Bruckner

Bruckner
 いわば、付け焼き刃な知識でブルックナーを語るのは意味がないような気がするということだ。
 語り得るなら音楽だ。まるで下手なレビューのような安っぽい感想文にならざる負えないのは仕方がないが。
 ブルックナーに触れたのはマーラーの九番に関心を強く持ち始めた高校生の時であった。
 試聴サイトでカラヤンの1988年ウィーンフィル演奏のブルックナーの第八交響曲の二楽章があった。高く上り詰めて高らかにトランペットがテーマを奏する。
 高校生で偉そうで青かった私はレビュー者が悉く書く紋切り型な“ブルックナーはオーケストレーションが不器用”というのを思い出して、“あぁ、ラッパが惜しいな”なんて思った。その惜しささえ、好きな感じの曲だったからなおさら感じたのだろう。
 その惜しい印象は、様々な指揮者の演奏を聴くことで消え、私は繰り返し聴くことでこのスケルッツオ楽章が大好きになった。

 クーセヴィスキーのものすごく早い演奏を筆頭に、巨匠フルトヴェングラーも、ものすごいアチュレントとを掛けて、スピードも早い。(そうした面でも指揮者の特徴がわかるというのも面白い。)
 ただ、好みを書けばクナッパーズブッシュのゴツゴツしたようなのも、ムラヴィンスキーのスッキリだがやはりきっちりと演奏も好きだが、しかし、ヴァントのゆったりとしつつ、徐々に高く登り詰めていくあの演奏がやはり個人的には好む。

ただ、トリオ部に関してはもはや“おおよそ”の見通しはわかるし、美しい箇所だなと感じれるが、しかしスケルッツォ部より馴染みはないとは思う。


ブルックナーの音楽のいくつかは私のなかについに埋め込まれたものであるようだ。
第九番はそういっても過言がないものだ。重要プロセスがどんなに安っぽいものでも、もはや見通しは一番よい曲だ。この曲はさんざん聴きまくったこと(むろん、邪道の作業用BGMとしても聴いたこともあるが)
 第九番の素晴らしさはどこも退屈な場面がないように感じられるところだ。ものすごく荘厳ではあるがやはり第一楽章の第二主題(ブルックナーは第2主題は歌謡的であると考えた。)は美しいものである。
 まぁ、私の持つ言葉だけでは、どんなに言葉を重ねても虚しい限りだが。

 最近はもっぱら第五交響曲が気になり、ちょくちょく聴いている。
高校時代、この曲を一挙に聴いて、全く面白くないと思った。自分が好きな曲にあると思う特色であるエモーションなものがどうも欠けているように感じられ、最終楽章に至っては感動要素すらないぞと思った曲である。レビューとかで見かける“傑作”とはとてもではないが、感じられなかった。

 しかし、最近私はブルックナーについて聴くことが多くなり、むろん、選り好みはしつつ、やはり好きな第七、第八、第九はミニマル的に好きな箇所を繰り返し聴いた。
 私は、部屋の片付けの最中、第五交響曲を流した(カラヤン指揮するベルリンフィルの演奏である)。
そしてFinale、ティンパニーが轟くなか、金管楽器が鳴り響く。
 それは感極まった響きであり、感動した箇所であった。そして件の楽譜を調べるとブルックナー自身がchoraleと名付けた箇所であった。

 やはりブルックナーの音楽は何べんも聴くと味が出るというものだろう。

2021 01/08 15:39のメモ書きに加筆した

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