雨の夜、寝言とっ散らかりし時分

 幼い頃から、なかなか眠れなかったり唐突に目覚めたりなどして、深夜にひとり起きているという状況に置かれると、「自分が死ぬ瞬間・生を終える瞬間ってどんな感じなんだろう?」なんてことをよく考えていた。
 苦しみもがいた末に死に達するのか(それともゴールすらなく永久に苦しみ続けるのか)、それとも日々体験している睡魔のような感覚でやさしく意識を奪われるのか⋯⋯どうしても後者だとは思えなかった。当時、そういった漠然とした不安に苛まれることが恐ろしかったと共に、どこか心地良く感じる自分もいた。

 年を重ねるにつれ、考えごとのバリエーションが少しずつ増えていく。たとえば、死のことより生のこと、死の苦しみより生きる苦しみ、すなわち自分の近い将来のことを考え出すようになる。
 それはある意味での「成長」──しかし、2桁年数に及ぶ己の人生の中で、「成長した」と実感したこと⋯⋯具体的には、「できないことができるようになった」と思えたことが殆どなく(小学一年生で自転車に乗れるようになり、縄跳びができるようになった体験が最後なんじゃないかと思う。文字通り、転んで泣いて乗り越えた、という経験は恐らくあのときが最後だ)、このまま人間的成長を一切積み重ねないまま、歳だけ取り続けるミイラになってしまうのではないかといった現実的な恐怖が深夜の私に常に付き纏った。
 その不安を解消するための努力をしなければならないとすら考えられないのが私の私たる所以であり、そのまま現在に至るわけである。

 まともな大人が不出来な子供に対して「そんなんじゃ社会ではやっていけないぞ」と諭すような(ちなみにこの台詞、私も言われたことがある)、今のままこの先の人生をやっていけるわけがない、という確信めいた懸念に関しては、しかし的を外していた。何の人間的成長も果たしていない私が、それでも現在をのうのうと生きられている、という意味で。
 もっとも、それは「ただ生きているだけ」でしかなく、到底褒められた人生ではないわけだが(かつては私のことをよく知らない大人によく褒められもした優等生キャラだったのに、褒められた人生ではないとはこれ如何に)、自分の人生に高いレベルは求めていないので、まあいいかと思う。今も、こんな感じの人生を今後も続けられるわけがない、限界はそう遠くない、そろそろツケが回ってくるとは思いつつも、いつものように思うだけの後回し。それでも生きてこられたのは、これもひとえに皆さまがたのおかげである。皆さまがたの頑張りによって私が楽をできるのである。神様、皆さま、ありがとう。

 と、割り切りつつも、何も積み重ねて来なかったがゆえ──楽をして、苦労を他に押しつけ続けてきたがゆえに形成された「空っぽな自分」というものは、どうしても直視に耐えられない。
 空っぽな自分と空っぽでない不特定多数を比較すると普段は認識していないぽっかりと空いた心の穴を認識する羽目になる。それが辛い。
 「自分には何もない」なんて言うと怒られそうだけど(恵まれている癖にだとか何とか)、恵まれし自分にあるものはどれも自分で得たものではないのだからやはり自分には何もないというのは間違っていないのではないか。

 ⋯⋯なんてことを考えてしまうのだけど、まあこれまで怠けてきた(怠けを自覚するまではむしろ自分なりに必死で生き続けてきたつもりだったのだが、驚くべきことに私以外の人間は私の倍以上人生を頑張っていたらしい)分の代償がこの程度のちっぽけな心の痛みであるとするのなら安いものだ。
 その罪悪感、空っぽですか?

 そんな感じで、ゴールデンウィークが過ぎ去る中、私はどこにも過ぎ去れず。
 渋滞に行き遭うまでもなく、その人生は停滞している。




 余談の余談だが、夜に行う考えごとのひとつとして、他には「あの人達、今も元気にしているかな」というものが挙げられる。
 「あの人達」というのが現実上の存在なのか空想上の存在なのかはさておくとして(どちらであろうと、そこまで誰かと人間関係を築いた覚えがないが⋯⋯)、あのときあの場所で少しでも関わり、言葉を交わした、もうすでに会えないあの人達には、今も彼らなりに生きていて欲しいと願う勝手な気持ちも、もしも彼らが生きているのなら自分もまた、どういう形であれ負けずに生き続けていきたいという気持ちも、あながち嘘ではない。眠いので寝ます。おやすみ。

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