚友は劣性の証である青い髪と並外れた才能を失って、凡人以下の存在となって生き延びる。
 物語シリーズの戦場ヶ原ひたぎは「更生」したし、『めだかボックス』では多くの人物が大人になって(「子供が大人になる」というのも、西尾作品のひとつの特徴か)、異常性や過負荷といったスキルを喪失した。
 戯言遣いに対する哀川潤や、阿良々木暦に対する羽川翼のように、シリーズ序盤から気乗りしない主人公に成長や更生を促す、或いは「ちゃんとする」ことを要求する、そんな立ち位置の人物も存在する。

 ただ、こうした変化に関しては、『少女不十分』の中でもちゃんと描かれている。
 「僕」がUに語った「お話」だけに着目するならば、確かに変化だとか成長だとか、そういったものが抜け落ちていると取れるかもしれないけれど、『少女不十分』全体を見るならば、「お話」を終えた「僕」はその後小説家になっているし(これも変化と言えば変化だろう)、二人が再会を果たすまでの描かれなかった十年間の中で、Uは少なくとも表面上は劇的な変化を遂げている。そこもまた、この話の肝でもあると思う。

 西尾維新が書く物語って、概ね主人公を始めとした登場人物の成長譚だったり、自己を獲得、実現する(或いは、喪失する)物語になっている。
それで、その中には望んで普通になったり、社会や周りの人達と共存していく形で歩むようになる者もいる⋯⋯ということなのだと思う。

 「普通」からかけ離れた人達は、手の届かないものであるそれに対し、憧れを抱くことも決して少なくない。そういった例を少しばかり挙げていこうと思う。

人は自分と違う存在に憧れる。
自分以外の何かになろうとし、自分の持っていないものを欲しがる。
違う外見、違う性格、違う環境。
善人は悪人に憧れ、悪人は善人に憧れる。
それが他人のものであれば、不幸でさえ欲しがるのが人間というものだ——そうだ。
(『花物語』)

 例えば、戯言遣いが浅野みいこに恋した理由のひとつに、彼女が「日常」や「普通」を象徴する世界の住人であったからということが『ザレゴトディクショナル』で述べられていて、そのことが、「普通」を強く欲し、古槍頭巾を重用していた狐面の男と鏡写しとなっている。
 また、想影真心は、最強シリーズで潤さんの口から僅かに近況を語られたりしているのだけど、この場合は「普通」への憧れというより、「皆と一緒にいる」ことを望んだ結果そうなったんじゃないかなと思う。

 一方で、人間が大好きな例としては、哀川潤と黒神めだかが代表的だろうか。
 彼女達はどれだけ人々の汚点を目の当たりにし、何度裏切られようと、それでも人間を愛し続け、人間の素晴らしさを説き続け、問い続けた。そんな彼女達が誰よりも人間離れしていくのは皮肉ではあるけど、或いはだからこそとも言える。
 もっとも、劇中にて描かれている範囲での最終的な在り方──社会に溶け込むか、はみ出し続けるかといった点においては、両者はやや対照的な結末を辿っている。──最強シリーズは現時点では未完だけど、『人類最強の求愛』では、哀川潤の終着点が描かれている。終わりのない彼女の終わり。

 そしてもうひとつ。「皆」や「人間」が好きなのではなく、特定の誰かひとりと共に在ることを望むというパターン。十年の時を経て、かつて一週間共に過ごした「僕」の元へと辿り着いたUはこちらに該当するだろう。
 彼女の他には、戯言シリーズの玖渚友や物語シリーズの忍野忍が挙げられる。
 玖渚友は戯言遣いの自由意志や変化、及び人付き合いを受け入れているし、忍野忍は阿良々木暦の希望を聞き入れているが、彼女達は他の人間や世界に対し、いざとなれば何の躊躇もなく破壊しかねない過激さを併せ持つ(「いーちゃんが私のものでなくなったらそのときは地球を破壊するよ」と宣言した玖渚と、実際に暦を失い世界を滅ぼしたルートXのキスショットが重なる)。

 『大斬』収録の読切『娘入り箱』のハコは、大切な人と一度離別してから、時間を経て自らの足で再会を遂げるといった点において、Uと共通項がある。
 彼女に関しては、人間に酷い目に遭わされたと思しき過去が仄めかされていて、故にあまり人間という存在そのものに対しては良い印象を抱いていないと捉えるのが自然ではある。
 だけど彼女は、人間である兵太郎を好きになった。愛する人のために故郷の星を出て行くという彼女の生き方、これもまた同じ星の住人からすれば「異端」なんだろうか(割とその星で似たような事例——異性間交遊ならぬ異星間交遊が頻繁に起こっているのなら、それはそれで面白いけど)。  

 話を戻そう。
 ヒロインが断髪することなんかは西尾作品の読者、視聴者の間ではもはや語り草だが、西尾作品では、人の心を含めて、変わり得るものは徹底して変わり続ける。
 物語シリーズのセカンドシーズンがその代表例となるが、登場人物のアイデンティティに探りを入れ、引き剥がすような物語展開も積極的に行われている。
 しかし、だからこそ、変わらぬ本質が浮き彫りになるとも言える。
 自分がアイデンティティだと思い込んでいたものって、思いの外あっさりと崩壊したり見失ったり別の何かと取って代えられたりするのだけど、そんな中にも変わらぬ自分が存在する。

 言葉だけを頼りにかろうじて生きてきた少年は幸せになっても相変わらず言葉を駆使して——戯言を遣って仕事に臨むし、化物と称された元生徒会長は異常性を消失しても月球再生計画を企てる。
 殺人鬼一賊の生き残りは殺人鬼を引退しても零崎を名乗る。
 敗北の星の下に生まれたグッドルーザーは、念願の初勝利を経験した後も、勝ち逃げを良しとせず、敗北を愛しては負け戦に挑み続ける。
 死にかけの化物を助けてしまった偽善者はこれからも偽善者として色んな人々を助けるべく奔走するだろう。
 誰かと一緒にいる為に己に制約をかけていた青い髪の天才少女は、劣性の証である青い髪と並外れた才能を失って尚、愛する者の隣を歩く。
そして、かつて作家志望の異端者だった青年は現在、異端でありつつも作家として、社会の一端を担っている。

 成長に関してもう少しだけ述べると、登場人物の成長を肯定したとしても、決してその為に成長前の弱さや未熟さ、痛々しさを否定しないところが西尾作品の良いところだと思っている。むしろ過去の自分を認め、肯定することこそが、成長の証として描かれることも少なくない。  
 中には戦場ヶ原ひたぎのように、過去の自分を切り離して、今の自分が一番素晴らしい自分であるよう努力している少女もいるのだけど、それはあくまで彼女のひとつの生き方であって、西尾作品には、過去の自分と現在の自分、どちらの方が良いのかなんて一概に断定できない——そういった視点が常に存在している。
 『混物語』の『みここコミュニティ』では、成長前の戯言遣いと成長後の阿良々木暦を対面させることで、両者を相対化させていた。
 スキルの喪失を描いた『めだかボックス』と個性の墓場を描いた『症年症女』では、同じ「個性を消失して大人になった人間」について、「かつて少年だった大人」と「大人になることのない少年」の二つの視点によって、それぞれ肯定的に/否定的(悲観的)に論じられている(『めだかボックス』と『症年症女』の関係を踏まえると、両者の対比は重要であるように感じる)。  

 西尾維新という作家は、変わらないこと、変わることに対して——あらゆることに対して、いずれかを一方的に肯定したり否定したりはしない。中立的、対立的な視点を忘れることはない。偏ったとしても修正されるし、最終的にひとつの結論を提示するにせよ、常にそういった懐疑心及びバランス感覚を忘れることのない作家であるように思える。


 最後に、『少女不十分』から一例を挙げると、「僕」が冒頭から己の人間的な未熟性をつらつらと述べているのは、全てを読み終えてから振り返ると、そんな自称・精神的幼稚園児でも生きていくことはできるといった意味があると捉えられる。
 そもそも、彼が十年前に比べて人として立派になりました! 一般的な大人に成長しました! なんてことを表現しようとしているのなら、ラストで新担当との対面をすっぽかして逃亡をはかろうとするような描写は入れないだろう(笑)。個人的にも好きなくだりである。

「どうなろうと、全部お前だよ。変わってもお前だ」
(『猫物語(白)』)

 西尾作品の人物は、たとえ変わっても変わり者。そういうことなのかもしれない。


⑨『少女不十分』の「お話」に対立する西尾維新作品の概念——異端者の悲哀、不幸について

 当然のことながら、そんな『お話』なんて実在しない。どこにもない。世間で語られる『お話』はどれもこれも、僕達みたいな人間には冷たくて、正しくあれ、強くあれ、清らかであれ、一般的であれ、まっとうであれと語りかけてくる⋯⋯みんなと仲良くやれと、他人を思いやれと、ある階層の人間にとってはできもしない無理難題を要求してくる。今のUには、そんな教訓じみた話は、説教じみた話は、とてもできない。だから僕は物語を作った。即興で、行き当たりばったりだったけれど、とにかく言いたいことをぎゅうぎゅうに詰め込んで、Uに語った。大丈夫なんだと。色々間違って、色々破綻して、色々駄目になって、色々取り返しがつかなくって、もうまともな人生には戻れないかもしれないけれど、それでも大丈夫なんだと、そんなことは平気なんだと、僕はUに語り続けた。
(『少女不十分』)

 前項と地続きのテーマになるけれど。
 『少女不十分』で上述の独白が「僕」によって述べられる一方で、それに対立する概念として、「普通」で在らなければ——つまり、本当の自分を隠し通さなければ、生きることができないのではないか、幸せになることができないのではないかといった懸念や恐怖心が、西尾維新の多くの著作の中に見え隠れしているというか、表裏一体に共存しているようにも感じられる(先ほどUと共通点が強いと述べた、空々空や逆瀬坂雅歌の性格、生き方なんかは強い代表例となるだろう)。
 そうでもなければあんなテーマが生まれたりはしないとも言えるし、こうした懸念や恐怖心の描写が行われるのは至極当然と捉えるべきかもしれない。

 この相反した概念が顕著に現れている小説として、『零崎双識の人間試験』が挙げられる。
 例えばこの小説には、ひとりの不良少年が登場する。
 その彼が、丁度学校をサボっていたところ、電車の中でひとりの男と出会う──男は少年に、奇妙な哲学を披露した末に、学校に戻りなさいといった、至極真っ当な忠告をする。
 男の忠告に従い、学校へ引き返すといった「普通」の選択をした不良少年は幸運にも、実は殺人鬼で彼を殺したくてたまらなかったその男に見逃される。
 しかし彼は同日、ある勘違いによって機嫌を悪くし、バイトをサボり家にも帰らず、夜中もゲームセンターに居続けるといった「普通」からはみ出した選択をしたことで、運悪く別の殺人鬼と遭遇し、“誤って”殺されてしまう。
 更にコミカライズ版では、小説と異なり彼は午前中こそ学校に居たものの、午後の授業をサボりうろついていたところで、これまた運悪く“呪い名”に遭遇してしまい、無残な最期を遂げることになった。

 小説のタイトルにもある人間試験とは、主人公のひとりである殺人鬼・零崎双識が、他者に可能性や人としての在り方を問い、判定する行為を表す。
 例えば、忠告に従い、学校へ引き返した不良少年は合格。
 例えば、死を間近にして尚、対象の命を奪うことだけを目的とする、意思なき空操人形と成り果てた人々は不合格。
 例えば、己の主義を捨ててまで、殺された妹の為に復讐を果たそうとする殺し屋の男は合格。
 例えば、己の利益の為だけに人の可能性を弄ぶ呪い名の老婆は不合格。
 例えば、十七年間、ひとりの少女のそばに居続け、彼女の健全な成長を育んだ、どこにでもあるごく一般的な家族は全員合格。
 例えば、家族を大事にしない人は不合格。
 例えば、身内の為にたったひとりで世界を敵に回す請負人は合格。

 ⋯⋯といった風に。
 こうした彼の判定行為を受けて、彼と対峙した殺し屋が、「そもそも手前の如きおぞましき『殺人鬼』が対象を『試験』、試そうなどと、それ自体が失笑もので、片腹痛い。あまり世界を馬鹿にするものではない」と述べていたりもするのだけど、ともあれ、そんな彼の試験に従って(⋯⋯という訳でも、正確にはないのだが)、信賞必罰的な価値観がこの物語の中にまかり通っている。公正世界仮説、ではないけれど。
 ⋯⋯『人間試験』に限らず、西尾作品の物語展開って因果応報というか、ある種の真っ当さによって成立しているよなと感じるところは少なくない。そうした真っ当さが残酷に映ることも多々あるのだが。

 しかし、双識は自分のことを不合格だと思っていた、というのが、彼の家族であり、彼の遺志を継ぐ無桐伊織と零崎人識の共通見解で、この物語の肝はそこにある。

「『幸せ』というのはね——結局のところ、周りの人達と仲良くやることなのだよ。それが哺乳動物の宿命なのだから」   
  
「人間として生きていたいならば、自分の性質なんてものはできるだけ隠すべきだ」
(『零崎双識の人間試験』)

 そのような台詞を述べながら、「普通」であることがこの上なく素晴らしく、「普通」だからこそ幸せを獲得できるといった信条を持ちながら、どこまでも——一賊の中でさえも、異端でしかなかった自殺志願の殺人鬼が、「あいつはあいつで、結構人生楽しんでたぜ?」と、彼が愛した家族の口から語られることが、彼にとっての救済になっているのだと思う。

 もうひとりの主人公である無桐伊織についても、漠然とした違和感や危機感をもってこれまでの人生を送り続けてきた彼女が、ふとしたきっかけで日常を破壊され非日常の世界へと移行し、しかしそんな不可逆性の中で辛うじて示された「希望」や「可能性」を放棄してまで、最終的に自らの意志で帰属すべき居場所に帰属したのも、見事に『少女不十分』のテーマに沿っていると言える。

 このように、『零崎双識の人間試験』が、「僕」の言うところの冷たい現実が容赦なく描かれながらも、その本質はどこまでも、ひとりの不合格者と、ひとりの失格者——或いは、独りでなかった不合格者と、独りではない失格者のための物語であるように、西尾維新作品は異端者に冷酷な現実と、その中で辛うじて見出せる異端者にとっての希望——その希望は、空前の灯火かもしれないけれど——が両立して描かれている。


 異端者に冷酷な現実の方にもう少し焦点を当てると、西尾維新は、異端者が異端者のまま生きていく、幸せになるのと対照的に、異端者が異端者のまま死んでいく、不幸になる様子もよく描いている。

 例えば、どちらかと言えば敵側寄りの人物ではあるのだけど、『十二大戦』の憂城。彼は際物揃いの選ばれし十二の戦士の中でも一線を画した、得体の──正体の知れない危険人物で、そんな彼は最も多くの戦士の命を奪い、戦局を大きく掻き回した挙句、作中の誰からも理解されることなく(まあ、互いの命のやりとりをする戦場は、相互理解の場から最もかけ離れている空間なので、その意味では当たり前と言えるのだが)──惨たらしい最期を迎えることになる。
 それでも、多くの「お友達」に囲まれて戦士として戦い続けてきた彼の人生は、一概に不幸だったと断定できるものではないのかもしれない——傍目には、死体と戯れている狂人としか映らないとは言え。
 同じく、誰からも理解されなかった孤独の者として、『掟上今日子の裏表紙』の十木本未末や、『見え見えのオミット』の真犯人の心中なんかもまた、そうした考察の余地が残されているように思う──不幸で孤独な異端者の生涯の中に、辛うじて見出せる、希望。

なるほど誰かに理解され、周囲に評価されながら生きることは夢のようだけれど、同時に誰にも理解されない、評価とは無縁の人生もまた、それなりに夢のようではないか。
(『少女不十分』)
可哀想な人間が可哀想なまま死んだ。
そんな風に思いたくないだけなのかもしれない。

可哀想な人間が可哀想なまま死んだ。
それが結論なのだろうか?
(『掟上今日子の裏表紙』)


 西尾作品に見られる、『少女不十分』の「お話」に対立する概念を、もう二作品ほど例を挙げて考えてみたい。

 まずは『終物語(上)』の『おうぎフォーミュラ』から。そこで、ひとりの少年を絶望させ、ひとりの少女をどん底に突き落とすことに加担したある「大人」が、二年後、めでたく妊娠して、盛大に祝われながら産休に入った——すなわち幸せになったことが語られている。

 これは、どんな人間でも、どんなに道を誤った人間でも、その人なりに幸せになることができる、幸せになっていいんだと説かれた『少女不十分』に対する別視点からの疑問というか、ある意味アンチテーゼにもなっているんじゃないかと思える。

 西尾作品の主人公って、多くの人物がそれぞれの形で闇や罪悪(感)を抱えている。
 例えば、戯言シリーズの語り部である戯言遣いは、本編の五年前に玖渚友に対して何らかの破壊行為を犯したことが述べられている。また、彼は“なるようにならない最悪”と称される体質をもって、幼少期から幾多の人間を狂わせ、屍の山を築いてきた。
 例えば、人間シリーズに登場する集団・零崎一賊の殺人鬼達は、無から湧き起こる理由なき殺人衝動に則り、人を殺す。
 例えば、世界シリーズの櫃内様刻は、妹を病的に愛するあまり、禁忌に限りなく接近する。
 例えば、物語シリーズの阿良々木暦は、死にかけの吸血鬼を助けてしまったことで防げたはずの被害を招き、死にたがりの吸血鬼を助けなかったことで彼女を生き地獄に陥れた。
 例えば、『めだかボックス』の黒神めだかは、幼少期からアブノーマルな才能を披露し、かつ人心を全く理解できなかったことから、幾多の人間の心を挫き、彼らの人生を終わらせてきた。
 例えば、伝説シリーズの空々空は、大災害にも家族の虐殺にも心ひとつ動かない、醜悪な無感動性を買われて、無感動のままに幾多の人間を虐殺していく。
 例えば、忘却探偵シリーズの隠館厄介は、誰からも疑われる冤罪体質に加え、“犯罪者としての素質”を兼ね備える。

 無論、彼らが本当に罪深いのかと問われると様々な捉え方があるだろう。自らの性質が呼び起こした被害を自らの責任とする戯言遣いを指して、「あいつは全然『悪』くなんかなかった」と述べた零崎人識や、同じく罪悪感を抱え込む当時二歳の黒神めだかの所業について『いいんだよ それで』と言って励まそうとした球磨川禊がいたように。
 しかし、彼らは大抵、自らの罪悪性に酷く自覚的——自罰的である。

 そんな闇や罪悪を抱えた人間は、そのままで——闇や罪悪を抱えたままで、幸せになれるのか、なっていいのか⋯⋯といったものが、彼らに共通したテーマであると言える。これがなれる、なっていいといった結論になるからこそのハッピーエンドではあるのだけれど、しかし、彼らの罪悪性に巻き込まれることで、死亡したり不幸になった人間が存在した事実が消えることはない。

 その盲点が描かれたのが、『おうぎフォーミュラ』でのあの人の顛末だったんじゃないかと思う。
 ひとりの少女の人生を台無しにした大人が、罪を償いもせずに(と言っても、償える類の罪ではないのだが)、ひとり勝手にのうのうと幸せになっている様は、真実を知る少年には、さぞ歪に映ったことだろう。

 ⋯⋯まあ、どちらかと言えば大衆的な愚かさや無情、無責任を体現したあの人を、西尾作品の主人公達——特に、優しい偽善者で、それ故にあやまちを犯す阿良々木暦と同列に扱っていいものなのかという疑問は当然出てくる。
 単に非人道的という言葉で括れば、供犠創貴とか、串中弔士とか、そういった恐ろしい主人公達も存在するけれども、仮にあの人を誰かと同列に語るとすれば、どちらかと言えば彼らよりも、Uの両親の方が相応しいと言えるか。
 それと、「妊娠」「産休」「祝われる」というワードだけで、あの人が本当に幸せになったのかを判断することは厳密には不可能である(詳細な内心が描かれている訳でもないし)⋯⋯と言うのは、いささか穿ち過ぎだろうか。


 もうひとつ、『掟上今日子の備忘録』から。
 作中で取り上げられる小説家・須永昼兵衛は、自身が手掛けた七つのノンシリーズ小説の中で、ひとりの女性を書き続けた。
 小説内の彼女は、殺人事件が起こる推理小説の世界で、一貫して脇役として登場した。
小説が執筆された現実の年月に沿って、彼女は物語の中で友人を作り、結婚し、働き、家庭を持ち、子を育てた。
 須永は彼女に、当たり前の人間として、平凡に、つつましい人生を送らせた。
 何故なら、彼女が送るべきだった普通の人生や、当たり前の幸福は、かつて須永と将来を誓い合いながら、その後自殺してしまった現実世界の彼女には叶わない夢であり、叶わない現実となったから。
 だから彼は、物語の中でそれを叶えた。

 一方で『少女不十分』の「僕」は、色々間違って、色々破綻して、色々駄目になって、色々取り返しがつかなくなって、もうまともな人生には戻れないかもしれないUに対し、それでも大丈夫なんだということを伝えるために、一般的ではない人間が一般的ではないままに、頭のおかしな人間が頭のおかしなままに、異常を抱えた人間が異常を抱えたままで、それでも生きていける、幸せになる「お話」を聞かせた。

 須永昼兵衛と「僕」——柿本が、ひとりの少女のために、物語の中に込めた願いは、さながら対照的であり、同時に紙一重の様でもある。


 最後のまとめとなるが、西尾作品を読んでいて、これは『少女不十分』と相反するなーなんて感想を抱くことがあっても、そうした相反性は『少女不十分』の中にもしっかり描かれていたんだなといった発見を得ることができて、改めて、まだまだ読み込みが足りないなと感じた次第である。


⑩『少女不十分』とこれから
 

僕が書いているのは今でも、あの夜Uに語った、たわいないおとぎ話の延長でしかないのだから。
(『少女不十分』)

 『少女不十分』を書いた西尾維新という作家が、今も尚物語を書き続けているという事実に、とても救われるような気持ちでいっぱいになる。
これからどのような物語が生まれるのか、どのような異端者の活躍が見られるのか、次に刊行される著作100冊目、『ヴェールドマン仮説』の刊行を楽しみに待つこの頃である。

 
 ⋯⋯と、ここまでが、2019年7月20日当時、『ヴェールドマン仮説』の刊行決定に添えて書いたものとなる。
 実際、『少女不十分』執筆以後、西尾維新さん(敬称略・解除)の中で『少女不十分』がどのような立ち位置を占めているのかは分からない。本人のみが知ることだろう。 
 そして、『少女不十分』はこれからも、西尾維新作品の収束点として存在し続けるのかといった疑問。
  
 個人的には、『悲鳴伝』や忘却探偵シリーズなどにも触れたように、『少女不十分』以後の作品も、『少女不十分』がベースに存在していると思っているし、これからも見出し続けていくことになると思う。
 強く期待していた『ヴェールドマン仮説』は、新しさと共に原点回帰を感じさせる作品だったわけだし。 
 いずれにせよ、心の中の『少女不十分』が尽きるまで、私は今後も西尾維新作品を追いかけていくに違いない⋯⋯なんてことを述べる前に、まだ手に入れていない既刊を買わなきゃな⋯⋯。


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