見出し画像

「霧の中の鐘楼」


             ーあらすじー
 松井奈央 43歳大手化粧品メーカーの秘書からギャラリスト(画商)になる。
現在は独立して自身の画廊「ART GALLERY/NAO MATSUI 」を経営。

 早瀬省吾 56歳 北海道の私立大学の最先端化学の教授。

 二人はみぞれの降る寒い夕べに一枚の絵画の前で出会った。
半年後に届けられた美しい贈り物。二人は互いに惹かれながらもすれ違い、再び、遠い異国の街で再会する。運河を巡る美しい街、ベルギー、ブルージュ、マルクト広場で聴く鐘楼の響き。愛が深ければ深いほど、こんなにも悲しい…。主人公、奈央は妻ある男への愛の真実を求めながらもどんなに愛しても得られない愛もあるのだと気づいていく。世界の絵画と、美しい京都、奈良の街を舞台に絡め合う二人の愛の深淵を覗いていく。

 早瀬は羽田発 15:45分、 札幌行きの飛行機に飛び乗る と座席のシートに深く身を 沈め静かに目を閉じた。

 これから札幌までの約1時 間30分の飛行時間、何も考 えずに眠るつもりだ。
千歳空港に到着する時間を 確認しょうと、腕に巻かれた カレラの時計に目をやるの と同時に、機内のアナウンス が到着時間を知らせた。
17時15分頃か...
帰るには少し早い時間だ。
早瀬はそう思いながらまた 、静かに目を閉じた。
時折薄っすらと目を開け、機 窓から暮れていく雲の行方を 眺めてはまた、うつらうつら しているうちに飛行機は雪の舞う千歳 空港の滑走路に静かに滑 り落ちて行った。
 携帯のマナーモードを解除 し早瀬は自宅へ電話をいれる。
短い呼び出し音の後に妻、佐恵子の少し眠たげな声が耳元に聞こえた。
「あら、明日お帰りじゃなかったんですか?」
「いや、予定通りだよ。今、千歳空港に着いた。ちょっと寄りたい所が有るから帰宅は9時過ぎになると思う。食事も済ませてくるからいいよ」早瀬は手短に佐恵子にそう伝えると電話を切った。
 妻の佐恵子は大学の恩師、平 川真の姪にあたり、早瀬よりも5つ下の 51歳になる。平川の研究室で結婚が一番遅かった早瀬に平川が姪の佐恵子を紹介したのが結婚に至るキッカケだった。当時はまだ年若い下っ端の 研究所勤めの味気ない毎日 に佐恵子の存在は日陰に届く小さな陽だまりのように思えた。その佐恵子との結婚生活も既に28年もの月日が経ち、三年前には銀婚式も無事に済ませた。しかし、ここ2年ほど前から一人娘千景の結婚、出産、そしてスピード離婚と娘の生活に振り回されて佐恵子自身も娘や孫の世話に追われ、遂には心身共にバランスを壊して入退院を何度か繰り返していた。
医師の診断は中度の鬱と言うことだが一旦崩した体調は中々元には戻らず、半年ほど前からは早瀬の身の回りも早瀬自身が整え、食事などは外食が増えて行った。
空港からタクシーを拾い行きつけの店で食事を済ませて帰宅するのも良いが、何故だか気が進まない。
午前中まで分刻みの会議に追われ、その疲れを引き摺りながら自宅に帰るには些か気が重かった。
ふと、早瀬は空港内のターミナルビル3Fに軽い食事が出来る洒落たBREがあることを思い出した。
時計を見るとあと1時間くらいはそこで時間が潰せそうだ。
店はカウンターとテーブル席に分かれていて早瀬はカウンターの丸椅子に席を取った。店の看板メニューはエゾジ カ肉の黒カレー、塩味の効いた鹿肉ソーセージバーガー、自家製のピクルス、チーズなど、酒の種類も豊富で店のマスターに勧められたソラチビールを先ずはオーダーして、その後はソーセージやチーズを肴に少しスモーキーなウィスキーを飲み始めた時だった。

厚手のコートのポケットの中に何気に手を入れると一枚の名刺が入っている。
ウイスキーのグラスを片手に早瀬はその名刺に書かれた名前をそっと呟くように呼んでみた。

画像1


             松井奈央 代表取締役社長

           「ART GALLERY/NAO MATSUI 」 

 二日前、出張先の東京、六本木の画廊であったばかりの女だった。
濡れたような黒く大きな瞳はまるで何かを射抜くように真っ直ぐに自分に向けられた。画商という生業のせいかそれが本物か偽物か、魂のこめられたものかそうではないのか、判断力と洞察力と常に自分の心眼を研ぎ澄ましていなければすまないようなそんな目をしていた。
肩を並べて見た一枚の絵の中にもやはり美しい女がひとり、描かれてあった。
艶やかな黒髪に刺した鼈甲の簪…川べりに舞う雪の中で佇む女がまるで生身の女の姿になってその絵の中から早瀬の前に現れて来たような、そんな錯覚すら覚えた。
早瀬は琥珀色のウイスキーのグラスに何度も口を運びながら、女と交わした面映いような会話に今ひととき酔いしれて居たかった。
「また、どこかで…」
別れ際、早瀬の言葉に女が柔らかな微笑みを見せた時、春待つ梅の微かな香りが女の周りに立ち匂うような気がした。

****   ********   ********   *******

画像18

 季節は足早に過ぎ、暑い夏の盛りにしきりに聞いた蝉時雨の声もいつのまにか消えていた。
 秋の気配が街角にひっそりと忍び込んで来る九月も末の頃、松井奈央は今秋、大阪で開催される国際アートフェアの準備に慌ただしく毎日を過ごしていた。
 奈央は、 六本木にある 「ART GALLERY/NAO MATSUI 」の画廊経営者であり、ギャラリストでもある。
 ギャラリストの仕事には美術品のコレクターなどの顧客に対して画家、陶芸家などのアーチストの作品を販売する仕事を主としている。
 画廊には二つの形態があり、一つは、ギャラリーのスペースを貸すことを本業としている貸画廊と何らかのプロデュース行為を行う企画画廊の二つである。
貸画廊の借り主の多くは他に発表の場を持たない若手作家であり、作家自身で集客、搬入、設置、撤収などすべてをこなす必要があった。
 故に、特定の作家を扱い、絵画の販売・企画、カタログ作成、画廊や百貨店・催事場などでの企画展の開催など、多岐に渡る仕事を担っている「NAO MATSUI のギャラリー」はこの企画画廊に含まれることになる。
作品を展示する展覧会スペースとしてギャラリーを持ち、そのギャラリーに所属させるアーティストと数十人と契約を結んでいる奈央の画廊は若手で、しかも女性ながら立地の良い六本木辺りで店を構えるにはなかなかできることではなかった。
 その背景には父、松井康介からの金銭的な大きなバックアップと奈央自身が生まれ持った画商としてのセンスと経営者としてのしっかりとした算盤勘定、理念を持ち合わせていたことが安定的な経営に繋がげている要因かも知れなかった。
 奈央は3歳から13歳の10年間を父親の仕事でアメリカ、シアトルに暮らした、
いわば帰国子女だった。
 高校、大学とクリスチャン系の学生生活を終え、同級生の就活に自分も急かされるように手当たり次第、自分のスキルに合いそうな企業を探しては見るものの、どこか冷めたような、らしくもない仕事場を探し続けているようで、就活に中々身が入らなかった。
 それでも、親の脛を齧りながら暮らすわけにもいかず、目に留まる会社の企業研究を入念に行い、業界におけるポジションなどをチェックしながらエントリーシートを何枚か書いた。
 しかし、どこか、のらりくらりとしていた娘の就活に痺れを切らした父親が、自分の弟、つまりは奈緒の叔父、松井貴之に白羽の矢を立てたのだった。
叔父の関連会社でもある大手化粧品メーカーの秘書室に、一人の空きが出来たことを聞きつけた父親は、娘の奈央をそこに押し込むように弟、貴之に懇願した。
そこで、滑り込むように採用が決まったのは卒業まもない頃、両親はやれやれの安堵感で奈央の就職を祝ってくれたことを思い出す。奈央自身が、意気揚々と社会人生活のスタートを切ったわけでは無かったが、仕事は取り立てて可もなく不可もなくといったところで、数人の秘書室の先輩、同僚たちと上手くやっていけたのは幸いだった。
 元来、口数が多い方ではないが、物静かな女性と言うことではなかった。
本を読むことが好きで、取り分け美術史や歴史、絵画や音楽をひとり鑑賞する時間を好んだ。
本物に触れる…幼い頃、絵画、美術品好きの父親に連れられ諸外国の美術舘を度々連れ歩かれた。
硬く、座りごごちの悪い椅子に腰掛け、イタリアヴェネツィアの「フェニーチェ歌劇場」のボックス席で両親と奈央と三人で観たヴェルディの『椿姫』
このフェニーチェ歌劇場はヴェルディの『椿姫』が初演された劇場として有名だった。
 イタリアミラノのスカラ座やヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場は18世紀に建設された馬蹄形の客席を今日に伝えており、劇場のロビーや客席はエレガントな美しさを称えている。
一階の客席は座席が普通に並べられているが二階は4、5人程座れるボックス席になっていた。
 昔は貴族がこれらの桟敷を不動産とし所有しており、お互いの桟敷を訪問しあったり、そこで飲食をしながらオペラを鑑賞していたらしい。
その、フェニーチェ歌劇場で観た「椿姫」を皮切りに奈央は学生生活の合間、バイトで貯めたお金でイタリア、スペイン、ドイツ、アメリカと感性を研ぎすませて舞台芸術の美しさを鑑賞する事を覚えていった。
 舞台美術や衣裳の美しさ、オーケストラの音色の美しさ……ストーリーを追うことの楽しさは絵画や美術品とはまた違う意味で奈央の感性を磨いて行ったのだ。

  ****   ********   ********   ****

画像3


 日本の飲料メーカーや化粧品会社はギャラリーを持っていたりする場合が多い。
これは、CSR(企業の社会的責任)の一環として運営しているものが多く奈央の会社も同様に小規模ながら銀座の一等地にギャラリーを持っていた。
 銀座7丁目のルイ・ヴィトン銀座店からほど近く、並木通り沿いにある奈央の勤務する化粧品会社フローレンス銀座のギャラリーは2004年のオープン以来、ジャンルにとらわれないさまざまな企画展を開催しているアートスペースがあった。フローレンス銀座ギャラリーがオープンしたのは、2004年クリスマスも間近な12月の始めのこと。
 その背景には、女性の美を追求する化粧品会社フローレンスならではの思いがあり「化粧品は女性の外見だけでなく、内面をも輝かせ、女性の人生そのものを彩って行くもの。そして、気高く香り立つように内面から溢れるように女性の美を育むような社会貢献ができないか」とのコンセプトでアートを楽しんでもらうための空間作りが始まって行った。
 2004年のギャラリーオープン時からフローレンスの広告のアートデレクションを手がけた高柳涼太と奈央はひょんな事でこのフローレンス銀座ギャラリーで十数年振りに再会することになる。
後に、フリーランスの※キュレーターとして日本のアート市場を支える一人となっていく高柳と奈央は遠い縁戚関係にあった。

※ 美術館など特定の場所に限らず、「アート作品を展示してほしい」という依頼に答えて、展覧会を企画する人

奈央がシアトルにいた小学2年生頃に当時、美術系の大学に留学していた高柳涼太とシアトルの家で度々会った事があった。
まだ、子供だった奈央に涼太はバイトで稼いで買ったぬいぐるみやお菓子を持って来てくれる優しいお兄さんとして今も記憶に残っている。
 フローレンスの秘書室にいた奈央が全く畑違いの画廊経営への道に進むきっかけを作ってくれたのはこの高柳涼太だった。

遡ること1 6年前の深緑の美しい季節だった。

 秘書課の仕事にも慣れて来た奈央は、いつものように同僚とのランチを済ませた後、ひとりでふらりと風に吹かれながら並木通りを歩いていた。
 日本を代表するさまざまなジャンルの老舗や世界の一流ブランドの旗艦店が軒を連ねる銀座。
 平日とは言え相変わらずの賑わいで、近年は訪日客の増加で、日本の「銀座」から、世界の「GINZA」へと発展を遂げている。
その一角に、奈央の勤めるフローレンスの自社ビルがあり、一階のギャラリーの様子が通りを歩く人々の目に留まっていた。

画像19

ふと、奈央は足を止めてフローレンスのギャラリーの中にいるひとりの男の後ろ姿を見た。
 男は受け付けの女性と談笑していたのか、白い歯を見せながら振り向くと、通りに佇む奈央の姿を捉えた。
男は一瞬、何?と問いかけそうな顔をしたかと思った途端に大きく目を見開き、ギャラリーの中から飛び出して来た。
 深緑の葉陰が風に揺れ、透き通る緑の葉の隙間からキラキラと光が零れ落ちて奈央をつつんでいた。
「いや…あの…
いやぁ…人違いだったらすみません。松井…奈央?奈央ちゃん!」
涼太は眩しそうに奈央を見るとそう尋ねた。
奈央は大きく目を見開いたままコクリと頷いた。
「涼太お兄ちゃん?何で?なんでここにいるの?夢…じゃないわよね?」
「いや…こっちの方こそ、なんで?なんでさ。いや〜まぢか!こんなに綺麗なお嬢さんになって…。いやぁ…本当か!奈央ちゃんなんだよね!」
奈央も満面の笑みで更に大きく頷く。
それを見た途端に男も笑顔になって、かつて子供の奈央に会う度、そうしたように軽くハグして奈央の懐かしい笑い声を聞いた。


男の名は高柳涼太、36歳。


当時はまだ、アートデレクターの肩書きで大手の広告代理店に勤めていた涼太は、アメリカで学んだ学芸員の知識を生かし、同時にデレクションやマネジメントの仕事も兼ねたキューレーターの仕事へ軸足を移し始めている時期だった。
 元来、物怖じしない性格もあって、 美術に関する知識だけでなく、 コ ミュニケーション能力も高かった涼太は、日本に於いては、 まだまだ 認知度の低かったフリーランスのキューレーターとしてその後、みる みる頭角を現していく。

画像20

奈央は、シアトルの生活で涼太に度々あっていたとは言え、涼太が、アメリカの美大を卒業したその後、どのような人生を送ってたいのかは知らないでいた。
時折、奈央の母親から、涼太が大学卒業後もアメリカに残って美術関係の仕事をしているような話を聞いたような気もするが、奈央自身が、帰国子女として、日本の暮らしや学校に馴染むことに必死でいたことも、涼太への記憶が薄らいでいったひとつかもしれなかった。
その日を境に、奈央の人生はこの高柳亮太と言うひとりの男の存在に大きく転換し始めて行く。

****   ********   ********   *******

 休日ともなれば奈央は、世田谷にある亮太のマンションを度々訪ねるようになった。

奈央は兄妹がいないせいもあってか、幼い頃から自分を可愛いがってくれた亮太が本当の兄のように思えていた。

そしてまた、亮太以上に会いたくて、会えば会うほど愛おしく、どんなに疲れていても訪ねたくなる存在が涼太の住む家には居たのだ。

亮太には当時まだやんちゃ盛りの4歳の櫂という男の子と生後まもない果穂と言う乳飲み女児がいた。

その二人の子の母親マリエは、涼太がシアトル留学時代に知り合った大学の後輩で、一度マリエはアメリカ人の男性と結婚をしたが、2年ほどで離婚して日本へ帰国していた。
アメリカに7年ほどデザイン事務所や美術館、博物館などを転々とした後、日本に帰国した涼太はその冬に東京国立博物館で開催されていた企画展「若冲と近世絵画」 の展覧会場でマリエと偶然にも再会した。

フランス人を祖父に持つマリエは、色白の彫りの深い面立ちをしていて、学生時代はモデルのアルバイトもしたほどの美しい女性だった。
奈央と同様に美術、歴史が好きで、マリエと話しだすと二人は互いの感性や思考が似ていることに驚き、涼太が兄のような存在ならばマリエは正に姉のような存在として奈央には家族同様な関係になって行った。

 乳飲児で世話の多い果穂に手を取られていたマリエは体調を崩しがちだったこともあり、奈央は休日ともなればやんちゃ盛りの櫂の相手をしながら買い物や家事を手伝い忙しくも穏やかな時間を過ごした。

その頃の涼太は益々多忙な日を過ごし、時には海外出張への仕事も多くなっていた。
 涼太の目指す日本に於けるキューレータの位置付けは当時はなかなか受け入れられ難いところもあり、欧米のキュレーターと日本の学芸員では、仕事の担当する範囲が大きく異なっていた。

日本の学芸員は基本的に博物館の幅広い業務に関わる事が多く、仕事は学術的な研究調査や収納物の管理保存などさまざまなものがあったが、業務のなかにはチケットの売り子や電話連絡など、学芸員というよりは日常の雑務に近いようなものも多くあった。
 日本においては博物館や美術館で働く多くの人が「学芸員」を名乗っているが欧米の「キュレーター」は館内での地位が高く、総括的に絵画や美術品等々の展示者としての見識と能力が重視された。
 また、多くの優秀な人材を管理し、動かしていかなけれならず、マネージメント能力も要求された。

「涼太兄さん、相変わらず、忙しいのね」

奈央は遊び疲れて眠った櫂をベットに移しながら果穂に乳を含ませているマリエの胸にそっと目を落とした。
 抜けるように白い母の乳房に顔を埋め、無心に乳を吸う幼な児を当時の涼太は月に、何度抱きしめてあげられたのだろう。

画像3

奈央はまだ幼い子供の居る涼太の家庭に、涼太が帰る時間の少なさを憂いながら、そこまで仕事に没頭できる涼太が少し羨ましくもあった。

そしてそれは十数年経ったいまでも変わりは無かった。

****   ********   ********   *******

「今、マドリードに居る、これから目当てのコレクターに会って上手く話がつけばいい作品を東京に持って来れる。その足でパリに戻り、10月初めには日本に帰れそうだよ」

涼太はそう言って、小さなため息をひとつついた。

「それって、来春の東京近代美術館の展示会の為の?」「そうだよ」
「相変わらず忙しいのね…」
そう言った奈央もディスクの上に置いてある展示会の資料のページをめくりながら涼太の電話に応じていた。

「奈央…マリエのこと、いつもすまないな」

「どうしたの、急に」

「いや、君も忙しいのに、こうして僕が日本を留守にする事が多くなってマリエや子供たちの世話までさせてるようで申し訳ないと思ってる」

「何言ってるの、マリエ姉さんは私の姉のような人よ。櫂も果穂も今となっては大切な家族のような存在。頼りにされてるってことは寧ろ嬉しいわ。それに果穂はもう十六歳、櫂に至っては二十歳の大学生。立派な大人だわ。マリエ姉さんの力には二人は十分足りている。私なんて時間があれば顔覗かせて下手な料理を作るくらいよ」

「ありがとう、すまない」

涼太はいつになく神妙な語り口でそう言った後、短い沈黙が生まれた。
その、沈黙を打ち消すかのように奈央は明るい声で言った。

「ここの所、マリエ姉さんの体調もいいし、大病をしたと思えないくらい食欲も戻って顔の色艶もいいのよ」

「そうか。なかなか家に帰れる時間も少ないからマリエにも子供たちにも申し訳ないと思ってる。それに…あとどれくらい時間が残されているのかも分からないのに、マリエの側にいてやることも出来ない、我ながら夫として父親としても情けないよ」

涼太はいつになく奈央に弱音をはいた。

「涼太兄さん、疲れてるのね。ご飯食べてる?
マドリードには美味しいワインや食べ物がいっぱいでしょ?沢山食べてよ」

「あぁ、分かってるよ」涼太はため息混じりにそう答えた。

「櫂や果穂とも約束したじゃない?どんな事になっても家族みんなでママを支えて行くって…」

一年前、涼太の妻マリエは病に臥した。
病名は乳がん。ステージ4
病根が思ったより深く左の乳房を失なった。
術後の容態も決して良いとは言えず、今は僅かな望みを捨てずに緩和治療に専念していた。

奈央は明るい声で涼太を励ましながらも、異国の地でマリエや子供らのことを案じる涼太の気持ちを思うと胸が詰まる思いだった。

画像21

電話を終えて奈央は、ふと、窓際のテーブルに置いてあるバカラの花瓶に目をやった。水を張ったクリスタルの花瓶の中には大輪のカサブランカの花が数本生けてある。
白く大きな花形は華やかで美しいけれど、その命を閉じる時、茎からはらりと落ちる花びらは何か物悲しさをひとしおに感じさせる花だった。

奈央はその美しいカサブランカの花をマリエの姿に重ねて合わせている自分に思わず頭を振った。

****   ********   ********   *******

【霧の中の鐘楼】
  追憶 (2)

    奈央ちゃんがそう決めたのなら私たちは全力で応援するわ…

 細く白い指に絡む赤い毛糸を編み棒で掬い上げていた手をとめてマリエは奈央にそう言った。

「マリエ姉さんにそう言ってもらうのが一番嬉しい。ありがとう」
奈央はテーブルの上の皿に銀座のピエスモンテで買ったフルーツケーキを並べながら頭を下げた。

「場所はもう決まったの?」
「大体の目星は付けてあるんだけど。後は、父が最終的な結論を出すと思う」
「そう。涼太から奈央ちゃんのお父様の判断に間違いは無いだろうって聞いてるわ。世界中の名だたる美術館や博物館、そこにある絵画や宝物をその目で見て来た二人ですもの、きっと素晴らしいギャラリーが出来上がると思うわよ。涼太も私もその話を聞いて今からワクワクしているのよ」マリエは奈央が淹れた紅茶とフルーツケーキを美味しいそうに頬張りながら明るい声でそう言ってくれたことを昨日のことのように思い出す。

寝食を忘れて世界中を飛び周りながら確実にキューレーターの実力を身につけていた涼太。

その、涼太の住むアートの世界に奈央も次第に関心を持ち始めていったのは今から思えば自然な流れだった。
 幼い頃から世界の美術館や博物館を父に連れ歩かれた奈央は人間形成の基礎を作る最も重要な時期に徹底してその感性を磨いていったのだ。
その事に気づかせくれた涼太の背中を仰ぎ見ながら奈央はギャラリストの道を現実のものとして追い求めていった。

六本木の古い倉庫跡地に
【ART GALLERY/NAO MATSUI 】がオープンしたのは奈央が29歳の秋のことだった。

女でしかも若いギャラリストは業界の間では暫くはお手並み拝見と言う冷ややかな目があった。
 しかし居心地の悪い歓迎を尻目に若いギャラリストならではの大胆な発想と才覚でその歓迎を鮮やかに好転させる出来事を奈央は演じて見せたのである。
 2008年、ギャラリーをオープンしてから程なくして起きたリーマン・ショックによるアート市場の崩壊、業界の動揺は大きかった。
 しかし、奈央のようなまだ海のものとも山のものとも知れぬ新参者の画廊はさほどの痛みも伴わなかった。
寧ろ、世界恐慌、金融破綻に痛手を受けていた日本企業家のコレクターたちが自分の持つコレクションの価値の有無を憂い始めていた。そして、良質なコレクションを手放そうとしている動きをいち早く察知した奈央は、父、康介の人脈を借りながら一手にそれを引き受けたのである。

画像21

その市場の矛先は【中国バブル】で意気揚々としていた中国。その頃、中国の富裕層たちは投資目的で世界中のコレクターが手放し始めた絵画や美術品を買い漁りはじめていた。

奈央は松井画廊の未来をを占うべく、ここぞとばかりに打って出た。
 持ち前の行動力で中国に飛び、身につけた語学力と国際感覚で中国の富裕層たちとのアポイントを取り付け、次々と予想以上の高値で交渉を成立させていったのである。
 終いには中国美術史家の重鎮、黄周禅の傳に寄って翌春、中国天津美術館での日本画展開催を成約させると言う快挙を成し遂げたのである。
勿論、その快挙の裏には涼太の協力と助言があったことは言うまでもなかった。
 その話は沈みがちな日本の業界の重鎮たちの耳にもすぐさま届き、将来楽しみな画商になると松井奈央の名をしらしめたのである。

若い画廊主が故にギャラリーのコンセプトに確信的なものがあったわけではなかったが奈央と数人の若いスタッフたちは老舗画廊にない斬新なプログラム作りでその後も次々に展示会を仕掛けていった。
もちろん、自分たちが思うようにならない結果も幾度も経験したがそれもまた経験から学ぶ失敗は必ず自分たちを成長させいく価値のあるものだと乗り越えて行った。

****   ********   ********   *******

日本国内に於けるアート市場は海外に比べると絶対的にコレクターの数が少ない。
 しかし、少ないからと言って作品を見る目がないのかと言うことではなかった。
そう言った日本の質の高いコレクターの為にもギャラリーがスペースを提供し展示会を開く意味があった。同時にその展示会が才能のある若手のアーティストの発掘の場にもなり同世代の奈央にはその若いアーティストたちと共に成長していく楽しみがあったのだ。
 
後に国内外でも高い評価を得ていく日本画家、松倉冬真(とうしん)を始めとする才能豊かなアーティストたちが、この松井画廊から世界のアート市場へと何人も羽ばたいていったのだ。

振り返ればこの14年の歳月、奈央は畑違いの絵の世界に足を踏み入れてから一心不乱に経営者として、また画商としての仕事に邁進して来た。
日本のアート業界の優れたキューレーターの一人、高柳涼太と言う男の後ろ姿を追って…
 時に躓き、時に悔し涙を流したこともあったがそれ以上に仲間のスタッフたちとかけがえのない日々を過ごしてこれたことは何ものにも変えがたい珠玉の時間だった。そしてまた、無名の若いアーティストたちが成功していく軌跡を傍で見て行くことが出来たのもこの上ない喜びのひとつだった。

****   ********   ********   ******

 幼なじみの涼子は、未だ独身の奈央を気にかけてくれ、時々連絡もなく不意にマンションを訪ねて来ることがあった。
奈央の住むマンションからさほど遠くない、緑豊かな住宅街に大きな家を建て、街にいくつかのイタリアンレストランを経営する夫と二人の子供たちと幸せに暮らしている。

イタリアンシェフの修行の為にイタリアへ留学した夫と紆余曲折ののち二人は結婚した。

「雨に咲く紫陽花の花も綺麗だけど、こうも咲いてくれたら切り花にして部屋に飾るのも素敵だと思って」
涼子はそう言って英字新聞にくるりと包んだ青紫色の数本の紫陽花の花束を奈央に差出した。
その、彩鮮やかな大ぶりの花束を受け取りながら奈央は慌てて部屋で履くバブシュウを床に並べながら
「ありがとう!綺麗ね。こんな雨の中、上がって」そう、早口で涼子に言った。

「奈央、悪い!私これからデートなんだ。
やっと、主人に休みが取れて。三ヶ月ぶりよ。フフ」

「そう…良かったじゃん」
「奈央…これ見て」

涼子は、悪戯っぽい顔で笑って、花柄のワンピースの胸元をそっと開いて、大きな胸の谷間を奈央に見せつけた。

「なに?赤くなってる。もしかしてキスマーク?」
「ふふふ」 
「はい、はい、ごちそうさま」

 皿の上の芸術ともいえるイタリアン料理は見た目の美しさにもこだわり、シェフの繊細なセンスが必要とされる。
その繊細な言葉からおおよそかけはなれた涼子の夫、川上健大の姿身は、一見すればアスリートのような頑強な身体をしていた。
その逞しい男の腕に抱かれ、強く胸を吸われた涼子は、友人の奈央にその一夜の交わりの跡を見せつける。
軽い嫉妬を覚えながら奈央は少し雨に濡れた涼子の栗色の長い巻髪をそっと指で拭った。
「奈央…私…行くわ。今度、ゆっくり話すことがあるの。また…」

涼子の瞳が少し濡れていたように見えたのは奈央の錯覚だったのか…

「うん?悩み?まさかね、キスマークつけられるくらい幸せ満々の涼子に悩みなんて…まぁ、ダイエットが上手くいかないからどうしょう…」なんて悩みはなしよ。
奈央はそう言って、足早にエレベーターに急ぐ涼子を見送った。

  アンティークのチェストの上に置かれた青紫色した紫陽花の花…。

     白磁の花瓶の中でいっそう美しくその姿を見せている。

 その紫陽花の花からやや目線を高く移すと壁に掛けられている一枚の肖像画を奈央は食い入るように眺めた。

           ポール・セザンヌ作 (画家の夫人)
         セザンヌの妻、オルタンスの肖像画である。

 すみれいろの模様があるくすんだベージュ色のカーテンを背に不機嫌そうでなにかつまらなそうな夫人の表情。
 華やかなドレスや装飾品を身に付けず、両手を軽く組みじっとこちらをみつめて動かない。
けれど、頬とくちびるに塗りこめられた薔薇色の絵の具が柔らかで優しげな表情を醸し出していた。

 このマダム・セザンヌ (画家の夫人)は父、康介が若い時から好んだ大切な絵だった。

本物に触れる…父の絵画、美術品を鑑賞、所有する時、最も注意深く自分の審美眼に忠実に思いを払うことを重視していた。

その父にしては珍しくこの絵は紛れもない偽物の絵だった。

無論、美術館などでしか目にすることが出来ないこの絵を個人が持つことなど到底出来ないことは承知の上だが何処で手に入れたか知れぬその贋作の絵を長い海外生活の中でも決して手放すことをせず、大切に家のリビングに飾ってあったのは何故だったのだろう。

 高価な絵画を数十枚所有していた父には他に飾る絵もあっただろうに…。
それほどにいつも眺めていたい絵だったということなのか。

その疑問を一度も問うことも無く奈央は意外に呆気なくこの絵を父から譲り受けた。
それも今にして思えば不思議なことだった。

   オルタンスは長い間セザンヌの正式な妻にはなれなかった。

 売れない絵を描き、若いオルタンスとの間に授かった息子を養って行く事はできない。当時、セザンヌは郷里の父親からの仕送りのみが生活の糧だった。

 それを絶たれてしまえば、絵を描く事どころか生きて行くことさえままならなくなってしまう。
 なんとしても立派な絵描きに大成せねばならない。

父親の期待を裏切り、勘当を免れる為にもセザンヌは家庭を持ったことをひた隠しに隠した。

 貧しい暮らしの中でセザンヌの画業を支え、ひとり息子のポールを育て、ようやく正式な妻になったオルタンスはどんな人生の雨風にも負けぬ芯の強い女性だったのだろう。

 オルタンスと言う名前は「オルタンシア」紫陽花の花の名を指すのだよ。

 遠い記憶の中でそんなことを父に聞いたことを奈央はふと、懐かしく思い出していた。

 しっとりと雨に濡れた紫陽花の花は、オルタンスの肖像画の中に溶け込むように柔らかな色彩を放ちながら静かに咲き続けてくれた。

    台風が来るらしい

 強い勢力を保ちながら、週末あたりに伊豆諸島にかなり近づくと予想されている。
そのせいもあってか、部屋の湿度が高く、汗ばむほどの不快さで奈央は目覚めた。
 背中ばかりか、胸の谷間や太ももの間までもじっとりと汗をかいている。
窓から見る空は、鉛色の雲が重く垂れ込め、風が通りの街路樹の葉をしきりに揺らしていた。
 枕元に手を伸ばしスマートフォンを引き寄せる。 

 時刻は午前9時半
 熱いシャワーを浴びたい。
奈央は長い髪を無造作にかきあげ、大きめのバレッタで留め上げるとバスルームのドアを開けた。
 汗に濡れたショーツとそろいのキャミソールをランドリーバスケットに投げ入れると奈央は、シャワーのノズルに手をかける。
 熱いシャワーの熱気と共にボディーブラシの上に乗せたシャワージェルの香りがバスルームいっぱいに溢れ出す。
オレンジ、マンダリン、ネロリをブレンドした上品なシトラスの香り。
イギリスのブランド、モルトンブラウンのアイコニックな香りだ。
 その豊かな香りを含んだ泡を、形の良い乳房や腹、腰にゆっくりとなすりつけながら奈央は、明け方近くに見た途切れ途切れの夢をぼんやりと思い出していた。
 なぜ、あんな夢を見たのだろう。
先日、スペイン、マドリードに居る涼太からの電話のせいだったからか…。
ねっとりと肌に吹いた汗は、何も部屋の蒸し暑さのせいばかりではなかったのかも知れない。
奈央はシャワーの温度を高めにして、その汗を一気に洗い流した。

ー回想ー

画像5

 19歳の夏、大学の夏の休暇を利用して奈央はスペインからポルトガルへのひとり旅をしたことがあった。
 旅先を決めかねている時、母親、真紀子から「スペインは世界遺産の多い国、見所いっぱいよ。世界遺産に登録されていない穴場的な観光スポットも沢山あるし」そう、勧められた。
「北欧の方もいいかなぁっておもうんだけど、予算オーバーになりそうなの」
奈央はソファに寝転んだまま旅行会社からもらってきた薄っぺらいパンフレットを見ながらそう言った。
「スペインからポルトガルへ足を伸ばせば両国に張り巡らされた鉄道網を利用しながら便利でリーズナブルな旅ができると思うわ」
真紀子は、エチオピア産のコーヒー豆を木製のミルで挽きながらキッチンの奥で奈央にそう応えた。
「う〜ん、スペイン、ポルトガルねぇ、鉄道の旅もしてみたいし、ポルトガルはまだ行ったことないし、それいいわね」
 父と母は若い時から海外生活が長く、旅なれていたので奈央は母、真紀子のアドバイスをすんなり受け入れ旅先をスペイン、ポルトガルに決めた。
時間はたっぷりあった。
 けれど、学生のチープな旅。慎重にプランニングしなければ予算オーバになりかねない。
 奈央はオーソドックスな旅のルートとして、まず、旅の始まりをスペイン、バルセロナに決めた。
 建築家、アントニオ.ガウディの未完作品サグラダ・ファミリアはありきたり過ぎるといえばありきたりだが、バルセロナまで行けば必見だ。
スペインで最も観光客を集めたモニュメントとなっているこの歴史的建築物を見ない手はない。
 同時に、同じガウディにより増改築されたカサバトリョ、この建物は2005年に世界遺産に登録されている。
カタルーニャ美術館、グラシア通り、カサ.ミラ、パラウ・デ・ラ・ムシカ (カタルーニャ音楽堂)歴史的な街並みを歩くだけでも楽しい気分になれそうだ。
 お腹が空いたらバルへ行こう。そこで地元の美味しいお酒やスペイン料理を食べよう。トルティージャ(Tortilla)や生ハム、ハモンセラーノ(Jamón serrano)も食べたい!魚介類たっぷりのパエリアも、美味しいワインとならいくらでも入りそうだ。
バルを出たら夜の散歩へ。ライトアップされた夜景観光も昼間見る歴史的建造物と趣が違い楽しめるはずだ。
3日もしたらバルセロナからレンフェのAVE高速列車でマドリードに移動。
そこからマドリード、チャマルティン駅から国際夜行列車トレンホテル・ルシタニア号に乗ってリスボンのサンタ・アポロニア駅に到着。
10時間くらいの長旅だが寝て起きた時には目的地リスボンに到着してるはずだし、ホテル代も浮く。
なにより、列車の旅は次の目的地への乗り換えが簡単にできるという点は魅力だった。
リスボンでは世界遺産ジェロニモス修道院やベレンの塔などを訪ね、電車でシントラまで行き次にバスで欧州最西端のロカ岬を巡り旅の終わりをリスボンから日帰できる海辺の街ナザレの地と決めた。
 まだ観ぬ異国の街が色鮮やかに次々と奈央の目の前に立ち上がってくる。
旅はこうい作業も楽しみのひとつだ。
手元に買い漁ったカラフルな旅の雑誌などを楽しげに捲っているとページ一面に石 造りの細い坂道に洗濯の洗い場らしき場所が写っている。
その小さな広場でひとりの中年の女と美しく装飾されたギターを抱えた男の姿が目に止まった。
女はたっぷりと肥えた体をよじるように歌を歌っている風に見える。
ページの隅に白抜きの文字で「ファドの聴こえる街 アルファマ」と書かれてある。
哀愁ただよう旋律に乗せて歌われるファド
そうか…この街でファドが聴けるのか…。
音楽好きの母は折に触れて古いレコード盤に針を落とし、ひとり静かに好きな歌を良く聴いていた。
異国の言葉で切なく歌い上げるファドの歌を奈央は何度か耳にしたことがあったのだ。
ファドを作り上げたという国民的歌手、アマリア・ロドリゲスはこのアルファマの街で洗濯女とし て働きながら唄を詠っていたという。
それがファドの起原らしい。
そのサウダードゥ(郷愁)の 調べが、同じくサウダードゥを愛するリスボン市民に愛され瞬く間にその歌が広がり、 アマリアは歌手となってその道を登り詰めていった。
奈央は旅の目的のひとつにアルファマの街でファドを直にこの耳で聴いてみたいと思った。
8月、夏の盛りに、手入れの行き届いた松濤の自宅庭に涼しげな青いクレマチスの花が次々に咲いた。
奈央はその朝、東京成田発、マドリード行きの飛行機に飛び乗った。

※ フアドは長い航海に出た男達のこと思って寂しさを語る歌

****   ********   ********   *******

画像7

 


 お昼過ぎ、奈央が辿りついたアルファマ(Alfama)は、サン.ジョルジェ城とテェージョ川の間の丘陵に広がるポルトガル.リスボンの旧市街だ。 そのアルファマの頂上には、シーザーの時代にローマ人によって最初に造られ、そ の後ゴーア、サラセン、十字軍と主を変えてきたサン・ジョルジェ城が聳え立ってい る。そこからオレンジ色の屋根が織りなす美しい景色、リスボンの街全体と海のように美しいテェージョ川が眺められた。 奈央は予約したホテルに荷物を置くと昼食も摂らずホテルからさほど遠く無いサンタルジア展望台へ出かけた。 石畳の坂道をゆっくりと登れば展望台から目の前に(夏の)青いテージョ川が空に溶け込むように美しく広がっていた。 その空の青と重なるようにポルトガル、リスボンの街の外壁には青いタイル絵、アズレージョがそこかしこに見られた。それはまた、このサンタルジア展望台を巡らす外壁にも見ることができ、南欧の太陽の下で咲く赤いブーゲンビリアと対照的な色彩を放っているように思えた。鳥や船、花や雲、幾何学模様、立体的な物、或いはポルトガルの歴史や文化を描いたこの美しいタイル絵を奈央は飽きもせず眺め歩いた。 誰かが急かす旅ではなかった。ゆっくりと、それでも欲張って、あれもこれも、観たい場所はいくらでもあった。展望台から更に上にあるサン.ジョルジェ城まで歩き、そこから見えるテージョ川に架かる『4月25日橋』と対岸の『クリスト・レイ像』の景色をカメラに収めた。このあと、サンタ・ルジア展望台の坂道(Rua do Limoeiro)の途中にある、カテドラル(Sé de Lisboa)のステンドグラスを観て時間があれば電車でシントラまで行き次にバスで欧州最西端のロカ岬へ行く予定でいた。奈央はゆっくりと石畳の坂道を下り始めた時だった。「君、日本人?」奈央の背後で若い男の声がした。その声に振り向くと背の高い男が坂の途中で笑顔で立っていた。黒のポロシャツにベージュのハーフパンツという如何にも異国の旅人と言うよりこの街の何処かで暮らしているような気軽さと街の景色に馴染みがあった。奈央は不意を突かれたような顔で右手を自分の胸に当て「私?」と声をあげた。男はうなづき、奈央の側まで近付くと明るい声でこう言った。「あぁ、やっぱり日本人だった!中国の人かなぁ、なんて思って」バリトンのよく響く声だった。

男の名前は岸田隼人 26歳。

地方の国立大の大学院を卒業後、就職浪人になり、その後ふらりと日本を飛び出して数カ国をバックパーカで旅していると言う。

「何だかさ、日本語忘れちゃいそうになるくらい日本語に飢えてたんだ。日本の観光客を見つけては声かけて取り留めのない話しするだけでほっとしてたんだよ」
岸田はそう言って陽に焼けた屈託ない笑顔を奈央に向けた。
「もう、日本を離れて長いのですか?」
「うーん、去年の一月の終わりくらいからだから…」岸田は指を折って旅の月日を数え始めた。
「1年8ヶ月?」奈央が笑いを堪えてそう言うと
「そうそう、簡単な計算だよね」と岸田はまた、笑った。
二人は肩を並べる訳でもなく石畳の坂道を歩き始めると「冷たい物でも飲まない?近くに感じのいい店があるんだ」岸田はそう言って奈央の前をスタスタと歩き始めた。
 奈央はカテドラル(Sé de Lisboa)のステンドグラスを観たあと、リスボンから電車に乗ってロカ岬に行く予定だった。
どうしよう…奈央は一瞬身を固めた。
「あのぅ…」
岸田は奈央の言葉に気づかなかったのか、いや、気付かぬ振りをしていたのか…大股で石畳の坂を降りて行く。
その背中は広く、シャツは南欧の焼けつくような暑さに汗ばんでいた。
辻々に植えられたジャカランダ(紫雲木)の木々の葉が石畳の上にみどりの木漏れ陽を落としている。
奈央は赤いペディキュアのつま先ばかりを見つめて岸田の足音を追った。

画像21

 二人はポルタス.ドゥ.ソル広場沿いの小さなカフェのテーブルに向き合って座っていた。
奈央の旅はもう、終わりに近づいている。
異国の街を歩き回り楽しんでいるのか疲れているのかさえわからないくらいの高揚感があった。
訪れた国々の文化、芸術、そこで暮らす人々の生のエネルギーにインスパイア(鼓舞)されるように欲張って歩き回った。
疲れていないと言えば嘘になる。けれどそれは旅をするものたちが一様に味わう心地の良い疲れだった。
同じ日本人と言う安心感か岸田という男の屈託のない人柄なのか目の前の日本人の男は少しの安心と奈央のひとり旅の疲れを解きはなしてくれるように思えた。

悪い人じゃなさそう...
警戒心も猜疑心も薄れていた。

 奈央が学生のひとり旅だと言うと岸田も数年前まで大学の研究室に篭って様々な実験に明け暮れていたと言う。
 ある日、相対論を確かめようとして時計を遠心分離機にかけて思いっきりまわしたら、時計が爆発した話、研究に使う氷を部屋にぶち撒けて自分が滑って思いっきり壁に顔面トライした話など様々な失敗談を身ぶり手振りで楽しげに聞かせてくれた。
 奈央はお腹が捩れるくらい笑い声をあげ、その日予定していた、カテドラル(Sé de Lisboa)の薔薇窓のステンドグラスもロカ岬も取り止めて夕暮れには岸田に案内された大衆酒場のような店で二人は夕食をとった。
異国の言葉が飛び交う川沿いのその店で旅人も彼の地で生きる人々も人種も性別も超え、この夜をこの場所で楽しげに語りあっている。
 ざわめきの中から時折湧き上がる笑い声と歓喜の歌と。酒と料理とむせかえるばかりの人いきれ。そして、誰かが爪弾くギターの音と。
目眩にも似た感覚に襲われそうになりながら、見も知らぬ日本人の男とこの店にいることの不思議を奈央は思わずにはいられなかった。
「旅のゴールは何処?」
岸田はポルトガル料理、塩漬けの干しダラ「バカリャウ」のスープを口に運びながら奈央にたずねた。
岸田は酒があまり飲めないと言う。
「ナザレです。ナザレのメモリア礼拝堂、ナザレ教会にいってシティオ地区の展望台にも行ってみたいわ。あ!それと美味しいイワシ料理も食べたいし、ケーブルカーにも乗ってみたい!」
奈央もお酒が全くと言っていいほど飲めない。
塩焼きのタコを口に頬張りながらそう答えた。
ポルトガルワインのボトルが所狭しと並ぶこの酒場では客がイベリコ豚のサフランリゾットやタコのカルパッチョ、塩焼きなどを肴に舌鼓を打っている。
せっかく美味しいワインが並んでいても岸田も奈央もお酒が飲めないのでは、ひたすら皿の上の料理を食べまくるしかなかった。
「ナザレビーチもいいよ。銀の海岸(コスタ・デ・プラタ)はこのシーズンは世界中からバカンスで混み合ってるけどビーチにぎっしりとカラフルなパラソルがひしめき合って、それも必見。それから、場所を替えて岬の先端にあるサンミゲル要塞も訪ねて見てよ。要塞からは大西洋が臨めるばかりか、迫力ある荒波を見ることができる。
ナザレは世界でも一等級の波が来るんだよ、世界のトップクラスのサーファーが集まる」
「そうなの?じゃ、そこもいかなきゃ」
「バスで?」「そう予定してます」
岸田は食べ終えた皿を引くように店の従業員に流暢な英語で伝えると
奈央の顔を真っ直ぐ見て言った。
「俺も一緒に行っちゃだめかな」 おもいもよらぬ言葉だった。
奈央は一瞬食事の手を止めたが岸田の顔を見ずに「良いですけど…でも」
奈央は口籠った。
岸田は奈央の次の言葉を待たぬうちに
「じゃぁ、決まり!旅は道づれっていうし。明日8:30に君のホテルのロビーまで迎えに行くから」
岸田のやや強引な口ぶりに戸惑いはあったが嫌悪感はなかった。
無かったけれど、一瞬なにかを拒絶したいような妙に抗えない力のような
ものを奈央は感じ取っていた。
岸田はテーブルのレシートを掴むと二人は酒場を後にした。
テェージョ川から吹く川風が肌に心地いい。
「明日朝、ホテルの玄関で」
岸田は奈央の宿泊先を聞くと笑顔で「じゃぁ」と片手をあげて街灯の灯るアルマファの街の中に消えていった。
奈央はひとり空を見上げた。
満天の星々がアルマファの夜空にキラキラと瞬いている。
       
その星々の名を奈央はひとつも知らずに生きてきたことを思った。

画像8

 


 狭い路地裏で黒装束を身に纏った女たちが数人でおしゃべりに興じていた。
白壁に揺れる紅や黄色な花々がその黒服の女たちの傍らで溢れるように咲いている。
その石畳みの路地裏から黒猫がフィに姿を現したかと思えばまた、ふらりと迷路のような路地裏に消えていく。
潮の香りを含んだ風がそれを追うように坂道の先まで吹き抜けるとそこには美しい白浜と青い海が広がっていた。
リスボンからバスで片道2時間弱のところにある海辺の町.ナザレの最も人気のある 銀の海岸と呼ばれる(コスタ.デ.プラダ)だ。
今でこそ、この白浜は国内外から観光客が推し寄せるリゾート地になっているが少し前まではどこにでもありそうな鄙びた漁村だった。
地元の女たちが魚を干す姿も新古を感じる風景のひとつになっている。
フランス映画「過去をもつ愛情」のなかで、ポルトガルの国民的ファド歌手アマリア・ロドリゲスが歌った「暗いはしけ」が舞台となったのもこの漁村のことだった。
岸田と奈央は昼前にはナザレに着き、ケーブルカーで崖の上のテェシィオ地区にあるナザレ展望台から一望できる海岸を眺めていた。
「岸田さん、見て、白浜があんなに綺麗…」奈央が指差す方向にはユーラシア大陸先端の地に荒々しく打ち寄せる大西洋の白波がキラキラとみえた。
正に銀の海岸と称される光景だった。
左手には弓状に伸びる白浜に沿うように調和の取れた赤い屋根の街並みが広がっている。
「奈央ちゃん、写真撮ってあげようか」
岸田は笑顔でそう言うと胸に下げた一眼レフのカメラレンズを奈央に向けた。
「私は、いいですよぉ」慌ててその場から離れようとする奈央に岸田は
「こっち向いて」と背中を向けて歩き出す奈央に向けてシャッターを数回、切った。
その写真が笑顔だったのか、すこし困った顔だったのか、奈央には分からなかった。
そして、その写真を奈央はこの旅が終わった後も一度も目にすることはなかった。
二人は暫く展望台からの景色をながめた後、そこから路地を抜けた先にある小さなメモリア礼拝堂 【Ermida da Memoria】を訪ねた。
中は三人ほどが入れる礼拝堂で一面が青と白とのアズレージョに彩られた世界が広がっている。

画像22


 大柄な岸田と奈央はその小さな礼拝堂の中で互いの息づかいがわかるほどの距離にいた。
陽に焼けた岸田の横顔は真剣な眼差しで中央に置かれた小さなマリア像を見つめている。
そして奈央は、今、その岸田の横顔をまじまじと手の届くような場所から見つめていた。
この岸田と言う男の何を信じてこの海辺の街まで共に旅をして来たのだろう。
同じ日本人というだけで?岸田の言った旅は道連れと言う如何にも日本人好みの情緒的な感覚にまどわされてのことだったのか。
美しく組み合わされた青と白とのタイル絵、アズレージョにとりかこまれた礼拝堂は仄暗く、奈央は息苦しさに思わず後ろを振り返った。
そこには、南欧の抜けるような青空が果てなくただ、広がっている。
その時、岸田が奈央の肩を強く引き寄せた。

画像9


 それは一瞬の出来事だった。
岸田の唇が奈央の柔らかな唇をいきなり塞いだ。
 奈央が驚いて岸田の腕を振り払おうとすると岸田はその手首を掴み、真っ直ぐ奈央の顔を見下ろした。
奈央は言葉が出なかった。
 岸田の腕は素早く奈央の細い腰を引き寄せ今度は荒々しく奈央の唇を吸った。声を上げることも争うこともできない。
 唇をこじ開け、奈央の柔らかな舌に岸田の舌が絡みつこうとした時、奈央は強く頭を横に振り岸田から離れた。
「奈央ちゃん…」
観光客の足音とざわめきが近くに聞こえた。

 奈央はひとり、礼拝堂を飛び出すと(ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ)教会に続く広場へ歩き出した。
背後で岸田の奈央を呼ぶ声と足音が聞こえて来る。
 狭く仄暗い礼拝堂から解き放たれて行くようにナザレの青い空が一面に広がって行く。
「奈央ちゃん…ごめん」
 岸田の戸惑いのようなか細い声が背中越しに聞こえた時、奈央は妙に鼻先がくすぐられるような感覚になってククッと笑い声が溢れた。
 「岸田さん、お腹空いた!ランチはそちらの奢りね」
奈央は振り向きもせずぶっきらぼうにそう言った。
「えー、まあぁ、そりゃいいけど…怒ってないの?」
岸田はひらりと奈央の前に立っと顔を覗き込んだ。
 「イワシの塩焼きは絶対だけどあんこうのリゾットも追加ね!」
奈央はツンと澄ました顔でそう言って岸田の言葉を躱した。
 可笑しいようなちょっと泣き出したくなるような、それでいて気恥ずかしくなるような、そんな複雑な感情の動きを岸田に悟られたくなくて精一杯の強がりを見せた。
 それ以上に岸田の生々しい唇や舌の感覚が奈央の女の触覚をヒリヒリと刺激していた。
 先に歩く岸田の後ろ姿に奈央は前夜、岸田に持った「妙に抗えない力のようなもの」を感じ取っていた事を思い出していた。
 この旅の終わりに選んだナザレの街で、昨日会ったばかりの男と唇を重ね合わせ、食事をし、残り少ない旅の時間を共に過ごそうとしている。
 そんなことになんの意味付けもいらなければ若い男女のちょっとした旅のアバンチュールと割り切ればいい。
ただ、19歳の奈央は訳もなく怖かった。
 暗がりの中に引きずり込まれるような恐怖ではなく闇の中から未知の扉を押し開ける時のような好奇心をもった怖さのようなものだ。
 大西洋から白浜に打ち付けてくる荒々しい波の音が乾いた風に乗って耳に届いて来る。
岸田の声がその波の音にかき消されまいと大声で何度も奈央の名を呼んでいる。
奈央はそれには答えないまま、黙ってケーブルカーの乗降口に向かう岸田の背中を追った。

画像10


白浜に伸びる二つの影を大西洋から寄せ来る波がさらっていく。
奈央は足元を濡らしながらその蒼い海を眺めた。
このまま、残り少ない旅の時間を自分はこの岸田と言う男といつまで過ごすのか。
日本を離れて10日余りのひとり旅。
 それは、奈央に豊かな時間と経験とそして何ものにも変え難い思い出を作った。
その旅のゴールのテープはやはりひとりで切りたいと言う思いがふつふつと湧いてくる。
奈央はこれ以上、岸田と共に旅を続ける必要はないと考え始めていた。
でも、いつ、どの場所で?岸田にそれを告げようか。
それはリスボンに帰るバスを降りた後でもいいような気もするし、今、この場所でこそキッパリ言わなければ…そんな気もした。
奈央の気持ちを急かすように蒼い波は寄せては返し足元を濡らして行く。
「岸田さん」
奈央は先を歩く岸田を呼び止めた。
 振り返った岸田の黒い瞳が眩しそうに奈央を見つめて微笑んでいる。
「岸田さん、私…」
「原ペコなんだろう?俺も。
さっきから腹の虫がグーゥ、グーゥ鳴いてるよ。
この先、浜から少し奥まった場所に、手頃な料金で美味しいランチが食べれる店があるから、もう少し頑張って歩いてよ」
 屈託のない岸田の笑顔だった。
 開け放たれた店のドアの向こうから潮を含んだ風が吹いてくる。
その風と交わるようにオリーブオイルやガーリック、イワシやエビの焼ける香りが漂っている小さな店で二人は少し遅めのランチを済ませた。
 奈央はイカのグリルやイワシの塩焼きを口に運ぶ度に、小さなため息を何度も吐く。
美味しいナザレの料理を食べながら切り出す話にしては気が引ける話で忽ちにその料理の味も半減するだろう。

画像23

「ご一緒する旅はここで終わりにします」
「楽しかったです。ありがとうございました。良い旅を」
奈央は言葉を探していた。
出来るだけ岸田に失礼にならないように…と。
 岸田は皿に残ったイワシの塩焼きを平らげると満足そうな顔で奈央に言った。
「奈央ちゃん、あと行きたいとこある?奈央ちゃんが観たいとこ優先するよ」「岸田さん、あのぅ、私…。」奈央は気持ちを決めて顔を上げた。
「どうした?あちこち歩きすぎて疲れた?」
「いえ、そうじゃなくって、岸田さんとはもう此処で」
「……」
「いえ、岸田さんと旅するのが嫌だってことじゃなくって。私、今回の旅は出来るだけ人に頼らずひとりでやり遂げるって決めていたんです」
奈央は携帯のストラップを弄りながら申し訳なさそうにそう言った。
事実、行き先のアドバイスは母、真紀子から聞いたが、旅の支度からプランニング、手続き、ホテルの予約等々を奈央はひとりでやって来たし、旅費に関しても父親の援助も受けずにアルバイトで貯めた予算の中で旅を続けて来た。
そのことと岸田とのナザレまでのShort tripとなにも関係があるとは思わないが、やはりこのまま通りすがりの岸田と旅を続けられないと思っていたのだ。
岸田はテーブル上のカップの水をくぃと飲み干すと、大きなため息をひとつして
「そうか」とだけ言葉を返した。
遅いランチを済ませた店内は、次々と客が席を立ち、気がつけばいつのまにか店の中には、岸田と奈央の二人だけになっていた。
従業員からこれ見よがしにテーブルを片付けられた二人も、仕方なく店を出た。
 ナザレのメインストリート、レプブリカ通り (Av. da Republica)を岸田は無言で足速に歩いて行く。
ポルトガル伝統の白黒のモザイクタイルの歩道のすぐ脇にはビーチが広がり、 北側の高い崖の上には 、アッパータウンの町並みが見えた。

「岸田さん!岸田さん、待って」
 日差しがやや傾き始めたとは言え、頭上の太陽は容赦なく奈央の身体を照らし汗が吹いて来る。
「どうしよう…」奈央は立ち止まり、思案した。
夕方のリスボン行きのバスの時間までまだ時間があった。
 このまま、一人で岬の先のサンミゲル要塞まで行こうか。
それとも岸田と残りの時間だけでも共にナザレ観光を済ませてしまおうか。
一緒にまたバスに乗ってリスボンに帰ってからでも「さよなら。いい旅を…」そう、笑顔で言ってもいいじゃない?
旅は道連れ…そう言ってくれた岸田の気持ちを思うと申し訳気ない気持ちもなくはない。
それにしても、会ったばかりの自分にいきなりあんなことをするなんて…。
否、それを受け入れてしまいそうな自分も、どうかしていた。
ゆきずりの、昨日会ったばかりの人なのに…奈央は唇を噛んだ。
 岸田は怒っているのか、奈央の呼び止める声にも振り向かず、白壁の家々に挟まれた狭い路地をすり抜けて行く。
取り敢えず「さよなら」を言おう。
仕方なく奈央は岸田の後を追った。

画像11

 青く煌めく大西洋の潮風を、いっぱいに浴びた色とりどりの洗濯物が、路地裏の家々の間ではためいている。
それはまるでいつかどこかで観たシネマのワンシーンのように美しく、おおらかで、奈央は思わずカメラのシャッターを何回も切った。
 ふと見ると、奈央はファインダーの中に岸田がしゃがみ込んで、何かを覗き込んでいる姿を捉えていた。
近づくと岸田が覗き込んでいたのは、木樽の中で3匹の仔猫がしきりに母猫の乳を吸っている姿だった。
奈央はファインダー越しにそれを覗きながら「可愛いわね」と自分もその側に座り込んだ。
岸田の柔らかな眼差しが奈央の笑顔を包み込む。
気怠い海辺の昼下がり
むせ返るばかりの花の香り
潮騒の音が微かに耳に届いていた。
「可愛いよな、凄く…」
奈央の黒く大きな瞳がゆっくりと瞬きを繰り返した。
岸田の白シャツの胸に抱き寄せられた奈央はひざまづいたまま岸田からのキスを受けた。
長くそして濃厚なキス。
奈央は経験したことがないキスだった。
息もつかぬほどの激しさの中で、くちびるから漏れる喘ぎのような声に、奈央は初めて自己の中にある女を目覚めさせた。
岸田の広い背中に手を回しながら、奈央の舌は岸田の口の中で甘い蜜を含みながら何度もその蜜を岸田と共に吸い合った。

画像12

 翳りゆくホテルの窓からポルトガルの伝統的な木造漁船が黒く浮かんでいるのが見えた。
岸田と奈央はリスボン行きのバスの最終便を見送って海辺の小さなホテルの部屋を取った。
 欧州最西端のロカ岬もカテドラル(Sé de Lisboa)の薔薇窓のステンドグラスを観ることも奈央はもう、諦めなければならなかった。
旅のスケジュールはギリギリまでに迫って来ている。
「私…何やっているんだろう」
岸田が、取れるはずもないバカンスシーズンのホテルの空き室を片っ端から探している間、奈央は何度もそう、自分に問いかけていた。
 岸田への想いなのか、それとも旅先のアバンチュールを楽しもうとでも思っているのか。
否、そんな事を楽しめる余裕など、一度も男に抱かれたこともない奈央にあるはずもなかった。
けれど…奈央は自分の中に微かに疼き始めている確かで、それでいてどこかもどかしく、未熟な女である自分から目を逸らすわけにはいかなかった。
熱くほてった体を夜風に晒していると、岸田は背後からゆっくりと奈央を抱きすくめた。
奈央は身じろぎもできない。
 岸田は奈央の白い首筋に熱い唇を這わせながら囁くようにこう言った。
「奈央…君はまだ男を知らないんだろう」
奈央は何も応えずそっと岸田の絡めた腕をすり抜けようとしたが
岸田に強く抱きしめられていた奈央の身体は微動だにしなかった。
岸田は荒々しく奈央の唇を塞ぎ、なれた手つきで奈央のブラのホックを外した。
白いブラのストラップが、奈央の肩先からするりと床に滑る落ちると形の良い二つの乳房が岸田の目の前に顕になった。
細く長い四肢を持つ奈央にしては、わりと大きな乳房だった。
そしてそれはまだ熟す前の青い果実のように瑞々しく、それでいて細い手足とのアンバランスさは妙にエロティクで、岸田は息を呑むほどに見惚れた。
「綺麗だよ、奈央」
岸田は呟くようにそう言うと奈央を強く引き寄せ、その乳房に熱い唇を何度も押し当てた。
 うねりのような波の狭間で、奈央はまるでその波に飲み込まれそうな小舟のように何度も自分を見失いそうになる。
その度ごとに、岸田の名を小さく呼びながら岸田の漕ぐ小舟にしがみつくように奈央はそのうねりに身を任せた。
 奈央の中で岸田を求める気持ちが愛というものではなく自己の性的な欲望を呼び覚まし、それを感応し合える誰かを奈央は今、欲しかったのだ。
そして、それは肉体の快楽と言うものではなく女としてまだ見ぬ自分を激しく突き動かし、目覚めさせ、女の舞台と言うものに自分自身が一時も早く跳ね上がりたかったのだ。
夜更けて静かなへやには潮騒の音だけが静かに聞こえていた。
奈央の隣で微かな寝息を立てている岸田の柔らかな温もりを感じながら、ふと、白いシーツの先からはみ出ている自分の爪先に目をやった。
砂に剥がれ落ちた赤いペディキュアは、爪の中ほどで僅かに色を残しているだけでそれは妙に奈央を不快な気分にさせた。
そして、身を捩るように抗えない力のようなものから一時も早く逃げ出したい気持ちになっている自分がいた。
夜明け前の海は濃い藍色に染まり、やがて朝日に輝く金色の濃彩を海面に散り敷かせはじめていた。
奈央は、深く眠る岸田の横顔をしみじみと眺めた後、ライティングテーブルに置いてあるホテルのメモ用紙に岸田宛の短い手紙を書いた。

岸田さんへ
素敵な旅を
ありがとうございました。
Bon voyage
お元気で。
奈央

わがままだと分かっていた。自分勝手だとも。
旅のひと夜のアバンチュール。
そう、何度も自分に思い込ませても、奈央は今、それを楽しかった思い出にはかえられない。
奈央は、岸田と言う行きずりの男に身を任せながら、本心は自分が捨て去りたかったロストバージンの相手にしたのだ。
そのきっかけを作ったのは勿論、岸田だったがひょんなことから奈央の好奇心をくすぐり、その思いは期せずして遂げられた。けれど、愛してもいない男に身を任せ、それと引き換えに奈央は愛の乾きにも似た思いに胸元を掻きむしりたいほどだった。
奈央は早朝、岸田を部屋に一人残したまま、ナザレの街の南にあるバスターミナルからリスボンに向かう高速バスにひとり飛び乗った。

****   ********   ********   *******

 ひとり、アルファマに帰り着いた奈央はホテルの部屋で深い眠りに落ちた。
いくつかの夢を見て、その夢の中で見知らぬ街を旅していた。行き交う人はみな楽しげで、ある者は声高らかに歌を歌い、また、ある者は街角のカフェで楽しげに語らっている。
黒いドレスを着た女達は葬送の列…?
いや、それは胸に抱えた色とりどりの花束を街の市場に売りに行く女達だ。
自転車に乗った少年、アイスクリームを売り歩くおじさん、年老いた道化師、カイゼル髭のポリスマン…。
ざわざわとざわめく雑踏の中で、珈琲や芳ばしいパンの焼ける匂いが漂っている。
誰かと出会い、誰かとすれ違い、奈央はあてどなく、ただ、見知らぬ街を歩き続けていた。
目覚めればひとり…奈央は白いシーツにくるまって青い々、アルファマの空を見上げていた。
 熱いシャワーを浴びたあと、色褪せたペディキュアに除光液を含ませたコットンでゆっくりと拭き取ると、爪はたちまちに、さくら色に彩を変えた。
今はもう、何も思うまい。
過ぎて行く旅の時間は夢とも現とも思えぬほど不確かで、そして、指の隙間から零れ落ちて行く砂のようにサラサラと足元を埋め尽くして行くだけだ。
奈央は麻の黒いワンピースに着替えて、父から贈られた真珠の小さなピアスを耳に飾った。
このアルファマの街で奈央は旅の最後の目的を果たさなければならない。
それは長いひとり旅の終わりに最も似つかわしい場所で、奈央の心を満たすだろう。
予約したファドレストラン 「アデガ・マショード」はバイロ・アルトの石畳の坂道を上り詰めた所にあった。
かってファドを作り上げたアマリア・ロドリゲスも出演していたという老舗である。
美しく装飾されたギターをバックに男2人、女2人の4人の歌手が客のテーブルの間をまわってきて、かけあうように歌うファド。
ギターの音色も物悲しいファドを、奈央は淡い光の落ちる店の片隅でひとり静かに聴いた。
 目を閉じればこの旅の思い出が次々に甦ってくる。
異国の街で迷っては立ち止まり、引き戻してはまた迷う。
そんな時、出会った人々の溢れるほどの笑顔にどれほど助けられただろう。
ひとりの旅の自由も孤独も味わった。
寂しさから来る人恋しさ、だからこそ得られた人の温もりも、知った。
 身を捩るほど切なく歌うサウダードゥ(郷愁)の 調べが奈央の心に深く々染み渡っていく。
あの時…ふと、奈央は思い出す。
石畳の坂の途中で呼び止められた屈託のない笑顔。
岸田のあの底抜けに明るい笑顔と優しさにも今、心から感謝しなければならないと思った。
潮騒の音が遠く微かに聞こえたような気がした…。
奈央の側でアマリアと同じ名を持つ女性歌手が歌いながら奈央の頬伝う涙をそっと指で拭ってくれた。
異邦人の若い娘がひとり、自分たちの歌を聴きながら涙を流している。
訳もなく流す涙ではないことをいくつもの舞台の中で女はしっていた。

Amor eterno e alegria para você    貴女に永遠の愛と喜びを…
アマリアはそう言って奈央の肩をそっと抱きしめて席を離れた。
 最後の旅の目的を果たすこの場所に、無事に辿り着けたことを奈央は心から良かったと思った。
ポルトガルギターとクラッシックギターがまた、切ないメロディを奏ではじめていた。
奈央はまだ、暮れやらぬ窓の外を眺めながら、明日、この街を離れることの寂しさと少しの安堵感で心満たされていた。

※ バイロ・アルトは、ポルトガル・リスボンの地区。ポルトガル語で『高い地区』という。

****   ********   ********   *******

 ー予感ー

画像13

 濡れた洗い髪をバスタオルで包みあげると奈央はバスルームから裸のまま寝室に戻った。
クローゼットの扉2枚分の大きさの鏡に奈央の風呂上がりの姿が写っている。
 奈央の素肌はうっすらとさくら色に染まり、つんと跳ね上がった二つの乳房は張りもあり、艶々と美しかった。
 古いチェストの引き出しからフランス製のレースをたっぷりとあしらったショーツを摘みあげると素早く、それだけを身に着けた。
そして、奈央はもう一度、鏡の中に写る自分の姿をしげしげと眺めた。
 夢の中の19歳の自分と、今、43歳にもなった現実の姿はどう変わってしまったのだろう。
 細く華奢な両腕や太ももは程よく肉が付き、腰の辺りも丸みを帯びている。
ショーツから僅かにはみ出している尻の肉は寧ろ、その柔らかな弛みが妙にエロティクで成熟した女の色香を漂わせていた。
 あれから奈央はいくつかの恋をして、それなりに切ない別れも経験して来た。
肉体の未熟さは重ねた年月と、恋をする度にいつしか芳醇な香りを放す果実のように成熟していった。しかし、それは外形ばかりの成熟さというもので、その肉体の奥底に潜んでいる何か満たされない思いは捉えどころがなく、もどかしく、未熟なまま、自分の中で消化しきれずにいる。
それが何なのか…恋をする度に相手にそれを欲しても未だ奈央はそれを誰とも享受することが出来ずにいた。
 濡れた髪を乾かし、バスローブを羽織っているとサイドテーブルの上で携帯の呼び出し音が軽やかに鳴り響いた。
「もしもし、奈央さん?お目覚めですか?」
「とっくによ。もう、お昼近くでしょう?」壁の時計は既に11時40分を指している。
「昨夜も随分遅くまでお仕事をしてらしたみたいですから…、台風が近づいていますよ。」
「えぇ。知ってるわ、大きいみたいね」
電話の相手は『ART GALLERY/NAO MATSUI 』のオフィスマネージャー兼駆け出しのアシスタントキューレーターの川島環だった。
環は、まだまだ駆け出しのアシスタントキューレーターだったが、奈央のマネージャーとしてはかれこれ10年以上の信頼のおけるスタッフだった。
今はキューレーターの仕事に軸足を置き、新人スタッフの佐伯麻衣の仕事の指導にオフィスにやってくることが多かった。
「今日は、夕方17時から品川の青海埠頭公園近くのオリエンタルハーバーシティーホテルでの経済会倶楽部の懇親会のパーティがあります。今のところ取りやめや日時変更のご連絡もないのでスケジュール通りです。それ以外は一度オフィスにいらして頂きたかったのですけど…それは、今日は、よしということで…」
キーボードを打ちながらスケジュールを確認している環のようすが奈央には手にとるように分かった。
「それ、どうして?台風が来るから?」奈央は環に聞き返した。
「それもありますけど…先日、奈央さんがお留守の時、画廊にいらしたお客様が奈央さんに渡したい物があるとお持ち下さったものをお預かりしてるんです。でも、急ぐ事ではないかとも思いますけど…」環はそう言って少し申し訳なさそうに「すみません連絡が遅くなって」と佐伯麻衣の連絡不備を自分の事のように奈央に詫びた。
「気にしないで。それより、お客様のお名前は?」
「それがお名前をお聞きしても渡せば分かるからって、仰るだけで。
こちらとしても、食べ物や中身の分からないものでしたら…困りますのでと言ったらしいのですが涼太さんのお名前が出たので心配ないのかと…」環はそこまで言って少し黙った。
「誰かしら?涼太兄さんの名前が出るのは仕事関係の人か…一度でもお会いしたことがあるお客様かしらね?」
奈央も直ぐ々には思い浮かばなかった。
「分かったわ、今日の天候次第で無理なら画廊に行くのはよすけど、大丈夫ならオフィスに顔を出すわ」
「奈央さん、今日のパーティはお天気も悪いですし、そこそこに切り上げて、お家でゆっくりしてください。あっ、それから西島建設の社長さまがお見えになっているはずですから必ずご挨拶して下さいね。先日、今や飛ぶ鳥も落とさぬ新進気鋭の日本画家、松倉冬真(とうしん)先生の最新作をお買い求めてくださったばかりですから」
日本画家の松倉冬真は、奈央がまだ冬真が無名の頃から何かと目をかけ育てた画家だった。
「分かったわ」
奈央はそう言って電話を切ると、鏡に向かって、もう一度自分の姿を見つめた。
そこには今や、世界中を飛び跳ね仕事をしている女の、自信に満ちた美しい素顔があった。

画像14


 淡いさくら地に、鮫小紋を染めた友禅和紙につつまれたその届け物を、奈央は今朝、MATSUI画廊の新人スタッフ、佐伯麻衣から受け取った。
「社長、本当にすみませんでした、うっかりで。今後このようなことないように致します」
 平謝りに謝る麻衣に「まだまだ慣れないことも多いと思うけど二度は無いわよ」そう言った後、赦免のつもりで奈央は「熱い紅茶をお願い」と笑顔で麻衣に言った。
「はい」
明るくそう返事を返した麻衣は、肩先まで伸びた美しい巻き髪を揺らして部屋を出ていった。

台風一過とはよく言ったものだ。
風雨に洗われた9月の空は蒼く晴れ渡り、ひんやりと秋の気配を感じさせている。
奈央は、窓辺の椅子に腰を下ろすと手渡された包みの裏をそっと返してみた。
そこには手刷りの文字で小さく「匠 玉葉作」と印されてある。
奈央は、ピンクベージュのマニュキュアで整えられた爪先で、その包み紙をゆっくりと解きほどいて行くと、細長い桐の小箱に、絹のような手漉き和紙に包まれた扇型の鼈甲(べっ甲)のかんざしが入っていた。
 蒔絵の螺鈿細工は細く、白梅に若松唐草紋様と金色の一羽の小鳥が刻まれたモダンな絵柄が美しかった。
 艶やかさの中にもしっとりとした重みと、嫌味のない意匠を凝らせたそのかんざしは、職人の磨かれた心と技とで作り上げた、品格とでも言って良いような気配を忍ばせていた。
奈央はもう、その送り主が誰であるのかを分かっていた。

北海道最先端化学技術大学教授 
早瀬省吾

 奈央はその名を、この半年の月日忘れることはなかったが連絡をとったこともなく、増してやいきなりこのような高価な品を贈らせると言う、思わせぶりな態度を取ったこともなかった。
 ただ、冬の寒い日の午後、画廊の中で互いに交わした会話は面映いまま奈央の記憶に残り、贈られたかんざしはその記憶を更に色鮮やかに思い出させ、奈央は思わず口元を緩ませずにはいられなかった。

****   ********   ********   *******

画像24


この年の二月始め、その日は朝から冷たい雨がしきりに降り続く寒い午後だった。
アシスタントキューレーターの川島環が暖かなコーヒーを持って奈央の社長室のドアをノックと同時に入って来ると、いきなりこう言った。
「奈央さん、今、ギャラリーにお客様がおひとりお見えになっているのですけどぉ、さっきからずっと身じろぎもせずあの絵をご覧になっているんですよ」
「あの絵って?冬真(とうしん)の?」奈央は思わず環から受け取ったコーヒーカップをカチャンと音立ててデスクの上に置いた。
「えぇ、松倉冬真先生の大作、(川辺の雪)ですよ。お気に入りなのでしょうかね?今日、売れちゃったりして!」環は弾むような声でそう言うと「奈央さん、社長自ら背中を押して来てはいかがです?」と奈央に詰め寄った。
「バカね、絵画は画家とその絵を欲しいという人間との無言の対話を第三者が邪魔しちゃいけないこと分かってるでしょ?」奈央はそう言って環の弾む気持ちを嗜めるように言ったものの、その客がどう言った人物か俄然、興味があった。
新進気鋭の日本画家、松倉冬真は奈央が無名の頃から大事に育てて来たような画家だった。
その、冬真の絵を長い時間眺めている人物に、奈央が興味を持たないわけがなかった。

****   ********   ********   *******

画像16

 ーめぐりあいー
 
朝から降り続いた冷たい雨は午後にもなると霙に変わっていた。
社長室のドアを開け、ガラス張りのスタッフルームを右手に見ながら奈央は、オフィスとギャラリーを仕切るアルミ製のドアをゆっくりと押し開けた。
目の前に広がる六本木の街は薄墨色の日暮れに沈みかけようとしている。
通りの辻々に灯る街の灯りはギャラリーの大窓をつたう氷雨の雫をキラキラと金色に染めていた。
細いパンプスの踵を響かせながら奈央はギャラリーの一角に佇むその客の後ろにそっと立った。

「良い絵でしょう…」奈央がそう、投げかけようとした言葉を遮るように
「この画家はまだ、若いですね」近づく人の気配を感じていたのか、驚きもせずその客は静かにそう言った。
「えぇ…、松倉冬真(とうしん)先生は今年、確か33歳になる若手の画家ですわ」
奈央はそう言ってその客の横に立ち静かに一礼した。
男は背が高く、肩広のがっしりとした身体は纏っている仕立ての良いスーツがよく似合う、50代半ば過ぎの男だった。
奈央は革の名刺入れから名刺を一枚抜き取ると、その男の前に差し出した。
「初めまして、当画廊の松井と申します」
男は奈央の差し出す名刺を受け取ると、ちらっとそれを見て、思いがけない事を言った。
「あなたの事は高柳から折に触れ、聞いていましたよ」
「高柳…って?キューレーターのあの、高柳涼太のことでしょうか?」
「そうですよ、高柳とは彼がキューレーターになる以前からの古い付き合いでしてね。互いに絵が好きと言うだけでなく、何かと気が合う。もう、四半世紀以上の付き合いをして来ました」
「涼太さんに私のこと、どうお聞きになっていらしゃったのでしょう?」
奈央は早瀬の横顔にそう尋ねてみた。
 すると早瀬は、奈央の正面に向き直してまじまじと奈央の顔を見てこういった。
「若くして、なかなかの才覚のある画商だと」
「あら、それは少し、買い被りですわね」奈央は少し戯けた顔をして見せた。
「ただし…」
「ただし?」
「涼太は隠していた」
「えっ、それはどう言う事でしょうか?」奈央は驚いたようにそう言って早瀬を見上げた。
「こんなに美しい人だとはおしえてはくれなかった」早瀬は真面目な顔をして奈央を見つめ返した。
 50代半ば過ぎのその男の顔は年相応に刻まれた皺があるものの、科学者らしい理系の怜悧さと、文系の夢みがちな感性を併せもったような表情をして年齢より少し若く見えた。
「お客様、宜しければ、ご名刺を頂戴できますでしょうか?」
男はふっと微かな笑みを顔に浮かべて
「私は休日には名刺を持ち歩かない主義でしてね、申し訳ないです」と言った。
奈央は肩透かしを食らったような気持ちになって「そうですか…」と言って足元の床に目線を落とした。
「あなたが名前を告げているのに私が名乗らないのは失礼ですね。
私は早瀬省吾と言います。北海道最先端化学技術大学の教授をしています」
早瀬は耳障りの良いバリトンの良く通る声で奈央にそう言った。
二人は短い沈黙の後にまた、壁にかかる松倉冬真の大振り(100号サイズ)の絵の前で肩を並べるようにその絵を眺めた。
「この、画家の経歴を手短かに話してもらえますか」
早瀬は冬真の絵を見つめたまま奈央にそう言った。
「今から十数年ほど前になりましょうか、この地に私どもが画廊を開業した折、若手の気鋭アーティストを育てて行くと言うコンセプトの元に小さなアートコンペティション (competition) を開催致しました。
その第1回目の大賞受賞者が松倉冬真でした。
当時まだ、京都の美大生だった冬真は遠い縁戚関係でもあった、琳派の流れを汲む日本画家の大家、磯村双樹郎を私淑としていながらも、時代の流れに左右されない独自の世界観を持った将来が楽しみな画家です」
「そうでしたか、そう言えば磯村双樹郎の筆使いに何処か似ている気もしますね。磯村の畢生の作【黄牡丹】は何度も実物を見に美術館に足を運びましたよ」
奈央は早瀬の言葉に小さく頷きながら話しを続けた。
「その後の彼の活躍は様々な国内外の美術業界の登竜門コンテスト、新人作家発掘を目的としたコンペティション、ARTIST NEW GATEのグランプリ受賞、と目覚ましいものです。勿論、国内外のアートフェアへの出展を精力的に行いながら、今や実力溢れる若手世代を代表とする画家として注目されています」
「絵の価格は?」
「価格帯は10~50万円あたりが主力で、1000万円を越える作品も当画廊が扱った事がございます」
奈央はそこまで話すとちらりと窓の外に目をやった。
暗闇の中にはいつしか真っ白な雪がまっていた。

画像24
画像17



****   ********   ********   *******

 その雪と同じ雪が冬真(とうしん)の描いた一枚の絵の中にも静かに舞っている。
「川辺の雪」
後に、富裕層のコレクターの間で驚異的な高値が付いた作品だったが、冬真はこの絵をなかなか手放そうとはしなかった。
奈央の再三の説得にも応じず、遂には松井画廊、実質のオーナー、松井康介の説得によって、冬真はひとつの条件を出し、折れた。それは、自分を世に送り出してくれた、奈央とその父親、松井康介の元にこの絵を置くと言う約束でひとまずは一件落着ということになった。
 一時は生涯、日の目を見ることが出来ないかもしれないと思われたこの絵は、こうして多くの観衆の目に触れられるようになったのだ。
それはひとえに、松井康介の「美術は社会貢献の一つとして、より良い作品を多くの大衆と感動を享受し、後世に繋げて行く」と言う強い思いからだった。
降り積む雪の川べりに、唐桟縞の江戸小紋の着物に黒い長羽織を纏った女が川面を見つめてひとり佇んでいる。
 艶やかな黒髪をキリリと引詰めて高く結い上げたその髷(まげ)には美しい鼈甲の簪が挿してあった。その横顔は凛と美しく何かを思い詰めてる風にも見えなくは無いが、寧ろその張り詰めた空気感に女の清しい決意のような心趣が見て取れた。
季節は丁度、今ごろ…如月の候。
 川の淵には一草の緑もなく、辺りは冬枯れて雪は風に舞っている。
けれど、画面右上に僅かに枝を張る一本の梅の小枝には春待つ堅い蕾が二つ、三つと描かれてあった。
 静寂の中から生まれ出る希望と静謐な温もりと、この絵を見るものたちの心が静かに洗われて行くような冬真の秀逸な一枚の絵だった。

「それで、ここにあるのですね」早瀬はぽつりとそういった。
「えぇ、常設展示はしておりませんが、この季節になると、お客様のご要望も多いのでこの一角に展示させてもらっています」
 早瀬は片手に抱えていた厚手のコートを羽織ながら目の前の冬真の絵に向かって意味深な言葉を放った。
「今まで、こんな凛と美しい女性に出会ったことはなかった。黒髪に飾る簪を贈りたいと思えるほどの女性が今時いるとはね…」
それを聞いた奈央はまるで送られた歌に返す連歌のように静かにこう返した。「そんな粋な贈り物なさる男性は今の時代にはそうはいないでしょう」と。

「それじゃ、また、どこかで」
雪の日の夕暮れに早瀬の別れ際の声が奈央の胸の奥底にいつまでも残った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【未発表、概要】

奈央はその後、早瀬省吾にかんざしの贈り物のお礼をする為に連絡を入れるが中々上手く早瀬と連絡が取れず、悪戯に月日が流れた。
その年の秋、父、康介が突然、ヨーロッパ、東欧の旅に出ると言う。
奈央は当然、母、真紀子と一緒の旅とおもうが父は一人旅だと言う。
高齢になって来た父を心配する奈央は仕事絡みで自分もその旅に同行する。
秋のベルギー、ブルージュの旅の最中、旧市街の中心地コーレンマルクト広場で奇しくも学会に出席する為この地を訪れていた早瀬省吾と再会する。広場の東側には鐘楼や繊維ホール、市庁舎など歴史的な建物が並ぶ。この広場の横にレイエ川にかかる聖ミヒエル橋を渡ってくる早瀬と再会した時、奈央はこの世に運命と言うものが本当にあるのかも知れないと思う。二人は美術館を巡り晩秋の霧の中で美しい鐘楼の鐘の響きを聞く。

 11月末ともなれば、寺領内の樹々の隙間から溢れ落ちる陽の光も何処かしら儚げに足元を照らしていた。

 細いパンプスのつま先に舞い落ちて来た赤い紅葉は、この常寂光寺境内を美しく覆い、京都、二大巨頭「東福寺」「永観堂」にも劣らない紅葉の名所として知られている。
いつか新緑の美しさに惹かれ、父、康介と訪ねたことのある懐かしい寺でもあった。

 寺の境内の本堂、多宝塔、仁王門はいずれも創建当時のものとされ、本堂は小早川秀秋によって寄進された伏見城の客殿。仁王門にある仁王像は天才仏師、運慶作と言う説もあった。
 
 散り落ちた紅葉を踏みしめながら、さほど広くも無い境内をひとしきり歩いた奈央はトレンチコートの袖の隙間から覗く時計に目をやった。

「1時30分か」

 東京駅から京都行きの新幹線に飛び乗って、奈央は何も散り行く紅葉を眺めにこの寺を訪れたわけではなかった。

 目的地の途中にある常寂光寺にふらりと立ち寄り、ざわざわと騒めく心を少し落ち着かせたかったのもしれない。冬枯れて行く境内は観光客もまばらで寧ろ、奈央にとってはゆっくりとした時間を過ごせ、気持ちも整っていった。

 落ち葉に敷き詰められた常寂光寺の石の階段を下りると、偶然、客を降ろしたばかりのタクシーに居合せた。

「化野(あだしの)念仏寺辺りまで」

 奈央は運転手に行き先を告げると柔らかな座席シートに身を預けた。

 冷たい風の中を歩き回った身体に車内の空調の暖かさが心地良かった。

「紅葉も終わりね」奈央が車窓に流れる景色を眺めながらぽつりとそう呟く。

「お客さん、観光で?」初老の運転手はだみ声の関西弁で応えた。

「いえ、人を訪ねて…」

「そうですかぁ、今年の紅葉はどこも見事で観光客も街に溢れて、よう賑わってますわ。そやけどな、これからの冬の京都もよろしい。食べもんも酒もいい」

 奈央は相槌を打ちながらも、それより、数週間前、父、康介と訪ねたヨーロッパの旅をぼんやりと思い出していた。

スペイン、イタリア、ドイツ、そして中欧を巡る美しい旅。その、旅の最終に訪れたベルギー、ブルージュで見たあの美しい紅葉と鐘楼の響き…。

 異国のその街の紅葉をまさか、早瀬省吾と共に見ることが出来るなんて夢にも思いもしなかった。あんな偶然が自分の人生の中に散りばめられていることの不思議を奈央はあの時ほど感じたことはなかった。

 車は化野(あだしの)念仏寺近くの町家民家が並ぶ路地裏で奈央を降ろし、細い裏道をくねるように消えて行った。

 長く続く多門塀の白壁に午後の陽射しが頼りなさげに落ちている。

その白壁の塀の向こう側には真っ直ぐに伸びた竹林が晩秋の風にしなりながら揺れていた。奈央はその白壁を右手に見ながら少し歩くと造りの大きな家々が立ち並ぶ場所を見上げた。その一角にこれから訪ねようとしている人の邸宅があったのだ。

 父、康介の旧知の仲でもあり、また、奈央が絵の世界へ飛び込んだ時の師、そして恩人でもある美術史家の細川武彦。


この夏、その細川の細君、佐保子から奈央の所に一通の葉書が届いた。

「主人がこの春から体調が優れず、何かと皆さまに不義理を重ねております」

その、末尾に書かれたほんの短い挨拶文が奈央の心を一瞬に不安に駆り立てた。

父、康介にもその事は伝わっていたのか何度か細川の居る京都に足を運んでいたようだった。

「一度、奈央も細川のところに見舞いに訪ねてはくれないか」父の度々の催促も多忙な奈央には叶わず、いよいよ、心は塞ぎ重い気持ちで細川武彦を今日、訪ねることにしたのだった。

【霧の中の鐘楼】 
(晩秋 別離より抜粋)

 
 

古くから、細川の家に仕えているお貞と言う70絡みの手伝い人に案内されて奈央は長い廊下の突き当たりにある和室に通された。

 微かに香の焚きしめられたその部屋の床の間には仙厓 義梵の一円相画賛「これ食うて茶まひれ」の一幅のお軸が掛けられていた。筆のかすれも気にとめず、いびつな形に描かれた円相。禅宗では、円相は悟りの境地や宇宙観を表す大切な図様である。しかし仙厓はそれを餅に見立て、そんなものは茶菓子にして食べてしまいなさいと言うのである。
 
 奈央が慣れない画商として、また、経営者として、苦境に立たされた折々に父に連れられ、時に一人で、この京都に在る細川の邸宅を訪ねた。

 細川は決まってこのお軸を床の間に掛けてくれ、柔和な顔で奈央を迎え入れてくれた。

「なんのことはない。肩の力を抜いて、あるがままに生きたらよろしい」

その、細川の何気ない言葉に何度、奈央は救われて来ただろう。

その細川が今、病に臥している。

奈央はどんな言葉をかけて差し上げれば良いのか…言葉を探していた。

 ふと、目を逸らすと、僅かに開かれた障子の隙間から晩秋の陽射しの落ちる侘びた庭が見えた。

 苔むすその庭の隅には、小さなししおどしが設えてあり、微かな水音がしっとりとした空間を作り出している。

 葉を落としてしまった一本の紅葉が午後の陽を浴びて白い障子に影絵のように映し出されていた。風が吹くたびに残り葉がチリチリと揺れ動き、静まれば、その葉も止まる。
この葉もいずれ枝から離れてこの小さな庭の土に還っていくのだろう。
悠久の時の流れで万物はこうして生と死を繰り返していく。

 風に吹かれる紅葉のように何かの作用に反応しながらこの自然の中で人も誰かの魂と触れ合いながら短い人生を生きていくのだ。

奈央は畳に伸びた午後の陽だまりに包まれながらそんな事をしみじみ考えていた。

「遠いところ、ようおいでなさいまして…」手伝い人のお貞が温かな薄茶をテーブルの上にそっと置いた。
「お久しぶりどしたなぁ、お元気そうで。もう、直に旦那さん見えはりますさかいに…どうぞ」

「お貞さんも、相変わらずお元気そうで。はい」奈央も馴染みのあるお貞に笑顔で挨拶を交わした。

お貞と入れ替わるように妻の佐保子と一緒に細川が結城紬の羽織姿で部屋に入って来た。
思ったより病人特有のやつれは少なく、やや以前の体躯より細っそりと痩せたように見受けられた。

「おじさま、ご無沙汰ばかりで、、申し訳ありませんでした。
今日はお見舞いも兼ねて拝顔にあがりました」

「ほんまに、ひさしぶりやったなぁ。忙しいのは仕事がうまく行ってる証拠。
お父さんにも奈央ちゃんの活躍ぶりはしょっちゅう聞いてるで」

「ありがとうございます。先日は松倉冬真の最新作を購入して頂きまして、ありがとうございました」

「冬真の活躍も奈央ちゃんの審美眼の賜物やったな」
「その節は、細川のおじさまにも色々ご助言を頂きまして、、ありがたく存じます」

取り止めのない話しと今や飛ぶ鳥も落とさぬ新進気鋭の日本画家、松倉冬真の話に花を咲かせて、奈央は小一時間ばかりで細川の家を後にした。

 痩せた身体で佐保子と二人して玄関先まで見送ってくれた細川は別れ際、奈央をそっと自分に引き寄せて耳元でこう言った。

「仙崖のお軸数本は奈央ちゃんに形見やで。
仙崖が弟子に末期に言うた言葉を奈央ちゃん知っとるか…」

奈央は胸がいっぱいになって言葉が継げずに、ただ、頷いた。

「私はまだまだ、玲瓏透徹(れいろうとうてつ)な気持ちに到達するには修行が足らなんだ、だからな、死にとうない。ほんまに、ほんまに、死にとうない」細川は茶目っ気たっぷりにそう言って笑った。

禅僧、仙崖和尚が愛弟子たちに末期に残した言葉をそっくり真似て細川は奈央にもその言葉を遺したのだ。

黒塗りのタクシーが玄関先に横付けになると奈央は深々と頭を下げ、タクシーに乗り込んだ。

細川武彦の訃報が奈央の元に届いたのはそれから二ヶ月も経たない一月半ばの寒い夕暮れだった。享年77 高潔に生きた人だった。

奈央はタクシーの中でひとしきり声を殺して泣いた。

トレンチコートのポケットの中で携帯の着信音がしきりに鳴り響いている。

「もしもし、奈央…どうした?泣いているのか?」電話の相手は早瀬省吾だった。
「大丈夫です…理由(わけ)は後で。今、タクシーの中なの」
「京都に来ているの?」「えぇ…」
「私も京都にいる。奈央…会いたい。君にとても、会いたいんだ」

奈央は返事もせずにただ何度も頷きながら涙を拭いていた。


侘びた山門をくぐると冬枯れた洛北、八瀬の蓮華寺の庭は濃厚な静寂の中にあった。
葉を落としてしまった高い木々の枝の隙間から初冬の柔らかな光が庭の面に静かに溢れ落ちている。

 寛文年間、石川丈山作によって作庭されたこの寺は池泉廻遊式庭園の形式を今に留め、水際を染める色鮮やかな紅葉を書院からも眺める事ができた。

 12月ともなれば流石に紅葉の見頃も過ぎていたが早瀬は書院の冷たい板間の上で裸木になった木々の向こうの空をまんじりともせずに見上げていた。

空は青く澄み渡り、肌を刺すような冷たい風が書院の中まで吹いてくる。

早瀬はコートの襟を立て、ちらりと腕の時計に目をやった。

「紅葉には少し遅過ぎましたね」

聞き覚えのあるその声に早瀬ははっと後ろを振り向むくと、そこには黒髪をキリリと結い上げた着物姿の奈央がいつの間にか膝を折って座っていた。

「いつから?」
「1時間ほど前から」
「嘘…!」
「嘘です」奈央はそう言って悪戯っぽく笑った。

紺青の絵絣の着物に白地に洒落た色使いの唐花の織り名古屋帯を締めたモダンな合わせは奈央の色白の顔をいっそう際立たせている。艶やかさと言うより、しっとりと成熟した女の美しい姿がそこにあった。

「何も無くなってしまった庭を随分と眺めていらしたけど…」

「何も無い自然の風靡もまた、いいものだよ」早瀬はそう言ってゆっくりと立ち上がると奈央の隣に静かに座り直した。

 目の前に広がる池の端に僅かに散り残った楓が赤い葉を揺らしている。その枝から枝を2羽のジョウビタキが楽しげに飛び交っていた。

ー                            ー

 細川邸を訪ねてたあの日の夜に、奈央は京都駅ビル内にある蕎麦屋でひと月ぶりに早瀬省吾に会った。

 泣いた後の少し疲れた顔に、出汁を含んだ蕎麦の湯気がふんわりと温かった。

 人はどんなに悲しみや苦しみが襲って来ても、身体は正直に空腹を満たそうとするものらしい。脂の乗った鴨南蛮蕎麦は瞬く間に奈央の腹の中に収まり、その食べっぷりを早瀬に笑われると奈央の気持ちも幾分か柔んで笑顔になれた。

「奈央…ゆっくりは出来ないのか」名残惜しそうにそう言った早瀬は手元の蕎麦には殆ど手を付けてはいない。

「えぇ…すみません。先生が京都にいらしているとは知らなかったものですから。今夜のうちにどうしても東京へ帰らなければならないのです」

「そうか、相変わらず忙しくしているのだな」早瀬はそれ以上奈央を引き止める言葉は言わなかった。

ただ…

別れ際、奈央の冷たい頬に触れた早瀬のその手の温もりは未練のように奈央の心をも掻き乱した。

東京で早々に仕事を片付けた奈央は翌日、六本木にあるオフィスから早瀬に電話をいれた。

「先生、いつまでそちらに?」
「今日、明日は仕事で時間が取れないけど、明後日ならまだ、京都にいる」

奈央が待ち合わせの場所を八瀬、蓮華寺に決めたのはその日の夕暮れのことだった。

ー饗宴 恋についてー
 
 

都会の喧騒を離れた蓮華寺は静謐という言葉がよく似合う。

 日頃は仕事に追われ、国内外を刹那的に忙しく飛び回っている奈央には寺領内に聴こえる鳥の囀りや木々のざわめきが鈍化していく五感を呼び覚ましてくれるようだった。

 そして、そんな日々は奈央ばかりでは無く早瀬省吾にも言えることだった。

研究室、学会、講演と時間に追われるように仕事をこなし、加えて、妻の佐恵子の病も心に重く係っていた。

そんな二人が紅葉も過ぎたこの寺で比叡颪(おろし)の冷たい風に身を晒し、誰にも合わず、言葉少なに庭の池を眺めていることが妙に不思議な気がした。

 池の上に組まれた神仙思想の原型たる古代中国の山、蓬莱山を露わした石碑は麒麟と言う霊獣と亀が合一した姿を表し、二つ目の石、鶴石と亀島(三つ目の石)この二つとで蓬莱山の瑞祥を構成している。池の中にある四つ目の石、舟石は鶴と亀とが暗示する理想郷たる浄土へと向かうさまを表しているらしい。

「いずれ、一人ゆく浄土へ渡る舟か」

奈央の拙い説明を聞きながら早瀬がぽつりとそう言った。

渡る舟…

奈央はふと、遠い古にこの丹後国(現在の京都府宮津市)を流れる由良川で詠まれた歌を思い出していた。

由良の門(と)を 渡る舟人(ふなびと) かぢをたえ

ゆくへも知らぬ 恋(こひ)の道かな

曽禰好忠(46番) 『新古今集』恋・1071

櫂を失くして、いく先も分からず漂って行く舟、そしてそれと同じように自分の恋の行方も分からぬまま…。歌はそう、解釈している。

 奈央は今、早瀬省吾と言う妻子あるひとりの男を愛そうとしているのか。

 行く先も見えぬ、分からぬままの恋ならいっそこのままその流れに身を任せてみるのもいい。いつか浄土へと向かう舟に乗るのはたった、ひとりっきり。

ならば、今世で生きる一瞬の時を愛する誰かと共に生きたい。しかし、それは自分本意な思いであることも奈央は痛いほどにわかっていた。早瀬を愛すると言う事は自分の投げた想いが大きな波紋を広げ、誰かの舟をも激しく揺らしかねないと言う事だ。

そんな愚にもつかぬことを思いつつ、奈央は早瀬と共に蓮華寺を後にした。

 車窓から流れゆく景色を眺めながら奈央はさっきから無言のままだった。

早瀬はホテルから手配したレンタカーでこのまま奈良へ向かうと言う。

 

カーラジオから流れて来たのは渋いだみ声とピアノが印象的な

クリス.レアの driving home for christmasの名曲だった。

https://youtu.be/CSY0VlmX2GU

「さっきから黙りこんでいるけど、少し、強引過ぎたかな?」

軽快なクリスマスsongと裏腹に一言も言葉を発しない奈央に、早瀬は前を向いたままそう尋ねた。

「奈良に行くことがですか?」

「あぁ、気が進まなかったら引き戻しても構わないよ」

「…いえ、寧ろ、私の方が先生をお誘いしたようなものですから。それに、ここのところ、仕事漬けの毎日でしたし…。私のことより、先生の方こそ…」

早瀬は小さく頷いた後に「大丈夫」と一言だけ言った。

 奈央の膝の上に置かれた左手の中指には黒い天然のオニキスの指輪が嵌めてあった。

その指輪がくるりと回るほどに、ここのところの奈央の忙しさは尋常ではなかったのだ。

「奈良の斑鳩辺りを訪ねて見ようと思う。宿はホテルから予約を取った」早瀬の周到さが妙におかしくなって奈央が「ふふっ」と笑い声をあげると早瀬がカーラジオのタッチパネルを押しながら「何?」と音量を下げた時だった。

 ラジオのパーソナリティの明るい声が急にトーンダウンして、女優の城島綾子の訃報を報せた。

「女優の城島綾子さん、48歳が今朝、お亡くなりになりました。死因は子宮がんでした…城島さんは…」

 ラジオのパーソナリティの声は、まだ若い日本の演技派女優の死を心から惜しんでいるようだった。そして、次々に彼女の映画やTVの出演作品の名を挙げながら映画史に残る名作と言われた「追憶」の作品にも使われた音楽を追悼曲として流し始めた。

 城島綾子はここ数年、闘病生活にあって、確かこの夏、復帰第一弾の映画出演にかけて頑張っていたはずだがその完成も観ずして病に倒れたと言うことか。

 今から20年ほど前、城島綾子が日本の映画界に彗星の如く現れ、映画史に残るほどの大作にいきなり主演でデビュー、そして、数々の賞を総なめにした頃、奈央は大学を卒業したばかりの化粧品会社の新米OLだった。

丁度、その頃、幼馴染の涼子は料理人修行でイタリアに渡っていた恋人、川上健大の後を追い、日本とイタリアを頻繁に行き来していた。奈央も涼子もこの城島綾子の大ファンだったのだ。

その城島綾子が48歳と言う若さでこの世を去った。人生は瞬く間だ。

 大学をでたてのふたりは将来の夢や、仕事、恋愛についても城島綾子の一挙手一投足に影響されながら松濤の自宅や街角のカフェテラス、時には涼子の父が持つ八ヶ岳の別荘などで夜通しお喋りに興じていた。

 幼馴染で同じ時を生きて来たのに、恋愛経験の少なかった奈央に対して、数々の恋愛遍歴を経て涼子には既に健大と言う恋人がいた。そして、その恋人とイタリアで半ば同棲のように暮らしていた涼子は遥かに奈央より大人びた雰囲気を纏っていたのだった。

19歳の夏、旅先で出会った旅人、岸田隼人と、アバンチュールのような夜を過ごしてロストバージンした奈央は、その後、暫く大学の同級生の男子とさえ距離を置き、恋愛に無関心を装った。

それは、自分に対するある種の潔癖性なのか、、それとも少女が女へ変換していく時の戸惑いだたのか、、笑い話にもならない稚拙な感情は今となっては愛おしささえ覚える。そして、それは稚拙な感情と一笑してしまうものではなく、自分という人間を知る上でとても大切な感情の軌跡だったと今なら言える。

丁度、今頃の初冬の時季だった。

 イタリアから年末年始を日本で過ごす為に帰国していた涼子に招かれて八ヶ岳の別荘に健大と三人で数日、滞在したことがあった。

クリスマスも近い時期、日本食の美味しい料理に舌鼓を打ちワイン好きな健大は薪ストーブのまえで既に酔い潰れて寝息を立ていた。

イタリア料理を修行中の健大が、少し趣向の違う和食に腕を振るうというので買い出しから下拵え、調理と一人でこなし、すっかり疲れ果てしまったのだろう。

いつもは健大同様、ワインに目がない涼子は、珍しくグラスの中に日本酒が注がれてあった。

銘柄は山梨で作られている【吟醸酒 七賢】スッキリと爽やかな口あたりの良い酒である。

「和食にはやっぱり日本酒よね」涼子はそう、言いてはみるがその酒にも料理にさえも殆ど口をつけてはいなかった。

「涼子、体調でも悪いの?」奈央がさりげなく尋ねると涼子が思いもかけない言葉を放った。

「私、お腹に赤ちゃんがいるの…」

「えっ!…赤ちゃん?」奈央が大きな瞳をさらに大きくしてそう言うと、

「そう…。まだ、三ヶ月目に入ったばかりみたいよ」

「みたいよ、って、他人事みたいに!おめでとう!勿論、産むんでしょ?」

涼子はストーブの前のソファーで寝息を立てている健大をチラリとみると、溜息混じりの声で「そうね…そうして良いのか、少し、ううん、とても迷っているの」

「どうして?健大さんを愛してはいないの?」奈央は声を顰めて涼子に詰め寄った。



フロントガラスを細い雨が叩き始めていた。

車はスピードを緩めながら奈良、生駒郡斑鳩の町中へと入っていく。

「日頃の行いの悪さかな」

 早瀬はそう苦笑いしながらコンビニで揃えた透明傘の一本を奈央に差し掛けた。

 法隆寺、法起寺、史跡藤ノ木古墳、中宮寺と予定されていた旅のコースは雨と奈央の身体を気遣い、法隆寺と中宮寺、この二つのみを拝観することにした。

 目の前に広がる国宝、南大門の入り口を目掛けて歩き始めた早瀬の肩先が雨に濡れている。

その広い背中を追いながら、奈央は正面に見えて来た中門と五重の塔を見上げた。

 中門の脇の回廊を通って西院伽藍を見る前に、門の左右の入り口にある仁王像、金剛力士像を二人は身体を反らしながら見上げた。圧巻だった。八メートルを超える日本最古のこの像は、鎌倉時代を代表とする天才仏師、運慶と快慶 そしてその弟子たち、20名を率いて築くたものらしい。

 その始まりを飛鳥時代にもつ、法隆寺・法起寺をはじめとする多くの 社寺は、斑鳩の町で豊富な歴史的・文化的資源として自然 環境と一体となり1400余年の長い月日、この斑鳩の町で民人とともに営みを続けてきたのだ。

 法隆寺南大門から、歩いても直ぐの所にある中宮寺の門を潜る頃には、雨は本降りになっていた。

ほほ笑みの御寺」と呼ばれるこの寺には、国宝 菩薩半跏像(伝如意輪観音)半跏思惟の像がある。早瀬は何度か観たことがあると言うこの像は、飛鳥時代の最高傑作のひとつであると同時に、わが国美術史上、欠かすことの出来ない存在だと言う。

 その微笑みの像の前で二人は身じろぎもせずに佇んでいた。

 この像の顔の美しさは「世界の三つの微笑像」とも呼ばれており、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」と呼ばれている。

 ふくよかな指先をほのかに頬にふれ、人の悩みをいかにせんかと思惟される清らかな気品をたたえている。斑鳩の里に伝統1300余年の法燈を継ぐ中宮寺のこの像は、その御本尊として静かなほほ笑みで鎮座していた。

ー                              ー

「愛してるわ。愛しているけど、健大の命から流れ出るものをお腹の中に宿し、その命がこの世に生まれ出てくるのよ。その決断は男より女の方が重く、そして強い勇気がいる」涼子は黒く濡れた瞳を奈央に真っ直ぐに向けて、あの時、そう言った。

 小さな命を腹に宿した涼子の女から母になろとする強さなのか、恋にも愛にも未熟な自分に何が言えると言うのだろう。奈央は次の言葉が継げなかった事を思い出す。

   人の悩みをいかにせんかと…。

 涼子は悩み悩んだ末に、半月後、その腹の子を東京の大きな病院で堕胎した。

そう決断した、涼子の心内を奈央は知るよしもなかった。

 奈央には何をどうする力もなかった。

ただ、奈央は、涼子のお腹の小さな命がこの世に誕生出来なかったことが堪らなく不憫で胸が痛かった。

その母親である涼子の気持ちはどんなに辛く哀しかっただろうと思う。

その後、涼子は、療養と言う理由を付けて、健大の元には戻らず日本に留まった。

ー                              ー

雨に煙る中宮寺を後にして、冷えた身体を車のシートに預けた時だった。

早瀬の冷たい唇が奈央の柔らかな唇を塞いだ。
優しく唇を吸いながら二度、三度、離してはまた唇を合わせた。

奈央の顔をまじまじと見つめた早瀬は、熱い吐息を吐きながら「奈央…」と耳元で優しく名を呼んだ。

奈央は窮屈な帯の間に手を入れてふっと息を吐く。その唇を早瀬は今度は荒々しく吸いながら奈央の舌に自分の舌を強く絡めてきた。

奈央は一瞬、躊躇いがちな自分の 舌をやがて早瀬の熱い舌先に激しく絡めていった。

フロントガラスを叩く雨音が、まるで誰かに叱られているよに激しく耳に聞こえてくる…

****   ********   ********   *******

ー饗宴 恋についてー

 夜半から降り出した雨がまだ明けやらぬ街を濡らし始めている。
この冷たい雨が霙に変われば直に、この札幌の街にも雪の季節がやってくるだろう。

机に向かい読みかけの論文に目を通しながら早瀬は、雨の音を聞いていた。

 隣室で眠っている妻、佐恵子は静かな寝息を立てている。

 近頃では鬱の症状も安定しているとは言え、家事や早瀬の身の回りのことは殆ど出来ず、月の半分以上は娘、千景の家に世話になっていることが多かった。

小さなため息とカレンダーを捲る音

 厚い革表紙の論文をそっと閉じた後、早瀬は淹れたての紅茶を一杯ゆっくりと飲みほした。

冷たい雨は絶え間なく庭の面を打ちながら静かに記憶を呼び覚ましていく。

 仄暗い闇の中で引き寄せられた花の香は冬の匂いがした。

冷たい雨に追われるように宿にたどり着いた時、庭石に溢れ落ちていた白い柊の花。

 濡れた足元から立ち匂うようにその花は、芳しく、辺りを包んでいた。

 その花びらのように白い奈央の乳房に熱い唇を這わせながら早瀬は旅の夜、奈央を抱いた。

 奈央の黒髪に留めた鼈甲のかんざしが薄明かりの中でキラキラと搖れる度、螺鈿細工の花や小鳥の紋様が闇の中で万華鏡のように色を変えた。

 雪の舞うあの如月の月、一枚の絵画の中に描かれた美しい女。

その女と見紛うばかりに良く似た奈央に出会い早瀬は一瞬で心惹かれていった。

女の黒髪に留めてあった鼈甲のかんざし。そのかんざしが引き寄せた不思議な縁の力を早瀬は強く感じずには入られなかった。

「先生、運命の人…っていると思います?」

闇の中に白い裸体(からだ)を横たえた奈央がぽつりとそう言った。

「意外だな」

早瀬は上を向いたままそう答えた。

「どうして、私らしくない質問?」

早瀬は何も応えず暫く黙っていたが、
「奈央はそう言うこと、信じているのか」と言った。

今度は奈央が黙ったまま何も答えなかった。

「奈央…?」

 早瀬は奈央の名を小さくそう呼ぶとそっと身体を抱き寄せて唇に熱く接吻(キス)をした。

 画家、ムンクの描く代表的な《接吻》は『愛とは個人の喪失である』という旨の解説がされている。

「つまりそれはどう言うこと?」

栗色の巻き髪をかきあげて奈央が涼子にそう聞いた。

「ムンクの接吻は愛し合う二人の境界が溶け合う様を表しているのだと思う。
人が人を愛すると言うことは、どちらのものともつかない幸せを共有するってことかもね」
 幼馴染の涼子は分厚い哲学書の上に頬杖をつきながら聞き齧りの恋愛論を熱くそう、奈央に語った。

 当時の涼子は大学院でフランス文学を専攻しているような文学少女だった。自他ともに恋多き女を認める涼子は既に健大と言う恋人がいたが大学の同級生の中にも親しげな友人が数人いるようだった。

 色んな相手と恋をして様々な恋愛論を読み砕き当時の涼子はそれを誰かに話すことで自分の恋愛を肯定的な選択肢として自身の中に受け入れていたのかもしれない。

「男と女は何故惹かれあうのか、愛とは何か…」

古代ギリシャの哲学者プラトンが、ソクラテスを含む複数名に語らせる演説集、「饗宴」

ソクラテスが演説者に様々な質問を投げかけ、論点を整理することで、愛の本質に迫っていく様子は圧巻だ。
その「饗宴」の中から引用しながら涼子はいつものように大学近くのカフェテリアで奈央に熱く語ってくれたことを思い出す。

「恋をすると、この人は運命の人、なんて言うけどそんな人、この世の中に本当に居ると思う?」涼子はいつになく真面目な顔をして奈央にそう問いかけた。
奈央は答えられないでいた。

『饗宴 』のアリストパネスの演説では、二体一身についてこう述べられている。

「原始、人間は男と女と男女(両性具有)の三種がいて、それぞれ男男、女女、男女が背中合わせに二体一身の状態だったわけだが、愚かにも神々に挑んだ為にゼウス(全知全能の神)によって片割れを切り離されてしまい、今の我々の姿になった。
だから我々は半身の片割れを求めるようになり、男らしい男は男を、女らしい女は女を、中途半端な多くの人間は異性を求めるようになった。この全体性への欲求と追求をあらわす言葉こそ「エロス」である。もし人間が恋を成就し、それぞれが自分自身の真実の恋人に出会って、太古の人間性を回復するなら、人類は幸福になることができる…」と。

 本書「饗宴」の中でも、最も広く知られたエピソードで、「なぜ男女は惹かれあうのか、なぜ同性愛があるのか」を同時に説明している。

「そして、この片割れを探し求め、巡り会う人こそ運命の人なのかもしれない…」

遠い記憶の中で涼子はそう言って、腕組みをしながら独りごちた。

しとどに降る雨は止みしんと底冷えのする夜だった。

 奈央は早瀬の首に腕を回したまま「私たちは今、二体一身ね?」そう言ってふふと笑った。

「奈央はロマンチストだな…」早瀬も小さく笑った後、「奈央は僕のスピンだよ」耳元でそう囁いた。

「スピン?」

「そう、私は科学の中で生きている人間だ。運命とか神話とか信じない。量子力学的に言えば、互いに共振し合える相手ってことだよ」

奈央は小さく頷くと瞼を閉じ静かな寝息を立て始めていた。

※ 『饗宴』は、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストパネス、アガトン、ソクラテスの6人が、ギリシア神話のエロス神を称えるという形で進んでいく。テーマは「恋 エロス」


 年が明け、暦の上では大寒も過ぎた頃だった。

奈央の恩人でもある美術史家、細川武彦の訃報が届いた。

 数年振りに日本列島は厳しい寒波に覆われ、東京にも積雪注意報が出るほど激しく雪が舞う夕暮れだった。

取るものも取り敢えず、奈央はひと足先に京都に向かった父、康介の後を追った。

 白と黒との高麗縁の畳の上に静かに手をつき、喪主、佐保子に奈央は悔やみの言葉を告げると永遠の眠りについた細川武彦の死に顔に目を落とした。

その顔は病の苦しみから解き放たれたような安らかな寝顔だった。

 直に、寺の御堂に静かに読経が流れ始めると雪はいっそう激しさを増し、失った者への寂寞の思いが沸々と奈央の胸を締め付けた。

隣に座る父、康介も身じろぎもせずに目を閉じている。
長年来の友人であった細川武彦への思いを慮ると尚更に、奈央は流れる涙を止めることが出来ずにいた。

 これからも、こうして自分に関わってくれた幾人もの人々の旅立ちを見送るのだろう。 

それは年を重ねれば重ねるほどに身に堪え、自分の人生の生きる意味を改めて思わせる儀式でもあるのだ。

 御堂の外に目をやれば薄墨の空からあてどなく白い雪が舞い落ちてくる。

 御堂の屋根も庭の灯籠も辻々の低い家並みも皆々、雪に覆われて白と黒との静寂がにそこにあった。

思えば素よりこの世とは、こうして色のない世界で出来ていて、虚しく、恒常的で実体がなく、、、色即是空とはこういう事なのか…。

いや、、、それは一つの観念的な思いであって、生きていく上で出会う人々に手を引かれ花を見、野山を駆け、共に誰かと色鮮やかに人生を彩っていく事こそ、この世に生きる価値というものだ。
 また、そうあらねばこの世に一時の命をもらった意味もない。せめてこの闇の中で自分のいる場所だけでも「一燈照隅 」灯りを照らしていればこの一燈が「萬燈遍照」幾つもの灯りと重なり合ってこの世を明るく照らし続けられるのだ。

奈央は祭壇に揺らぐ蝋燭の炎を見つめながらそんな事を考えていた。

 粛々と細川武彦の葬儀は執り行われ、天候の悪さにも関わらず故人の人柄が偲ばれる参列者の長い列が続いた。

 康介と帰りのハイヤーを待つ間、奈央は御堂の階段に腰をおろし降る雪をぼんやり眺めている時だった。

「奈央さん、奈央お嬢さん」

 聞き覚えのあるその声に奈央が振り向くと、喪服の上に白い割烹着姿の小柄なお貞が黒い蝙蝠傘を脇に抱えて立っていた。

「お貞さん、この度は、、」奈央がお貞に近寄ってその手を取るとお貞はみるみる涙ぐみ、何度も頷くような素振りで奈央の手を握り返した。

「足元の悪いところ、今日は、ほんまによう来てくれはりましたなぁ。細川の旦那さまもどんなにかお喜びでしゃろ。あぁ、、松井さまも…ほんまに、おおきにどした」お貞は康介にも深々と頭を下げ「傘をお持ちしましたよって、寺の入り口まで送らさして頂きます。どうぞ、この傘を使っておくれやす」と2本の傘を差し出した。

「ありがとう、お貞さん、使わせてもらうよ」康介はそう言ってお貞から黒い蝙蝠傘を受け取ると雪の空にパーンと勢いよくその傘を開いた。

それはまるで康介が、盟友細川武彦との未練の舫を断ち切るような音にも奈央には聞こえた。

 御堂からハイヤーの待つ寺の入り口まで、僅かな道のりしか無かったが、黒い蝙蝠傘の上に雪はみるみる白く降り積っていく。

奈央はその父、康介の後ろ姿にあるひとつの疑問の言葉を投げかけたくて康介の後を追った。

お貞に短く労いの言葉をかけると、奈央は康介の待つハイヤーの後部座席に素早く滑り込んだ。

 雪はいっそう強く降りしきり、ドアの閉まる音と同時に遠のいて行くお貞の影はみるみると掻き消されて行った。


「四条辺りまでやってくれ」

康介は運転手に行き先を告げると座席深く身を沈めて目を閉じた。

 昨秋、2週間ばかり康介に同行して、ヨーロッパを巡る旅をした時より幾分か、頬の辺りの肉が落ち、細っそりとしたように奈央には見うけられた。

「ママはどうして来なかったの?」奈央はいきなり康介のその横顔に言葉を投げかけた。

 細川の生前、夫妻とも親交の深かった康介と母、真紀子は、細川の邸宅を訪ねる時は常に行動を共にしていた。時には四人で国内外の旅に出たりもする家族ぐるみの親しい仲でもあったのだ。
なのに、細川の葬儀に母、真紀子が姿を見せない。そのことが奈央には妙に違和感を感じていたのだった。

「少し、疲れた。奈央はこのまま東京に帰るのか?」

康介は、奈央の問いかけには応えず、目を閉じたままそう言った。

「えぇ、そのつもりだけど…。パパはこれからどうするの?京都に残るの?」

「先程、丸山の「福松」に宿は取った。ゆっくりしたければ奈央もそうしたらいい」
 
 「福松」は昔から松井家と馴染みのある老舗旅館で奈央も京都に来るたびに常宿として利用していた。

「それはいいけど…」奈央は康介の少し疲れた横顔をチラリと見てそう言った。

「京鰆のいいのが入ったらしい。旨い酒をゆっくり飲みたい」康介は母、真紀子の話を敢えて遠ざけている。奈央の胸に微かな不安が過った。

 今まで、父、康介が真紀子と諍いを起こしたり、会話の外に弾いて置き去りにしたことなど殆ど記憶に無かった。いや、そう言う素振りを何方かが見せる場面があったとしても、互いを思いやる両親の姿に取るに足らない出来事として奈央は受け止めて来たのかも知れない。しかし、今の康介の態度は明らかに母、真紀子の存在を無視して奈央と二人だけの会話に終始したい様子だった。

 奈央の胸の中に妙な不快感とその理由を知りたい思いが交差している。

奈央は手にした携帯のネットニュースを繰りながら康介の顔を見ずに静かな声で言った。
「ママと何かあったの?」

 康介は降り止まぬ窓の外の雪をただ、黙って見ている。

 車は四条通りに入ると、大きく右に折れ、四条大橋を渡り、雪の綿帽子を被った八坂神宮の屋根を遠くに見ながら細い路地をくねって行く。

「奈央…」不意に康介が口を開いた。

「何…?」

「パパはママと離婚れることになった」

「……それって…どう言うこと?」

奈央は、康介のあまりにも唐突な告白にその言葉の意味を咄嗟に理解できずにいた。

「詳しい話しは宿に着いてからにしよう」康介は重い口をようやく開いた後にしてもまだ、その話を迂闊に口にしたくない様子で窓の外に目をやり、ぽつり呟いた。

「それにしても細川らしいなぁ…」

「こんな雪の日に…って事?」奈央も窓の外をぼんやり眺めてそう言った。

「あぁ…こんな大雪の日に逝ってしまうんだなぁ。終焉の美学だよ」

 その横顔は自分の人生に関わった大切な人物を二人をも失ってしまうと言う埋めようもない寂しさがひしひしと滲んでいた。

 思えば奈央は、大学を卒業してから間もなくして家を出て、一人暮らしを始めた。あれから二十年近くもの間、両親がどのような夫婦関係を築いて居たのかよく知らない。昔から仲の良い両親だったし、離婚に至る何ら問題も生じて居なかったように思える。増して、父、康介は70に近い初老だ。

 真紀子にしても、同じようなもので、、今更、親の熟年離婚などと奈央は夢にも思っていなかった。その事で、取り乱す年ではないものの奈央はさっきから少しも考えが纏まらずにいた。

やがて車は、雪に覆われた八坂の杜の奥にある宿へと静かに滑り込んで行った
かつての公家屋敷跡に建つ「福松」は鴨川に近い閑静な場所にあった。

 主屋と土蔵は国の登録指定文化財に指定され敷地内の随所に古都の歴史と風情を生かした老舗旅館だ。

 数年ぶりに大雪にみまわれたこの日、それも久しぶりの父娘の訪問に「福松」の女将、沢村荇子(こうこ)は相好を崩して二人を迎え入れてくれた。

 荇子の祖母、先々代の女将お松は祇園甲部の売れっ子芸妓、松月と言う名で名を馳せ、とある関東地方の資産家、沢村高之に後ろ盾を得て直に花柳界から足を洗った。

※ 祇園甲部は、京都市東山区にある京都で最大の花街のこと

 当初は八坂の門前辺りで小さな割烹旅館を開いていたが、現在の屋敷跡が売りに出され、潤沢な資産のあった沢村がお松の為に買取り、此処に屋号を「福松」と改め宿を開いたと聞く。

 その娘に当たる荇子の母、妙は一人娘で証券会社勤めの気質の男と結婚したが早くに死に別れ、残された母娘は大きなこの旅館に心血を注いで生きて来たのだ。
 
 何度かの見合いの後に荇子は、父親と同じ金融関係の職に就ていた晴治を養子に向かえ入れたが晴治は人の出入りの激しい旅館の水が合わず、他に女を作り偶に帰るだけの存在に居るらしい。

 奈央がまだ娘の頃、この「福松」を訪れる度に色白で涼やかな目をした美しい荇子に一種の憧れと微かな同情心を持ち、慕っていた事を思い出す。

 あの頃と少しも変わらぬ長い廊下は飴色によく磨かれ、やや軋みを立てながらその突き当たりまで行くと父娘は離れの部屋に通された。

 そこは昔から松井の家が良く利用した二間続きの和洋折中の部屋で襖一枚隔てた奥の部屋からは朱色の八坂の塔が僅かに見えた。

 雪見障子から見える庭の石灯籠には明かりが灯されテーブルの上の「お着き菓子」は烏丸御池にある「菓子処 亀末廣」の求肥と干菓子が菓子皿の上に形よく盛ってあった。

「こんなに大雪の降る京都も珍しおすえ。折角ならゆるりと長居なさったらよろしおす」

 四十絡みの顔見知りの中居は熱い茶を淹れながら柔かな笑顔でそう言うと、段取り良く夕食の時間や風呂の案内などをすませた。

 康介はその茶を啜ると「奈央、私は少し横になるよ」そう言ってそそくさと奥の部屋のベッドに潜り込んでしまった。

 食事の時間まではまだ時間(ま)がある。

 康介と母、真紀子の離婚の原因も早く聞きたい気もするのだが…奈央はひとり、所在なく取り残された部屋から出て、内湯の露天風呂に冷えた身体を沈めた。

 湯船に浸かり静かに耳を澄ませば、ちょろちょろと取口湯の落ちる音が心地よかった。ふと、庭に目を凝らせば雪に埋もれるつくばいの縁に梅擬の赤い実がパラパラと風に吹かれて溢れ落ちてくる。それはまるで一服の絵画を見る様だった。
 雪の庭にはなんとも言えぬ侘びしさと美しさとが仕舞われているようで、奈央は白い手足を湯船に伸ばしながらその風情をしばし愉しんでいた。
【あらすじ】
珍しく京都の街に数年ぶりの大雪の降った日
美術史家の細川武彦の葬儀に出席した父娘
その席に、母、真紀子の姿はなかった。
不振に思った奈央はどうして、真紀子の姿がないのか?
父、康介は重い口を開けて答えた。
「ママとパパは離婚れることになった」と。
思いもかけない父の告白に、、奈央は動揺する。70過ぎた両親の熟年離婚の原因は…?

【雪の宿】
 遠い記憶の彼方から女の笑い声が聞こえて来た。

それは聞き覚えのある荇子(こうこ)の楽しげな笑い声で、それも随分と若い娘時分の声だった。

 打ち水で涼を呼び込む「福松」の庭石の面を夕暮れの涼やかな風が吹き渡っている。

緑蔭のなかで夏椿の花が白いはなびらを揺らしながら暮れ残っていた。

 濡れ縁に座る後ろ姿の荇子は手染め藍色の綿絽(めんろ)に白上げで百合の花を現した浴衣を着ている。細っそりとした白いうなじにかかる後毛を華奢な指先で整えながら「ほんまですって!」と一瞬、涼やかな目を大きく見開くと、隣に座る男の背中を軽く叩いてまた陽気に笑っている。

 男も時折り笑い声をあげながら、荇子の浴衣の柄などを褒め、冷えた麦茶を飲んでいる。

どうやら二人は、荇子の着ている浴衣の話をしているらしかった。

「よく縫えてるよ、荇子にしては…」その男の声もまた、聞き覚えのある声、、紛れもない、父、康介の若く張りのある声だった。

「ほんまに?自分でもよう気張って縫えたと思うてるの」荇子は艶やかな丸みを帯びた頬を桜色に染めて袖の縫い目に目を落としている。

 気だるい夏の夕涼み…荇子の抜けるような白く美しい横顔はまだ幼さの残る17、8歳の娘の顔だ。取り立ててどう言うことでもないその光景を幼い奈央は昼寝から目覚めたぼんやりとした目で追っていた。

ー                            

「康介さん、奈央ちゃん、まだ、起きひんのですか?」

「さっき、風呂に入ってたみたいだから、疲れが取れて眠っているんだろう」

「ほな、お食事、どないしましょ?」

 荇子のはんなりとした柔らかな京言葉が奈央の耳に心地よかった。

「構わないよ、支度してくれても」

奈央は布団の端を捲るとゆっくりと起き上がり、浴衣の前合わせを整え襖を開けた。

「いややわぁ、奈央ちゃん、起こしてしもうた?堪忍ぇ」

「いいえ、お腹も空いて目が覚めちゃったんです」

奈央はそう言って荇子に笑顔を向けた。

 荇子は紫檀テーブルの上に片手をついて立ち上がると、側に立つ奈央の顔をまじまじと眺めて言った。

「奈央ちゃん、素顔でもやっぱり別嬪さんやわねぇ。お母さん…ううん、どちらか言うたら、お父さんによう、似てはりますわ。どんどん綺麗にならはって…」

「おいおい、女将、そんな事言ったら奈央は嬉しいのか悲しいのか複雑な気持ちになるぞ」康介はそう言って声をあげて笑った。

「大切な娘さんやし、お父さんには奈央ちゃんは宝物やさかい。奈央ちゃん、ほら、そんな浴衣一枚で…福松で風邪ひかせたら大変やわ」

荇子は奈央に旅館の羽織を着せて、バタバタと部屋を出て行った。

「よく眠れたか?」

「えぇ、眠るつもりはなかったけど、パパの寝息を聞いてたらいつの間にか眠ってしまってたわ」奈央はテーブルの上のお着き菓子を頬張りながら熱い茶を淹れた。

「忙しいのは良いが、身体を壊したらもともこもないぞ、、」康介は優しい声で奈央にそう言うと広縁にある椅子に腰を下ろした。

 雪は止み、庭には石灯籠の灯りがぼんやりと辺りを照らしている。奈央は父、康介の正面に座り直すと康介の顔を真っ直ぐみて言った。

「パパ…浮気でもしたの?ううん、それとも本気?」

 娘の遠慮会釈ない言葉に康介は一瞬驚いた様な顔をして、それからニヤリと笑ってこう応えた。

「そう…老らくの恋」

 奈央はポカンと口を開けたまま二の句が継げず、ただ黙って父、康介の顔を見つめ返すだけだった。

「鰆は書いて字の如く春のお魚、、そやから、その時季が旬で一番美味しく食べれると思われがちなんですけど、ほんまは、身が一番美味しんは実は冬なんです」

 40絡みの中居の女は運んで来た料理の器を手際よく並べながら二人にそう言った。 

「確かに、暮れの頃から東京の料理屋でも鰆を良く目にするようになるわね」奈央は器に盛られた色とりどりの京料理に目を移しながら小さく頷く。

「そうでっしゃろ…?関東地方では秋から冬にかけて漁れる「寒鰆」が好まれ、京都府内の定置網で獲った鰆の中で、ある程度大きな鰆を「京鰆」言いますねん。丁度その頃が産卵期前でもっとも脂がのった頃ですわ。出産前に取れる鰆の卵巣は味が良いんで、煮つけやカラスミなどに調理され、関西では淡白な身だけではなく、真子や白子を一緒に食べるんですよ」

 康介も頷きながら早速、箸の先で脂の乗った鰆の白身をつまんで口に入れると思わず、舌鼓を打った。

「丁度、良い鰆がうちに手に入ったさかい、松井さまにお出し出来てよろしおしたと女将も言っていましたえ」

中居は支度を終えると、二重顎の福々しい顔に笑みを浮かべて、部屋を出て行った。

「この時季に京都でこんな美味い肴を食べられるのは運がよかったな」康介はそう言って盃の酒をクイっと一気に飲み干した。

「ひと足早い春ね」奈央はそう言って、父、康介の盃に酒をゆっくりと注いだ。

 細川武彦の通夜の振る舞い酒にも一度も手を付けなかった康介は、恙無く細川の旅立ちを見送り、今は真から安堵して盃を傾けられるだろう。

 酒の銘柄は長野の「夜明け前」福松に長くから居る板長の田島が選んだらしい。
小説家 島崎藤村の著書から命名されたこの酒は苦難や雌伏の時期が終わり、事態が好転するように、、そんな願いが込められていると言う。

 こう言う何気ない心遣いも、この「福松」が老舗の名旅館と言われる由縁なのかもしれない。
 丹精込められた福松の京料理が空腹の腹の中に次々と収まると奈央は満足そうな顔をして終いの茶を啜りながら康介の顔を覗き見るように言った。

「…で、その老いらくの恋のお相手って、どんな女性?私も知ってる、、ひと?」
奈央はそう言ったっきり言葉が詰まってしまった。

 うつらうつらした眠りの中で、父、康介と荇子(こうこ)の遠い夏の日の思い出の断片を拾い集め、それを引き合いに康介の恋の相手に仕立てあげるようと一瞬でも思っている自分がいた。
 しかし、それは何の根拠も持たない。そう思った自分の気持ちは些か稚拙な白昼夢に過ぎはしなかったか、、。

 奈央は手元の湯呑みを握りしめたまま父、康介に何か言おうと言葉を探した。

 そんな奈央の気持ちを察したのか、康介は徳利の酒を程よくあけると静かに盃を伏せて奈央に言った。

「奈央、、70過ぎの年寄りにもなって、娘の君に親の離婚の話など聞かせたくないというのが正直な気持ちだよ。出来れば、そんな事は全てのことが済んだ後の事後報告として伝えてもいいのでは、、と無責任な親の考えも浮かばなくは無かった。ただ、、これだけは君に伝えておきたいと思う。私と真紀子は決して憎しみ歪み合い離婚れるのではないと言うことだ」

「でも、パパ…、長い月日、共に人生を生きて来た夫婦なのに、、そうであるなら何故、今更…」

 康介は奈央の言葉を固く目を閉じて聞いていたが静かにその瞳を開け、おおよそ父親の口から聞くはずも無い言葉を聞いた。

「奈央…君は身を捩るほどに人を愛した事があるか」

そう、真っ直ぐ娘を見つめて言った父の瞳は悲しいまでも失っていく者への惜別の想いに溢れていた。

「身を捩るほどの…」奈央はぽつりと呟いた。

「あぁ、…どうにもならない愛に苦悩しながらもそれでも愛さずにはいられないほどの恋だよ」康介はやや、投げやりな物言いでそう言うとまた、広縁の藤椅子に腰を下ろした。

 どうにもならない愛…それでも愛さずにいられない恋。

奈央は早瀬省吾の顔が一瞬、頭を過った。

 そして、それを打ち消すように自分は畳の上から康介の方を向き直して言った。
「パパは今、荇子叔母さまとそんな恋をしているの?身を捩る程の…」

 奈央は勢い余って荇子の名をあげたことにはっとした顔をして何も言えず黙り込んでしまった。そして、それ以上に驚いた顔をした康介はその後、急に笑い声をあげて奈央に言った。

「奈央、、私がここの女将と恋仲だとでも思ったのか?」

「……」

「確かにここの女将とは随分長い付き合いになる。彼女が娘の頃から知っているからな。しかし、かと言って私は一度だって女将とそう言った男と女の関係などなかったよ。寧ろ、兄妹のような、あっけらかんとした関係だったからこそ、君たち家族を連れてこの宿を訪ねていた。女将とそう言う関係を持ちながら何食わぬ顔で此処に来るほど私は神経が図太くないのでね」

「ごめんなさい。でも、それじゃパパは一体誰と身を捩るほどの秘密の恋をしてるの?」

 奈央はそう言った後、自分の放った言葉がなんだか幼子が道端の花の名をあどけない顔して父親に尋ねている風に思えて少し頬を緩ませて笑ってしまった。

しかし、康介の横顔は厳しかった。

 何かを逡巡しているような、迷いを含んだ唇は一文字に閉じられ、それを誰かが無理にこじ開けようとすれば、まるでパンドラの匣のように様々な禍の言葉を娘の奈央に浴びせかねないような気がした。

 父親として、、それは「秘密の恋」などと云う手ぬるい淡い快感に満足しない程に辛い話しでもあるのだ。
今、愛すべき娘からそれを求められ、正直に話さなければ恐らく奈央は宙ぶらりんな気持ちのまま何も咀嚼し切れず親の離婚に不信感を残しかねない。

 自分たちの離婚がもっと若い頃の決断であったならそれはどうにでも誤魔化しができ、自分の不貞などとして片付けられてよかったかもしれない。しかし、70も過ぎたこの年になっての離婚だ。しかもこの先、奈央の母親、真紀子は嘗て奈央自身も良く知る別の男の元で新しい人生のスタートをきるのだ。


  細川武彦の葬儀から帰京してこのひと月あまり、奈央は胸の内に仕舞い込んでいる鉛のような重い塊をひとり持て余していた。

 親の離婚を憂うる年齢でも無いと分かっていながらも、家族と言う一つの形態が、こうも呆気なく毀れてしまうものなのか…。

 奈央は、年老いた親の離婚をなす術もなくただ、見つめるしかなかった。

 大雪の京都、タクシーの中で父、康介に投げかけた疑問は傍らにいない母、真紀子の不在を尋ねるものだった。しかし、真紀子の心は、既にその身ばかりで無く心までもが康介の傍には無かったのだ。

 ぽつりぽつりと重い口を開き、父、康介が語ってくれた離婚の顛末は奈央にとっても辛く、胸痛む現実だった。そして、そこには、おおよそ想像だにしなかった母、真紀子の一人の女としての人生を、奈央は否応もなく垣間見ることになった。

 長い海外生活の中で、康介の直属の部下、田坂英和と母、真紀子はどうにもならない愛に苦しみ、もがきながら生きて来たと言うのだ。

 当時、康介と真紀子、そして、康介の部下、田坂は年齢も近く気の置けない仲間のような存在でもあった。日本において、トップクラスに名を連ねる康介の勤務する総合商社は、世界約100カ国の地域を拠点とし1500以上もの連結事業会社と協働しながらビジネスを展開していた。
 当時の康介は、現地法人近郊の投資会社の事業管理部門の管理職に身を置き、早々に出世コースにのっていた。康介は有能な仕事ぶりばかりでなく温厚な人柄と面倒みの良さも相まって目上ばかりか部下からの信頼も厚かった。

 取り分け部下の田坂は仕事熱心で学生の頃は陸上の選手として活躍していて行動力もあった。海外赴任も一年、二年と長くなると家庭的な日本食が恋しくなる。康介はそんなひとり身の田坂を案じ、度々自宅に招いて食事を共にしていたらしい。
 康介が妻、真紀子と田坂の間に特別なものが有る、と気づいたのには、あるひとりの人物の存在があったからだと言う。

 その人物は、当時シアトルの自宅を度々訪ねて来ていた高柳涼太。

 康介方の縁戚関係でもあった涼太は、奈央を画商の世界へ導いてくれた大切な恩人のひとりでもある。

 その涼太が、真紀子と田坂に特別な感情が行き交っている事に気づき、シアトルの家から足を遠ざけようとしていた。未だ、学生であった涼太だったが黙して語らず、、そう心に決めて康介にも何も伝えはしなかったのだ。

 だが、未だ幼かった奈央に会いに行く度に奈央のくったくのない笑顔が堪らなく不憫に思え、涼太は康介に真実を話すべきか逡巡した。自分の余計な一言が大きな波紋を広げることになりはしないかと、、、。

 しかし、その事実は遅かれ早かれ康介にも何れ知ることになる。
ならば、自分が康介と真紀子の防波堤の役割になり、何とか奈央が辛い思いをせぬよう穏便に事を収められはしないかと考えた。

 如何にも気配り上手で優しい涼太の考えることだなと父、康介の話を聞きながら奈央は胸が熱くなった。

一時の火遊びだった…。

 田坂は深い悔恨を滲ませた顔で康介に詫びを入れ、自ら会社を辞し、二人の前から姿を消したらしい。

 真紀子と言えば、ただ、さめざめと泣き暮らす日々を過ごし、ひとり、自室に篭る日が多くなっていった。奈央が幼い頃よく目にした母は古いレコード盤に針を落とし、ひとり静かに遠い異国の歌を聴いている姿だった。

 今にして思えばどうにもならぬ恋にある日突然終止符が打たれ、その恋の相手に「一時の火遊びだった」と告げられた女はどんなに虚しく辛い日々だったろう。
 自業自得と言えばそれまでだが、夫も子もいる真紀子はその後ろめたさに苛まれながも愛さずにいられなかった田坂を憎んでも憎み切れなかっただろう…。

 そして、その二人に裏切られた父、康介の憎しみや怒りもまた、筆舌に尽くし難いほど苦しかっただろうと思う。

「私は誰も憎みはしなかった。田坂もそして、真紀子も」

そう言った父、康介の横顔に奈央は「嘘よ!嘘!八つ裂きにしたいほどに悔しかったくせに!憎かった!と言えば良いじゃない!」と酷い言葉を投げつけたい気持ちでいっぱいだった。

 奈央は自分の内から湧き起こる訳もわからない怒りの感情を抑えようにも抑え切れなかった。

 しかし、その父の横顔が余りに寂しかったからその溢れる思いは涙となって奈央の頬を後から後から伝って落ちた。

 リビングの床に落ちた早春のあたたかな陽だまりの上にレースのカーテンの裾が行った来たりしながら揺れている。奈央はそれをぼんやり眺めながらテーブルの上に置いた携帯を片手で引き寄せた。

7時半か…

 奈央は昨夜も遅くまで仕事をして帰宅したのは深夜一時を過ぎていた。

 夜明け前までも中々寝付かれずキッチンでコップ一杯の水を飲み干すとそのままリビングのソファに寝転んで、いつの間にか又、眠ってしまったようだ。

 奈央はゆっくりソファから起き上がるとカーテンを開け、窓辺に刺す朝の光をリビングいっぱいに招き入れた。

 大きなあくびより先に深いため息を一つ吐くと奈央はもう一度、気の抜けたような身体をソファに横たえた。

 柔らかな朝の光が眩しく奈央の横顔を照らしている。

キラキラと輝く光のプリズムは幾重にも彩色を滑らせながら一筋の光の矢を放っている。そして、その光が指し示すその先に父、康介の大切にしていた一枚の絵画がかけてあった。

          ポール・セザンヌ作 (画家の夫人)

         セザンヌの妻、オルタンスの肖像画である。

 一年前の雨の時季、幼馴染の涼子からもらった紫陽花の花束をこの絵の下に飾った。
 その時、この一枚の絵に込められた深い思いを読み取れず、何故このセザンヌの絵を父、康介は大切にしていたのか、そしてそんな大切な絵画をあっけなく手放してしまったのか、、その謎だけが残っていた。

 しかし、奈央は今、ふと、この絵画を父、康介が大切に手離さなかった理由が分かったような気がした。
そして、手放した理由さえも、、、。

貧しい絵描きであったセザンヌは父親からの仕送りのみが生活の糧だった。

その父親の願いは、息子、セザンヌが立派な画家になること。

セザンヌは父の期待に応えて何としても画家として大成せねばならない。

 しかし、そんな貧しい暮らしの中で妻を持ち、子までももうけて共に暮らすなどとは父親への裏切りの何ものでもなかった。

 父親の逆鱗に触れることは言うまでもなく、仕送りも断たれ、家族は露頭に迷い、絵を描くどころか生きていくことさえままならなくなってしまう。

 セザンヌは父親の期待を頑なに守る風に装い、妻、オルタンスの存在もひとり息子ポールの存在をもひた隠しに隠した。

 セザンヌは妻オルタンスを愛し、息子、ポールとの三人の生活をどんな事をしても守り通したかったのだ。
そして、そんなセザンヌの愛の下でオルタンスはひとり息子を育て、セザンヌの画業を支えたのだった。

康介もまた、妻、真紀子に自分の側に居て欲しかった。

 他の男に身も心までも奪われたとしてもそれでも真紀子を許そうと思った。
父、康介も真紀子を深く愛していたからこそ、奈央との三人の暮らしを手放したくはなかったのだ。

 人は押し並べてみな、愛する者から裏切られた時、憎しみも怒りも倍増する。
しかし、愛するからこそ、その憎しみも怒りも自分の内に潜めて答えを探し出そうと苦悩する者もいる。康介は理性と言う刃を己が心に向けて真紀子を繋ぎ止めたのだ。。 愛の形は様々だ。 

 父、康介がこのオルタンスの肖像画をリビングの壁に掲げていたのは妻、真紀子への無言の示唆以外のなにものでも無かった。

 そして、真紀子もまた、この「オルタンスの肖像画」の謂れを少なからず知っていた筈である。

 一人の男として、夫として、そして、奈央のたった一人の父親の誇りにかけて田坂や妻真紀子に向ける怒りや憎しみを父、康介は自分の内に封じ込めたのだと思う。

 この家庭をどうあっても守り通す…と。

 そして、真紀子も康介の寛容な沙汰に身を改めて家庭を守りべく、努めて来たのだと思う。

 願望と諦念とが拮抗する中、夫婦は共にこの一枚の絵を長い月日、静かに見つめて来たのかもしれない。

しかし、それは脆くも崩れ落ちた。

それは真紀子の再度の父、康介への裏切りだ。

その後、日本に帰国した真紀子はどうやって田坂と連絡を取り合ったのか知る由もない。
 田坂と真紀子は後戻り出来ない愛の深みに落ちていったのだ。

奈央は深くため息をひとつ吐いた。

 この胸の中から湧き出る雑然とした苦々しい想いを身体の外に吐き尽くしてしまいたい。
 しかし自分も又、早瀬省吾という一人の男と後戻り出来ない愛の深みに落ちていこうとしているのではないのか…。

愛の深み、、、この甘美で無責任でかつ、底知れぬ人間の甚だしいまでの渇愛。

それは自己の満足だけでは済まされない、多くのものを失い、傷つけ苦しみを生み出すだけだ。

自分にその覚悟があるのか…。自問自答してみなくとも奈央には答えは分かっていた。
 そして、奈央も雑然としたこの苦しみを甘んじて自らの身に浴びなければいけないと思った。

それがどうにもならない人を愛した人間への天罰なのだ。と。

※ セザンヌとオルタンスの関係性は諸説あるのですが様々な文献を読みあくまで一個人の見解で書き記しておりますので、ご理解頂ければと思います。


五月雨が庭の木々の葉を濡らす音だけが静かに聞こえていた。

 青々と茂る玉竜に縁取られた庭石を、ゆっくりと踏み締めながら、奈央はひさしぶりに自宅の広い庭を歩いた。

 祖父が残したこの松濤の大きな家を、一人身になる父、康介が売りに出すという話を聞いたのは、雪の京都から帰京してから、僅か1ヶ月も経たぬ内だった。

 街中にありがながらも、緑豊かなこの家の庭に、今年も季節の花々が咲き乱れている。
 草花を愛した祖父が、この家を建てた時、そこばくの草木を植え、僅かばかりの花々を庭の隅々に配した程度のものだった。

 父、康介の代になり、海外生活の反動からか、和の趣がある庭に造り替え、楓の木の根元に蹲跼(つくばい)を置き、その蹲跼に一掬の清水が流れ落ちるのをひとり楽しんだりした。

 しかし、母、真紀子はそんな寂しげな庭を嫌い、隅にイングリッシュガーデン擬の庭を設え、薔薇やアルストロメリア、クリスマスローズなどの洋物の花々を植えた。

 奈央が19歳の夏、ひとり旅に出かける朝に見た青いクレマチスの花は、母、真紀子がこの庭に植えたものだったのだろう。

 通常クレマチスの花の開花季は5、6月頃、ちょうど今頃の季節がその時期に当たる。
 鬱蒼としたこの緑茂る庭は、涼やかすぎて、クレマチスの花咲く時期が遅くなるのかもしれなかった。

「奈央、いい加減、部屋に上がってお茶でも淹れてくれないか?」

 父、康介はやや、痺れを切らしたような声で、大きく開いた居間の窓から奈央に声をかけた。

「いつまでもそんな雨の中に居たら風邪をひいてしまうぞ」

「えぇ、でも、こうして、ひさしぶりに我が家の庭を歩いてみると色んな思い出が蘇ってくるのよ」奈央は母が残していた紅い小花の散らした傘をくるくる回しながら康介の居る方に歩いてきた。


「パパ、見て、紫陽花の花芽がこんなに…。これは墨田の花火ね」

 小さな石灯籠の下に八重咲きのガクアジサイが今を咲かんとばかりに蕾を膨らませ始めていた。
 星形の花が飛び出すように咲くこの花は、その名の由来通りに花火が打ちあがって開いたように四方に小さな花を付けて咲く。

 奈央は傘をさしたまま腰をかがめて紫陽花の花に顔を近づけて見た。

「オルタンシア…紫陽花をそう呼ぶのよね」奈央は康介の顔を見ずにそう言った。

「あぁ…」康介はそう言って小さく頷いた。

「でも、紫陽花はやっぱり、日本古来の姫紫陽花が一番好きだわ。お茶、淹れるわね」奈央はバタバタと居間に上がると康介の前を通り抜けて台所に入った。

 何もかもなくなった広々とした台所に、母の面影は少しも残ってはいなかった。

真紀子がそうして行ったのか、父、康介がそうさせたのか…知る由もない。

 ただ…見覚えのある電気ケトルと茶器が、クッキングヒーターの上に静物画のように置かれてあるだけだった。

 キッチンの窓から母、真紀子は、庭の花々が咲くのを楽しげに眺めながら、良くコーヒーを淹れてくれた。

エチオピア産の豆を古い木製のミルで挽きながら、
「奈央ちゃん、ご覧なさいよ、イングリット.バーグマンが蕾をいっぱいつけてよ」と古い映画女優の名のついた紅い薔薇の名を嬉しそうに告げた。

 学生だった奈央は、そんな草花の話より友達とのおしゃべりや生活の方が楽しくって母の言葉に気の無い返事をして頷くだけだった。今になってみればそんな細やかなことさえ思い出に変わってしまうのだ。

 奈央は電気ケトルで湯が湧くのを待つ間、何故だか堪らなく寂しかった。

 もう2度とこの部屋で親子三人で温かなお茶を飲むことは無いのだ。

 康介は真紀子を憎みはしない…と言った。しかし、自分はどうだろう?

 父を裏切り家族と言う形を壊した母を赦し、田坂との新しい人生を祝福してあげられるのか…。

 ひとりの女としての気持ちなら…そう思う自分が何か卑怯な人間のように思えて奈央は頭を振った。

その時、シュンシュンと湯の沸く音が奈央を急かせるように激しく音を立てた。
  庭に面したリビングには、父、康介が愛用しているラタンの椅子ともう一脚、小さなまる椅子とテーブルとだけが残されてあった。

 奈央は、湯呑みに熱い緑茶をゆっくり注ぎ淹れながら「少し肌寒いわね」と言った。

「そうか…?窓は閉めてあるよ」康介は、そう言って締め切った窓の外に目をやりながら静かに茶を啜った。

 庭の八つ手にポツポツと雨垂れの落ちる音が微かに聞こえてくる。

 時折り、ゆらゆらと右に左に揺れる様は、まるで長い月日を松井のこの家の庭で、命を咲かせて来た植物たちが別れを告げに来ているような気がした。

「ママに電話したんだって?」

康介が湯呑みを手にしたままぽつりとそう、言った。

「……えぇ、したわ」

「奈央は、ひとつも自分の過ちを責めたりしなかったって」

「……」

「怨みつらみのひとつ、ふたつ、言ってくれたらまだ、救われる気がするのにって。そんなところまで、パパにそっくりだと」康介はそこまで言うと湯呑みをテーブルに戻した。

「救われるって…」奈央は言葉を反復しながら父、康介を真っ直ぐ見た。

「好きな人と一緒になれて、一番幸せな時でしょ?ママは今、自分が地獄にでも堕ちてるとでもおもってるのかしら?」奈央の言葉は刺々しかった。

 恨み、つらみの言葉をひと言でも口にすれば、恐らく奈央は聞くに耐えられない言葉を母、真紀子に捲し立てて、自分で自分の感情を制御出来なかっただろう。
 何故?どうして?ママをこんなにも愛して来たパパはひとりぽっちになるのよ。

言いたいことは山ほどあった。

 口から溢れ出そうな言葉をひとつ、ひとつピンで胸に留めて、奈央は言葉を呑んだ。

それがせめてもの母親への無言の餞の言葉だったのかもしれない。

「幸せになってね」などとは決して今は言いたくはなかった。

「身体に気をつけて、少し時が経ったらこちらから連絡します」そう言うのが精一杯だった。

母、真紀子と言えば、ただ、「ごめんなさい」を繰り返してさめざめと泣くばかりだった。

「奈央…すまなかったな」

「パパが謝ることは何も無いわ」

「君に辛い思いをさせてしまったばかりか、思い出の詰まったこの家まで手放してしまうことになった」

「仕方ないわよ。パパひとりでこの家に住むには広すぎる。これからどうするつもり?」

 「高杉がこの近くに所有権型のシニア向けのマンションを探してくれたよ」

 高杉は 父、康介の大学の後輩で長年、国際線のパイロットとして日本の航空業界に従事して来た。数年前に退職をして今は悠々自適な生活をおくっている。温厚な性格に加え面倒みの良さで父、康介も何かと頼りになる存在だった。

 聞けばそのシニア向けマンションとは衣食住は元より、24時間、医療連携大勢も整っているらしい。所有権つきだから、ひとり娘の奈央に資産としても残せると言う訳だ。

「もう、契約も済ませた。奈央にこれ以上、あれこれこれ心配はかけたく無いのでね」

「高杉のおじさまは情報通で人望もお有りだから、確かな選択だと思う。パパが一番信頼できる人の紹介だし、私は何も言う事はないわ」

「あぁ……、これから私も残りの人生をゆっくり楽しむことにするよ。老いらくの恋でもするか?」

「止めてよ、パパ!」奈央はそう言って軽く康介を睨んでみせた。

 奈央は湯呑みに新しいお茶を注ぎ淹れながら康介に聞いておきたいことが最後にあった。

 両親の熟年離婚と言う思いもかけない顛末を聞いたあの日から、胸の何処かで浮かんでは消える煩憂する思い。

 その思いを父、康介に投げかければ、康介はどんな顔をして自分の問いに答えるのだろうか。その答え次第では、これまで築き上げて来た父娘の絆が断ち切れてしまいそうな気もした。

 奈央は薄暗い日暮れの闇に沈む庭先に目をやりながら父、康介にぽつりとこう言った。

「パパ…」

「何だね?」

「パパは…私の本当の父親なのよね?」

 そう、言ってしまった途端に、奈央はこの数ヶ月間、張り詰めていた気持ちがプツリと切れた。

奈央……、

 父、康介は、奈央の名をひと声、そう呼んだ後、一文字に口を結び、奥歯を強く噛んだ。

「私は、間違いなくパパの娘なのよね…?」

 再度、放った奈央のその声は、嗚咽に塗れて聞き取れにくかった。

 言ってしまった少しの後悔と、言わなければならなかった言葉の答えは、直ぐには打ち返っては来なかった。

 頬に溢れ落ちる涙を指で払いながら、奈央は、父、康介の言葉を待った。

「奈央、、君は、そんなつまらないことを思っていたのか!」

父、康介の声は怒りの響きを含ませながら悲しみに震えていた。

 奈央は、自分が母、真紀子と田坂英和との間に出来た不義の子ではないかと思った。

そんな筈は決して有りはしない。あってはならない。

 雪の京都で、父、康介から聞かされた両親の離婚の顛末

 あの日から、払っても払っても沸き起こる胸の中の疑念を、不確かでも真実の片方を知る父親に、奈央は覚悟を決めて問いかけたのである。

 康介は、奈央の肩をそっと引き寄せて、まるで泣いている幼子をあやすように背中を、ぽん、ぽん、と叩きながら言った。

「君は、、、間違いなくパパのたったひとりの娘だよ」

奈央はその言葉に安堵して、何度も々頷いた。

「この黒髪も、その瞳の色も爪の形も、、パパとママとが君に与えたものだ。
何より、、、負けず嫌いで意地っ張りで、どんな事にもがむしゃらに突っ走る性格は、パパそっくりじゃないか」康介もそっと目を潤ませた。

 どれほどの長い月日、康介は母、真紀子の裏切りをひとり孤独に耐えて来たのだろう。

 誰にも言えず、その苦しみを分かち合いたい妻の心は、引き戻しても、引き戻しても帰っては来なかった。

 それを日々、諦念しながら、それでも家族の幸福の形を願い、康介は、壁にかかるセザンヌの一枚の絵画を見つめ続けて来たのだ。

自分は娘として、何をしてあげられたと言うのだ。

 この父の深い悲しみも苦悩も、母の笑顔の下の裏切りも涙も、、涼太の自分に向けられた優しい思いやりも、みな、みな、自分は気づかずに生きて来た。

それぞれの愛に包まれて……。  幸せに。

「ママは言ったわ。自分から離婚を切り出したのではなかったと…。
パパはもう、十分ママと暮らし生きて来たから幸せだったよと。パパは深く自分を愛してくれた、それにママが応えてあげられなかったのよ。馬鹿よね。って。
愛しているからこそ、君に幸せになって欲しい…。
優しいパパは、ママにそう言って別れを言ってあげたのよね?」

父、康介はまた、奈央の背中をそっと叩きながら頷いた。

奈央にはまだ、分からない、深い、愛の形がそこにあった。


〜ここまでのあらすじ〜

 恩人でもある美術史家、細川武彦の葬儀を済ませた夜、馴染みの旅館、「福松」で奈央は、父、康介から両親の離婚を唐突に告げられる。
思いも寄らぬ母親の康介に対する裏切りを知った奈央は驚きと共に抑え切れない複雑な感情が湧いてくるのだった。母、真紀子を今は許せないと思いながらも、不義の愛に苦しみ、躊躇い何もかも無くしてでも自分に正直に生きた母、真紀子の気持ちが分からなくもなかった。そして、それは妻子ある早瀬と言う男に向ける自分の想いと重なり奈央は後戻りできない自分に戸惑い始める。

         カレンダーは6月に変わった。 

 細い小糠雨が幾日も降り続き、羽織るものが一枚欲しいほどの肌寒い夕暮れだった。

珍しく早々に自宅に帰り着いた奈央は、早瀬からの電話を玄関先でタイミング良く受け取った。

「奈央…、連絡取れず済まなかった」

久しぶりの早瀬の電話口の声は少し疲れているように聞こえた。

「仕事で東京に居る。今夜、遅くなるけど奈央のマンションに泊めてくれないか?」

「それは構わないけど、、。先生、随分お疲れのようですね。遅くなっても構いませんから…待っています」

 早瀬とこんな形で逢瀬を重ねてもう何ヶ月が過ぎたのだろう。

その間に自分の周りで起きた様々な出来事が走馬灯のように頭を過ぎっていく。

 恩人、細川武彦の死、思いも寄らなかった両親の離婚、一部の隙もないほどに両親の決断は強固で娘の感傷的な思いなどどこにも入り込めず、それは呆気ないほどの幕切れだった。

 ぽっかりと胸に空いた虚しさを埋めるには失ったものに以上に代わるものが奈央には今、欲しかったのかも知れない。

それが早瀬省吾と言う男の存在なのか、、、。

例えそれが愛してはならない人であったとしても、奈央はこれ以上誰かを失いたくはなかった。

 刹那的な思いに奈央は今、それに抗うほどの余裕も倫理観もないと言うのが正直な気持ちかもしれなかった。

 ぼんやりとそんな事を考えながら奈央は早めに夕食をすませ部屋の明かりを少し落として静かにソファの上に横になった。

雨は激しく音を変え、止む気配がない。

   時計の針が深夜を回り日を跨いだ頃だった。

      玄関のチャイム音が微かに部屋に響いた…

 部屋に低く流したラフマニノフのBGM…

奈央はその柔らかな音の波を潜りぬけるように裸足のまま入り口に駆け寄りドアを開く。

肩先を雨に濡らして少し疲れた顔の早瀬の姿。

 ドアの隙間から滑り込むように玄関に入って来た早瀬は、奈央の一言の言葉も待たずに強く抱き竦めた。

 息が詰まる程の早瀬の荒々しい抱擁は、奈央に久しぶりの男の匂いと女である自分とを強く交わせ、甘い痺れのような疼きを感じさせた。

「奈央…逢いたかった」

荒々しく塞いだ唇を離し、早瀬はそう言って奈央をもう一度強く抱きしめた。

「凄い降りの雨だよ。タクシーが中々捕まら無くって遅くなった、ごめん」

「食事は?」

「済ませたよ」

「それより、シャワーを浴びたい、雨に少し濡れたから」

 薄い部屋着の上からも早瀬の身体が冷え切っているのが奈央にも分かった。

 奈央はバスタブに温かな湯を張り、香りの良いSOAPをひとつ、貝皿のフォルダーの上に置いた。

 薄絹の擦れる音がベッドサイドの薄明かりの中で聞こえる。

   ナオ…

 早瀬は奈央の名を呼ぶと柔らかな温もりに包まれた身体をそっと引き寄せた。

 窓打つ雨音で目覚めた…

 雨は明け方近く一旦小止みになったがまた降り出したようだ。

 早瀬はベッドサイドの明かりをつけ、外して置いたカレラの腕時計を引き寄せ時間を見た。

     8時25分

 疲れた身体にはもう少しベッドの中で眠りたい気分だ。

   雨音もここちいい。

 ふと、部屋を見渡せば、赤銅色のペルシャ絨毯が革張りの長椅子の前に敷かれている。

「この絨毯はね、ギャッベって言うの。南ペルシャ、イランの南西部のザクロス山脈一帯に住む遊牧民によって織られているのよ」

 奈央は絨毯の上で足踏みをしながらそう言って、細く白い足を早瀬の前におもむろに投げ出したことを思いだした。 

 忙しい合間をくぐり抜けるように逢瀬を重ね、奈央が揃えた部屋の家具や食器等を気にも留めていなかった自分がいたと、早瀬は少し申仕分けない気分になった。

 絨毯の中央のテーブルの上にはブルゴーニュのシャンボール・ミュジニーの空のワインボトルとグラスが置かれたままになっている。

「ナイトキャップ代わりにどうぞ…」

疲れて中々寝つかれない早瀬に奈央はそう言って、冷蔵庫で少しの間冷やして置いたシャンボール・ミュジニーの赤を取り出し、2つのグラスに注いだ。

  奈央は酒が飲めない。

 飲めないからか…その旨さも価値も分からないからか…早瀬に注ぐワインの量は惜しげもなかった。 

 自分のグラスに真似ごとのように注いだものの、ひとくち口に含んで「何だか、、、ね?」と口を窄めて笑った。

 このワインは、あの、ロマネコンティと同じ、ピノ・ノワールの最も高貴でエレガントなワイン。

 木イチゴなどの赤い果実の豊かな香りと、絹のような柔らかな口当たり、豊潤で優しい渋みがあり「ミュジニー」という言葉の響きからも女性的なイメージを感じさせるワインだった。

 深夜、奈央と熱いひと時を重ねた後の身体の火照りを鎮めるには程よく冷えたミュジニーのワインは染み入るように美味かった。

 早瀬は、シャンパーニュ地方の中心地ランスを画家、藤田嗣治の軌跡を追うように訪ね、安く飲めるシャンペリエでシャンペンを飲んだ思い出話しや、その街のサン・レミ大聖堂で藤田がステンドグラスの荘厳さに感激してキリスト教に改宗した場所である話し等を奈央に寝物語のように聞かせながら、二人はいつの間にか眠りに就いた。


いつの間にか、早瀬との逢瀬から半月近く過ぎていた。

今日もまた窓の外は雨。

 あの雨の夜、激しく求めあい二人の愛を確かめあってから、奈央の気持ちは更に早瀬がなくてはならないほどの存在になっている。

けれどこうして雨音を聞きながら、なかなか会えないことの寂しさを埋めるには、ひとり、切な過ぎた。

 今朝、チェストの上に飾った紫陽花の花言葉さえ、今の奈央には早瀬への気持ちを探す不安材料になってしまうのだ。

(紫陽花の花言葉。移り気、冷酷)



「愛している」と、なんど熱い吐息に包まれた言葉を耳元で囁かれても、こうして悪戯にひとり、時を過ごす奈央にはその実感がなかった。

 一人寝が続く夜には、奈央は火照る身体以上の熱い風呂に身を沈めた。

 窓の外は、細い雨が静かにベランダの梔子の白い花を濡らしている。

     微かに香るその甘美な香り…

けれど、紫陽花の花には香りが無いのは何故だろう…
裸のまま薄いタオルケットにくるまりながら奈央はぼんやりとそんなことを考えていた。

 軽やかな携帯の呼び出し音が、ベットの脇に置かれた小さなテーブルの上からふいに聴こえて来た。
奈央は手を差し伸べ、それを捉えると青い蛍光色の画面に目を落とした。

    早瀬省吾 

 黒い角ばったフォントの文字で早瀬の名を携帯の画面は示していた。
奈央は息をひとつ整えてからそっと耳に押し当てて早瀬の名を呼んだ。

「先生…」

「奈央?東京は雨降ってる?」

久しぶりに聞く早瀬の声はキュッと縛りあげていた奈央の気持ちをゆっくりと解き放していくように心地よく耳に届いた。

「降っていますよ。お元気でしたか?」
「あぁ…奈央は?今、京都に来ている。」
「お仕事で?」
「そう。予定外の会議で昨日から。奈央、急なんだけど明日、こちらに来れないか?一日時間が空いたんだ。」

 早瀬は、そこまで言って自分の宿泊先のホテルの名を告げた。

壁に掛けた丸いガラス盤の上で時計の針は11時15分を示していた。
ひと眠りして朝一番の新幹線に飛び乗れば、早瀬のいる京都には二時間もあれば充分に辿り着けるはずだ。

「先生、そちらに行くのは構わないけど…何かご馳走でもしてくださるの?」
奈央はわざと語尾をあげるておどけるように言ってみせた。

「明日、平安神宮の薪能があるんだ。」

「薪能…?」

6月の京の雅な催事として、昭和25年に京都市と京都能楽会の共催で始まった、平安神宮の薪能。
東山に夕闇が迫り篝火がたかれ始めると、平安神宮の朱塗りの社殿がライトアップされ、特設の能舞台がくっきりと現れ、荘厳な雰囲気が辺りを包み込む。
観世・金剛・大蔵の各流派のすぐれた演出の競演は能・狂言と続き、観客を幽玄の世界に誘った。
その、夏の京の風物詩ともいえる「平安神宮の薪能」を、早瀬と二人で観る事が出来る。

 早瀬がもっと早くに連絡をくれたら、夏の涼し気なワンピースのいち枚も用意できたのに…
奈央は電話を終えた後に、慌ててクローゼットの中の夏服をベットの上に次々に放り投げた。


一ケ月ぶりに逢った早瀬と奈央は、四条にある日本料理の店「なかむら」で食事をとり、その足で奥嵯峨にある祇王寺を訪ねた。

 苔むす祇王寺は、竹林と楓に囲まれたつつましやかな草庵で、『平家物語』にも登場し、平清盛の寵愛を受けた白拍子の祇王が、清盛の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られている。
祇王寺は、昔の往生院の境内にあり、往生院は法然上人の門弟良鎮によって創建されたと伝えられている。
山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は荒廃し、ささやかな尼寺として残り、後に祇王寺と呼ばれるようになったと言う。


「今夜の能の出し物にここ、祇王寺の名のもとになった祇王が舞われるんだよ」

 早瀬は前夜の雨に濡れた楓の葉を指でそっと触れながら濡れたその指先で奈央の柔らかなくちびるに自分の指をそっと押し当てた。
 


 夕暮れに間に合うように、二人は平安神宮のある場所に少し早めに着いた。
やがて、荘厳な中に雅な能舞台の上で、白拍子の舞う「祇王」が始まった。

清盛の寵愛を受けていた祇王が、新しい白拍子の仏御前へ清盛の気持ちが移り、その二人の白拍子がその御前でまう舞は、互いを気遣い、たがいの気持ちをかばい合うという筋で、静かな歩みとゆるやかな舞で、その情感がしみじみと伝わってくる、みごとなシテの舞いだった。


 赤赤と燃え盛る篝火が6月の湿った風に煽られ、火の粉が夜空に舞い上がる。

その火の粉の僅かな灯りに、薄っすらと浮かび上がる早瀬の横顔を、奈央は切ない気持ちで眺めていた。

 

それはまるで、一心に清盛の寵愛を受けながら他の白拍子に心を移す清盛への祇王の切なさを、自分自身の姿に重ね合わせていたのかも知れない。

 謡を合唱する地謡と二つの鼓の音が、交互に境内に響き渡っている。
そして、その幽玄な音に追随するように、辺りの木々の葉がサワサワと音を立てた。
 早瀬は、やや汗ばんだ手で奈央の細い指先をそっと握りしめて、身じろぎもせず篝火に揺れる能舞台を見つめている。
 奈央は、早瀬の絡めた指をそっと離すとバッグの中に仕舞った携帯を取り出し、赤赤と燃え盛る篝火を取り込みながら、能舞台の写真を携帯のカメラの中に一枚、また一枚と収めていった。


   七月  京都の町は祇園祭一色に染まる。

 千百余年の伝統を有する八坂神社の祭礼は、古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、日本各地に疫病が流行した時、災厄の除去を平安京の庭園で祈ったことが始まりと聞く。

 その祭事の最中、奈央は東京から出版社の編集者、伍代聡子を伴って洛北 大原にアトリエを構える日本画家、松倉冬真を訪ねていた。

 来春、冬真の画集を刊行す為に打ち合わせも兼ねて、祇園祭の山鉾巡行を見ることをもう一つの目的とした短い旅でもあった。

 目が眩むほどの火盛りの中、10トン以上の山鉾が男衆の掛け声と共に青竹の上でぐるりと方向を変える辻回しは、祭りの見せ場のひとつになっている。


 四条通りに溢れんばかりの人混みと祭り囃子に押されながら奈央と聡子は京の雅な神事を心から楽しんだ。

「祭りは楽しおしたか?」

「ええ、とっても。コンチキチン、コンチキチンって、まだお囃子の音が耳に残っているわ」奈央は笑顔でそう応えて聡子と顔を見合わせて頷き合った。

「冬真さん、祇園祭は…?」

「僕等、京都人、、いや、こんな大原辺りの山里の人間には祇園まではもう、よう、いきませんわ。小さな頃から何度も行かさしてもらいましたし、大原には大原の氏神さまがありますよって、そこへお参りするだけで十分です」

冬真はそう言って明るく笑った。

 今や、飛ぶ鳥も落とす勢いの新進気鋭のこの日本画家は、芸術家特有の気難しさや近寄り難さは無く、寧ろ、スポーツ選手のようなおおらかさと快活さとで人当たりも感じが良かった。

 その冬真との出会いは、奈央にとって画商として生きて行く上での大きなターニングポイントになったことは言うまでもなかった。

 初めて会った頃の冬真はまだ、海のものとも山のものとわからぬ無名な画学生だった。

 奈央が六本木にギャラリーをオープンした年、若手の気鋭アーティストを育てて行くと言うコンセプトの下、ギャラリー主催の小さなアートコンペティション (competition) を開催した。

  その第1回目の大賞受賞者が松倉冬真だった。

 その賞を皮切りに美術業界の登竜門コンテスト、新人作家発掘を目的としたコンペティション、ARTIST NEW GATEのグランプリ受賞と出展する作品は数々の賞を総なめにし、その名を世に知らしめて行ったのだ。

 画業十余年、その軌跡を追いながら、作品集を一冊の本に纏める話しを編集者の聡子から提案されたのは梅雨も間近な6月初旬の頃。

 奈央は冬真の里山暮らしの日常も頁に加えてみたらどうかとふと思い立ち、冬真に了解を得、その大原を訪ねて来たのだった。


       京都の中心地からバスで60分ほどの場所にある大原。

 のんびりとした日本の原風景が残るこの土地は、その昔きらびやかな都暮らしに疲れた人々が、「やすらぎ」を求めて住みついた隠棲の地でもあった。

 大原三千院、寂光院、瑠璃光院、宝泉院、世界遺産に認定された下鴨神社と歴史的価値の高い神社仏閣も多くあった。

 大原の地に居を構えた先代から数えて八代目となる冬真の家はここら辺りでは古くから庄屋を勤めた名士であったらしい。

 所有する幾つかの山林と山裾野に広がる田畑は豊かな緑に覆われ、季節ごとに咲く花々は大原女たちが辻々の家々を売り歩いた。冬真の繊細な筆遣いと色彩感覚はこの美しい大原の地で育まれていたのかもしれない。
 
 開け放たれたアトリエの窓からは山から吹き下ろす風が心地よく、近くの林からは蝉時雨の声が忙しなくそこら中に響き渡っている。

 その声をBGM代わりに編集者の聡子は冬真へのインタビューを繰り返しながらその場で手早く口述筆記に纏めあげる作業を初めていた。

 その時、不意に奈央の傍らに置いたトートバッグの中で携帯のバイブの音が唸り始めた。


 奈央はそっとバックの底を覗き込むと青い液晶パネルの上に「高柳櫂」の文字がブルブルと震えている。

それはまるで深く青い海の底から必死に櫂が奈央を呼んでいるように思えた。

 胸騒ぎがした。

奈央は咄嗟に携帯を握りしめると部屋を出て着信のアイコンを押した。

 梅雨明け間近とは言え、7月の庭は既に夏の盛りの装いを見せていた。

 刈り込まれた生垣の向こうのアスファルトの道は照りつける太陽に溶けそうなほど、ゆらゆと陽炎が揺れている。

「櫂…」

 携帯を耳に押し当てて奈央は櫂の名を小さく呼んだ。

「奈央姉ちゃん、ごめん。母さんが、、もう、どうにもいけないらしいんだ」久しぶりに聞く櫂の声はすっかり大人びた青年の声だった。

「今、どんな状態なの?」

「朝方意識が無くなって、今、ICUに入ってる」

「お父さんは?」

「出張でイタリア辺りに居る。何度も電話してるけどまだ、繋がらないんだ」

「分かった。今、仕事で京都に居るの。早めに切り上げても東京に帰れる時間は夜遅くなると思うわ。櫂、、しっかりするのよ。兎に角、連絡はまめにして頂戴」

奈央は手短に櫂にそう言うと、電話を切った。

 むせ返るばかりの草いきれの匂いと胸の動悸とで奈央は立って居られず、思わず広縁にひざまづいた。

 その時、玉のように吹く汗が胸の谷間をスッと転がり落ちていった。

 今年、20歳になった櫂は都内の大学に通う学生。

 櫂に初めて会った頃は悪戯盛りの可愛い4歳の子供だった。

 既にその頃から体調を崩しがちだったマリエの代わりに妹の果歩と一緒に奈央は多くの時間を共に過ごして来たのだった。

果歩ももう、16歳の高校生、母親似の優しく、美しい少女に育っている。

時の流れとは瞬く間だ。

 あれから幾つもの季節が巡り、雨の日も風の日も、今日のような晴れ渡る空を見上げながら、家族も、そして奈央もマリエの病の回復を何度祈って来ただろう。


 握り締めた携帯のphotoファイルの中にはマリエや子供たちと過ごした思い出の写真が溢れるほど収められていた。留守がちの父、涼太と同じくらい奈央はなくてはならない家族の一人だったのだ。

「奈央さん!大丈夫ですか?」

不意に聡子の声が背後に聞こえた。

「えぇ、、大丈夫よ」

その声に冬真もあわてて部屋を飛び出ると奈央の側に駆け寄って来た。

事のあらましを二人に告げると奈央は冬真に申し訳なさそうに言った。

「冬真さん、そう言う訳で急ぎ東京に帰らねばならないの...本当にごめんなさい」

「いや、私のことより奈央さん、急いで支度を」

 冬真はそう言うとふと、何か思い出したように慌ててアトリエの机の引き出しを開けた。


「奈央さん、これを」冬真は手に持った二つの小さな小箱を奈央と聡子の目の前に差し出した。

 見ると小箱の中には白檀の木で彫られた小さなお地蔵様が白い和紙に包まれて入っていた。

「お二人がいらっしゃるとお聞きしてから何か手土産の物をと考えました。こんな田舎ですから大したものもないので、せめてと思い仕事の傍らそこらの彫刻刀で彫った仏様です。素人のままごとみたいなものですから荒削りなのは勘弁して下さい」冬真はそう言ってペコリと頭を下げた。


 荒削りとは言え、素人とは思えぬ程、見事なその彫りのお地蔵様のお顔を二人はしみじみと眺めた。

 手を合わせ、静かに目を閉じたお地蔵さまは無縁の慈悲をそのお姿に湛え、優しく微笑んでいた。

 明け方、遠雷の音が鳴り響いていた。

 しばらくすると通りの街路樹を騒がせて激しい雨がいっとき窓を叩た。

 奈央は、昨夜遅くに東京に戻るとマリエの居る病院へは寄らず、まんじりともせず、櫂からの連絡を待った。

 その間、イタリアにいる涼太と連絡を取り合い、急ぎ帰国する涼太がマリエの息のある内に間に合ってくれることを奈央はひたすら祈るしかなかった。

 しかし、その祈りも届かず、、その日の午後、マリエは涼太の到着を待たずに静かに逝った。

 病の苦しみから解き放たれたマリエの死に顔は安らかで美しかった。

 マリエの好きだった白いカサブランカを胸に抱かせて奈央と果穂は旅立ちの支度を整えた。

 享年 50

 覚悟はしていたけれど亡骸に縋り付き泣きじゃくる果穂やそれを黙って見つめている櫂を奈央は姉のように胸に抱き寄せて声をあげ、共に泣いた。

 決して長い人生ではなかったけれど涼太と巡り会い、二人の子を授かり妻として母として、そして、女として愛に満たされたマリエの人生は幸福だったと奈央は思う。

 遺された二人の子供たちはマリエの命を引き継ぎ、後の世までその命は連綿と続いていくのだ。

 子のない奈央は母親になる女の人生を心から羨ましく、それだけでも十分にマリエの人生は幸福に値すると思えた。



 油蝉の頻りに鳴く暑い日にマリエは白いカサブランカの花に包まれて静かに黄泉の国へと旅立っていった。

 マリエの葬儀を恙無く終え、日を置かずして奈央の携帯に珍しく幼馴染の涼子からの着信があった。

 

東京は昨日、ようやく梅雨明け宣言が出て、オフィスの窓から見上げる空は真っ青に澄み夏雲が浮かんでいる。

 奈央はその空を仰ぎながらここ一年ばかりプツリと音信の途絶えていた涼子の事を思った。

 雨の日、両手いっぱいのアジサイの花束を抱えて訪ねて来た涼子は別れ際に「今度、ゆっくり話すことがあるの。また…」そう言ってエレベーターの中に消えて行った。

 あれから奈央の身辺も慌ただしく時が流れ、涼子もまた、度々の訪問や連絡も途絶えていたのだった。

「涼子元気にしてた?ごめんなさいね。ご無沙汰しちゃって」

「ご無沙汰はお互い様よ。奈央も元気そうね。私も色々大変な事があって、、、中々奈央にも連絡出来なかったのよ」

「大変なこと?どうしたの?」

「電話じゃ話せないわよ。それより、奈央、今週末、ううん、奈央の時間の都合がいい日でいいわ、一度会えない?奈央に会わせたい人がいるの」

「会わせたい人、、、?」

「そう、どうしても奈央に会ってもらいたい愛しい人」

そう言った涼子の声は、まるで少女のように明るく弾んでいた。

 

約束の場所を決める時、涼子は「静かな場所がいいわね」とだけひと言付け加えた。

 二人が学生の時から度々利用したいつものカフェテリアは人の出入りも多く、落ち着かない。

 奈央は、情報通のスタッフの麻衣に尋ねると「オフィスにも近い六本木の鳥居坂にある「国際文化会館」など如何ですか?」と提案された。

 国際的な会議や文化交流の場として、国内外から知識人が集うこの場所は、建物が国の登録有形文化財になっている。

「初めてお会いする方もいらっしゃるのでしょう?でしたらあまり砕けた場所より落ち着いた場所だし、都心の中で緑豊かな広い庭園を眺めながらゆっくりお茶出来ますよ」

 庭園は、昭和5年岩崎小彌太がわが国屈指の京都の名造園家「植治(うえじ)」こ

と7代目小川治兵衛に作庭を依頼したものらしい。

麻衣は手にしていた携帯で直ぐに情報を検索して奈央に示してくれた。

 庭園を眺めながらゆったり寛げるし気軽なランチやディナー、優雅なティータイムまで楽しめるティーラウンジ「ザ・ガーデン」だ。

奈央は約束の場所をそこに決めた。

  時間は11:00

 その日も朝から日差しが強く、通りを行き交う人々の中には、帽子や日傘をさしている人の姿も多かった。

 奈央はノースリーブの麻のトップスに同色のオフホワイトのタイトな巻きスカートを華奢なサンダルと合わせた。

 木漏れ日が注ぐテラス席に腰を下ろし暫くすると涼子がガラスのドアの向こうから変わりない笑顔を奈央に向けて入って来た。

 その時、奈央は「えっ!」と小さく声を上げて思わず席を立つとその場に立ち尽くしてしまった。

 幾分かふくよかになった涼子のその腕の中には、未だ、生後まもない赤ん坊が抱かれていたのだった。

「涼子、その赤ちゃん…は…」

「奈央、ご無沙汰!初めまして「葵」と申します。奈央おばちゃん宜しくね」

涼子はそう言って奈央と赤ん坊の顔を交互に見比べて微笑んだ。

「会わせたい、愛しい人って…」

「そう、私の赤ちゃん。この、5月末に生まれたばかりよ。名前の由来は瑞々しく葉を繁らせていく人生のように…って願いね」

「涼子…抱かせて」

 両腕を差し伸べ、微かに乳の匂いのするその赤ん坊を奈央は涼子から受け取るとそっと自分の胸に抱き寄せた。

「会わせたい愛おしい人って、この子だったのね」奈央はそう言って赤ん坊の顔をまじまじと見つめた。

 この一年、恩人の細川武彦を病で失い、突然の両親の離婚、母、真紀子との別離、未だ、哀しみも癒えぬうちに今度は姉のように慕ったマリエさえも先日、亡くしたばかりだ。


 別れ行く者、そして、こうして生まれ来る者と、、、人の世とは何と、不思議な出会いと別れを繰り返しながら生きているのだろう。

 胸を締め付けるほどの悲しみもまた、季節が巡り来るように新しい風に吹かれその傷みも癒され再生されて行く。

そして、それは不意に自分が予想だにしない未来から吹いてくることもあるのだ。

 赤ん坊のしっとりと重く柔らかなその温もりと、すやすや眠る無垢なその寝顔は奈央の傷んだ心を優しく包み込むように癒してくれるようだった。

 運ばれて来たランチを前にして涼子は赤ん坊を抱く奈央を見つめて言った。

「奈央、結婚する気はないの?」

「ないわけじゃないわ」

奈央は抱いている赤ん坊を黙って見つめたままそう答えた。

「覚えてるかしら、、昨年、紫陽花の花束を奈央の所へ持って行った時のこと」

「えぇ」

「あの頃、私、主人とあまりうまく行って無かったの。主人の女性関係や仕事の事で毎日喧嘩が絶えなかった」

「そうなの?とても幸せそうに見えたけど…」

「離婚の話もちらっと出たこともあったのよ。色々逡巡してる最中に信じられない事が起きたの」

「その信じられない事が妊娠て言うわけね?」

「そう…でも、私たち、そこそこのお年ごろになって来たわけじゃない?」

「43歳!若くはないわね」奈央と涼子は互いを見つめ合って頷いた。

「迷ったの?高齢出産」

「そう思う?心配はしたけど…それが無かったの」

「決断した理由は?」


涼子はグラスの水をひと口飲み干すとふっと息を吐いた。

「奈央、覚える?今から20年ほど前、私が妊娠した時のこと」

「えぇ、、覚えてるわ。日本とイタリアを往復していた頃ね?今のご主人、健大さんとの最初の子供よね」

 涼子はふっと小さく笑ったかと思うと頭を横に振った。

「その子が本当に健大の子供かと尋ねられたら、勿論!そう答えるにはあの頃の私には自信が無かった。恋多き女だったとは自慢にも何もならないけど…そうだった」

 涼子の言う通り、あの頃の涼子は、数々の恋愛遍歴を経て、後に夫となる健大と言う恋人がいた。しかし、学生からの延長で付き合っている数人の男友達がいたことも奈央は知っていた。まさか、確信が持てないほどの深い関係でその男たちと関わっていたことなど、奈央が知る由もなかった。

 ただ、涼子のお腹の小さな命がこの世に誕生出来なかったことが、堪らなく不憫で胸が痛かったことだけは、奈央は遠い日の記憶として忘れられない。


 その後、紆余曲折の末、涼子は川上健大と結婚して、三人の子の親になっていた。

「今回の妊娠は疑いようもなかったの。間違いなく健大との間に出来た子供。迷いは無かった、と言うより、あの時、この世に送り出してあげれなかった赤ちゃんを今こそ私の命を賭けて産まなければ行けないと思った。それは、独りよがりの思い込みでも、この子はあの時の生まれ変わりじゃないかと……そう思った」

「健大さん、喜んだでしょ?」奈央は自分の気持ちも重ねてそう言った。

「えぇ、とても。高齢出産と言うとてもリスキーな挑戦だったけど、健大の優しさや父親としての誠実な思いを改めて知ることができて…この子をこの世に送りだす命懸けのプロジェクトは大成功だったわ」

 奈央は今、恩い屈した良いしれようも無い孤独感や現実に対する失意の中、こうして新たな命の誕生という出来事に巡り合わせてもらえた事が嬉しく、涼子に心から感謝したい気持ちだった。


 窓の外は午後の日差しが緑々と繁る庭の木々を明るく照らし、夏蝉は宛ら「祝福を奏でる」オーケストラの如く大合唱で鳴いている。

 奈央は腕の中に眠る柔らかな命を抱きしめながら自分には早瀬との間に子供を授かることなどないだろうとふと思った。

そして、それはまた、許される事ではないのだ。

 早瀬ばかりか奈央は誰とももう、この世に自分の命を受け継ぐ者を産み落とすことなどないのではないかと…

だけど、それは誰も分からぬことでしょ?

腕の中ですやすやと眠る赤ん坊が奈央にそっと問いかけているような気もした。


 驟雨の後の濡れた土の中からまた、熱を帯びた土埃の匂いが窓の隙間から忍び込んで来る。

京都はここ連日、茹だるような暑さが続いていた。

 じっとりと汗ばんだ早瀬の背中に、微かに残した自分の爪痕をそっと指でなぞりながら、奈央は庭の隅でひとしきり鳴く蜩の声を聞いていた。

 雨後の仄暗い部屋は忽ちに強い日差しが差し込み、床の間に掛けられた一服の掛け軸を鈍く照らしている。


 金箔塗りの上に色鮮やかな岩絵の具で描かれたその肉筆画には生い茂る緑の葉陰の隙間から花芽の先にほんのりと色づき始めた萩の花が咲き溢れていた。

木々草石の上には密やかに秋が忍び込み、静かに季節が移ろって行くことを思わせた。

 早瀬は珍しく定宿から離れた洛北、鞍馬の老舗旅館に涼を求めて奈央を呼び出した。


 日盛りを避け、貴船神社に詣で、川床料理を味わい尽くし、ほとほと歩き疲れて宿に帰る途中、二人はひと降りの雨に打たれた。

「奈央、すまなかった」

早瀬はそう言って身体の向きを変えるともう一度、奈央をそっと抱き寄せた。

奈央の洗い立ての髪から微かに甘い香りが立ち匂って来る。

「何故、謝るの?」

「忙しいのに無理を言ったからさ」

「無理でも、来ると思ったでしょ?」

 奈央は白い腕を早瀬の首に回しながら何かを射抜くような瞳で見つめ返した。

 奈央の黒く濡れた真っ直ぐな眼差しは、出会った頃と少しも変わらず、早瀬の本心を探り当てるようだった。

 早瀬はその眼差しからふと、目を逸らすと何かを振り払うように荒々しくまた、奈央の白い乳房を愛撫し始めた。

 何者にも奪われることなく、早瀬の腕の中で自分を肆に曝け出すことが今、この一時こそ、奈央は心から女としての幸福を味わえた。

 誰とも享受し合えなかった愛の深みを早瀬となら分かち合える。

 例えそれは一時の享楽でも良いのだ。

否、、、どこかにそんな不埒な自分がいなければ今にその深みから抜け出せず、苦しみもがき、後戻りできなくなってしまうだろう。

 行き着くとこまで行き着き、後戻りなどせずともいつかはきっと終わるはずの恋。

 この享楽を味わい尽くし、どちらかともなく熱を冷まし、背を向け、等閑すれば諦めもつく。

 自分は早瀬とそう言う関係性でしか繋がることは出来ないのだ。

こと更に自分を追い詰めずとも、、もっと奔放に、もっと大胆に、あるがままに早瀬を愛せば良い。

 その先に例えどんな辛い別れが待っていたとしてもそれは自分が犯した罪への贖罪と受け止めよう。

 妻子ある男を好きになると言うことがどんな事なのか、、どうあったって自分のものに出来るはずなどないのだから。

いつになく刹那的な思いに奈央は戸惑いながら、そう、自分を納得させた。

暮れゆく窓に写る早瀬の横顔を奈央はいつまでも、いつまでも眺めていたかった。


To Be Continued


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?