広場の賢者

  今日は蒲団の中にいる時点で既に気分が悪い。土曜だと言うのに、桜子に会わなければならない。

 その理由を言えといわれてもうまく言えない。それは今日が土曜だからか、相手が桜子だからか。それとも全く別の理由からか。

「あなたの夢を見たの。あなたはなかなか私の夢には出てこないから、私は夢を見ながら驚いたの。えっ!とか声を出したかもしれない。
 夢の中で。その日は朝から雨が降りつづいていたの。私は買い物にも行かないで、部屋の中で本を読んでいたの。
 すると誰かがドアを乱暴に叩くから、のぞき窓から覗いて見ると、あなたなの。あなたは薄汚れたレインコートを着て、青ざめてた。
 あたしはあなたを抱えるようにしてソファに座らせて、おなかすいてるって聞いたの。そしたら喉が乾いたって。それで私がジントニックの準備をして、部屋に戻ってみると、あなたは寝ちゃってたの。目の下に隈を拵えて、唇はがさがさに乾いてて。
 それで、私はジントニックを持ったままあなたの隣に腰を下ろしたんだけど、なぜだか分らないけど、あなたが誰か人を殺してきたのならいいのにって、思ったの。
 人殺しのあなたが警官に追われて、逃げて、行きついた先が私の部屋ならいいのにって思ったの。私はあなたを匿って、秘密を持つの」

「俺は誰を殺したんだろう」
 桜子は黙った。

 俺は誰かに聞かせるかのように大きなため息をつきながら、オーネット・コールマンの「チャパカ組曲」のA面にレコード針を落とした。とりとめのないオーネットのアルトサックスが艶やかに部屋中に解き放たれる。ただ美しいだけの音楽。音がただそこで輝いている。濡れて、まるで命があるもののようにのたうち、そして消えて行く。

 この音のように、今日の待ち合わせの場所に登場すると言うのはどうだろう。くねりながら、のひょひょんと。受けるかもしれない。
「受けるかもしれないな。しかし気分が悪い」と、口に出してみる。俺は、気分が悪かった。

 しかし俺は待ち合わせの時間より早く、その場所に行こうと決めた。俺がその場所についた時、桜子が俺を待っているというのはとてもやりきれなく感じたからだ。
 俺はシャワーを浴び、身仕度をし、鏡をのぞきこんだ。中年じみた俺がいる。俺は黄色い歯を剥き出しにする。白くただれた舌を思いきり出してみる。少しもどしそうになる。
  
  N駅につくまで、電車を2本乗り換える。土曜の朝である。駅からなだらかな丘が続き、住民のための広場が拵えてある。ハンバーガーショップや美容室が並び、図書館もある。俺は広場のベンチに腰をおろし、煙草をくわえた。
  昨夜のアルコールがまだ残っているせいか、頭は重く考えは取り止めがない。まだ10時前と言うのに太陽は熱く、とても5月の陽気とは思えない。5台ほど広場の内向きに並べられたベンチには、5人ほどの先客がいた。朝刊を広げ、短くなった煙草をしつこく吹かす老人。携帯のメールを真剣に操作する少女。日本茶のペットボトルの額にあてて、物思いにふける主婦。

 マクドナルドの硝子を鏡にして簡単に髪を整える。一瞬目の錯覚かと思ったのは、そこで向かい合う少年と少女を硝子越しに見たからだ。彼等はじっとおたがいをみつめながらそれぞれの手のひらを合わせてで硝子のコップを支えていた。少しでも手の力のバランスが崩れればそのコップはテーブルに落下し、壊れてしまうだろう。俺はタバコをくわえると、その様子を、そう、目をこすりたい気持ちで見つめなおした。

 少年と少女に表情はない。ただ、相手の瞳の中にしか関心はないようだった。俺は何かしらの意味付けをしようとしている自分を感じた。
 水の入った透明のグラス、それは何をイミするんだろう。
 落としてしまえば粉々に割れてしまう水の入ったグラス。
 少年と少女のまだ充分には汚れていない手の平、それは何をイミするんだろう。
 お互いの手の平を合わせてそれを支えることに、どんなイミがあるのだろう。
 俺はそれらが全て分っているような自分を見つけた。そしてそれは全くつまらない発見で、日々意味を求めて生きている自分というドラマの中の端役であると言うことに気がついただけだった。俺は気分が悪くなった。俺はその場所を離れた。

  歩きながら俺は昔読んだ短編小説の印象が突然沸き起こってくるのを感じた。それはとある丘での会話が続く、ほんの掌編であったのだが、なぜか記憶の底にしつこく生き続けていたのだろう。男と女の話で、それを読んだ当時俺はまだ中学生だった。理解できるはずもないお話だったのだが、なぜか強く印象に残った。男と女は不倫の関係であり、女は、たしかまだ少女のような年だったのか、あるいは精神的に少女のような幼さだったのか。男と女の別れ話のようでもあり、その関係のどうしようもなさを嘆く風でもあり、しかし淡々と男はその関係を見ている。「最初から無理だった」という台詞があったかもしれない。「こんな子供が子供を産むなんて」と言うような台詞もあったように思う。

 俺は、まだ中学生の時分に、なぜこのような小説を読み、なぜこれほど忘れられないのか。

 男は女の子供の父親なのか、それとも女が男と別れて後に結婚した男との間の子供なのか。これから産むのか、もう産んでしまっているのか。そういった事も語られていなかったように思う。
 俺は桜子の発情した時の体臭を思い出している。それはまるで獣じみたものだった。ジャングルの奥から漂ってくるかのようなその匂い。

 右手の指を不意の痛みが走った。俺は短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
 「私なんか?ワタシ的には?笑わせる。私なんてどこにもない!」
 突然の怒声に俺は腰を浮かせた。広場から丘に向かって林が広がり、その向うには小学校や、企業の研修施設があるのだが、そちらからその声は聞こえた。
 「…ないんだよ、悪いけど」

 浮浪者じみた男だった。黒いだらりとした上着をはおり、蓬髪、黒ぶちのメガネをかけている。妙に口跡よく、通る声なので、その一言一言が耳に残る。「だから、死なないで下さい、と。生きてください、と。自分を愛して可愛がってやってください、と」明らかに相手がいる話しぶりなのだが男の回りには誰もいない。
 「憎しみは何を生み出しますか?そう、憎しみは憎しみを生み、更に加速度的に純度を増して行くんです。ただ憎悪だけが形となり、堅く、その立像のように立ち尽くしている」
 男が指差す先には、少女のブロンズ像が所在なげに立っていた。それはあどけない少女が右手の甲を上にして何かを迎えるかのように前方に差し出していた。
 タイトルは「おとずれ」とある。一体何が訪れると言うのか。

 男はショウウインドウの中の自分に向かって、広場に立つ誰かに向かって、話しかけている様子だった。「死ぬな死ぬな死ぬな。全ての死は犬死です。それと同時に、殺すな…」
 俺は2本目の煙草に火をつけると、視線を逸らせながら男の声に耳を傾けた。

「おかしいよ。今の子供はって。他人事さ。中学生で、おまんこするのは当たり前だ。制服着て、ネクタイ締めた、立派な大人に、ホテルでおまんこさせて、2万円。ないしは3万円。親に買ってもらったスマートフォンで、客を取って、2万円。ないしは3万円。電車の中で、大股を広げて、短いスカートの中からパンツを見せて。

「挨拶がわりに人を殺すし。鉄パイプで!人を殺すし。で、なぜ殺しちゃいけないんですかって。どうして人が人を殺しちゃいけないんですかって。

「子供が子供を殺すし。子供が犬や猫を殺すし。親も殺すし。こんなんじゃなかったって。昔はこんなんじゃなかったから、最近の子供はおかしいって。

「違う!それは、違う。それは大人が餌食にしてるからだって。大人が子供を狂わせてるからだって。この日本だけだって、大人が子供を食らう国は。アメリカが食いますか?中国が食いますか?食いませんよ。食いません。日本だけなんです、日本だけ。

「狂わせるだけ狂わせて、食うだけ食って、子供がおかしいだと。心の闇だとしゃらくさいって。

「俺は見てるからな。今までずっと。あそこの公園で毎晩毎晩何がやられてるか。俺は一部始終を見ているからな。ここの美容院の、その、男が、そこの公園で何をしているか。ははは、こっちを見てる。こっちを見てる。そうだよ!お前だよ!なんだ、聞こえるのか。ガラス越しに聞こえるのか?ははは、は。見てやがる、睨んでやがる。そうだよ、それがお前のあの時の顔だよ。ははは。作り笑顔はどうした。どうだ!旨かったか。あの肉は旨かったかって聞いてるんだから答えてみろ。ははは。なんだ、営業妨害か?上等だよ。そう言うお前は、食ってるじゃないか。うまそうに、食ってるじゃないか。塩も醤油もなしだ。それじゃ食われた人間の尊厳なんかない!」

 「ねえ、あれなによ。」桜子は初夏らしく、胸元を露にした黄色のブラウスを着て現れた。
 「なんか、さっきから演説してるんだ。何かねえ、浮浪者じみているんだが、辻説教師みたいなんだ。今の子供がおかしいんじゃなくて、いや、おかしいんだけど、その原因は大人にあるんだってさ。なかなかいいこと言うと思わない?」
 「ふうん。新聞の社説みたい」桜子はあまり関心のなさそうに男を見た。
 「なんか、賢者みたいじゃないか?ねえ」

 「だから食ってる現場を俺は見たから、貴様が」
 「おっさん、いい加減にしてくれよ」
 美容院の中から、先程から賢者に挑発されていた男が出てきた。右手には鋏を持ち、音を立てて動作させている。それは見ようによっては賢者を威嚇しているようにも見える。
 それは通りを歩く人達の関心を集めたと見え、俄かに5、6人の見物客が遠巻きにした。

「ねえ、もう行きましょうよ。賢者だかなんだか知らないけど、あなたなんだかおかしいわよ。ただの浮浪者じゃないの。それも少しおかしい。あなたの中の何かは彼に共鳴しているの?」
 「まさか。俺は意味のないことが好きなだけだよ」
 俺達は立ち上がり、広場を後にした。桜子は微笑み、俺の腕に絡みつき、その張りのある胸を押しつけてきた。

 「アナタガワタシヲコンナニシタンダカラネアナタガワタシヲコンナニシタンダカラネ」
 俺は今日もその呪縛の中でもがいた。そうだったのだろうか。ほんとにそうだったのだろうか。お前をそんなにしたのはこの俺なのか。桜子は年齢相応に脂肪のついた身体を俺にこすりつけながら、俺に呪文をかけようとする。
 俺はもうどうなってもいいと思い始めている。

  あの小説の語り手は中年の男だと勝手に思いこんでいたが、実のところどうだったのだろう。幼女のような素振りを見せる、あるいは幼女のように幼い精神の女との密会。それも室内ではない。あの2人は外で逢っていたのだ。たしかそうだ。男は羽蟻の巣を見て、再びこういうのだ。
「こんな、子供のような、女が、子供を持つのは、所詮無理だったのだ」
 あるいは「子供を産むのは」だったかもしれないが。

「ねえ、あなた、何考えているの?」
桜子は怪訝そうに俺の顔を覗き込んだ。俺は不意に嘘を並べる。
「変な夢の話があって、ある男が何物かから逃げていて、もう必死なんだが、ふと前を別の男が同じように逃走しているのが見えた」
「で?」
「男はその男に追いついた。で、その男を抜き去る瞬間ちらとその顔を見たら、その男は自分だった」
「それはあなたの夢なの?」
「いや、昔読んだ小説だと思う。あるいはそんな場面はなかったのかもしれないが。ただ、自分の背中を見るといった夢だったのかもしれない」
「自分の背中は見えないわよねえ」
「自分で自分の背中は見えない。当たり前の事なのだ。そこで、それは夢だと気づくと言う話だったと思う」
 しかし、それは本当にあり得ない事なのだろうか。
自分の寝顔は見た事がない。
「それは何かの寓意なのかしら。」
「夢だからね。寓意であり、メタファーなのかもしれないね」
「あなたは昔の夢とか見ない?音楽をやってた頃の夢とか」
「見ないね。そういう事はない」
桜子は煙草に火をつけ、俺に回した。俺はそんな世馴れたような仕草が好きではなかった。
「少年の頃のことは、夢に出る時があるが、その頃の夢は見ないな」

 それは本当の事だった。俺は大学を卒業してしばらくの間、職に就くことなくギターを弾いていた。場所は大学時代からよく通っていたバーで、店の片隅でギブソンの箱物を抱えて即興のジャズらしきものを弾いていた。
 当時は騒然とした時代が終わり、皆が「反体制」といった仮面をひとまずは取り去って、暖かい巣の中へ帰っていった頃だった。俺は大学時代のバンド仲間に裏切られ、1人で音楽を杖にして行く事に決めていた。

「でもあたしは、その頃の話を聞くのが好きよ。あなたが1人でギブソンのフルアコを抱えて、誰にも耳を傾けてもらえない音を一つ一つ紡ぎ出して行くの。ねえ、ほんとに全部即興で弾いていたの?すごいじゃない?ねえ、でも本当はラウンドアバウトミッドナイトとかもじったりしなかった?」
「もじらなかった。もじれもしなかったんだ」
桜子はその胸を俺の背中にこすりつける。若い身体だ。俺より10も若い。
「そして男はこう言うんだ、お前のような子供に、子供を作るのは、無理だったんだよ」

 桜子は、クククと、声を殺して笑った。胸が液体の詰まった袋のように俺の背中でゆれた。
「子供なんてつくんないわよ。馬鹿ねえ。ねえ、その頃の話しをもっとして」
 俺は黙った。

  俺はまるで他人の夢の中をさ迷い歩くようにその小説のことを思い出そうとしていた。
 男はその女を呼び出したのだろうか。それとも女が無邪気に男の勤務先を訪れたのだったろうか。樫の木がある。樹齢何百年と言った古い巨木が思わせぶりにうねって立っている。
 女はその木陰にしゃがみ何かをしている。枯葉か何かを手のひらに乗せている。
 そしてそのなかに一匹の蟻がいて、女は嬌声を上げるでもなく、それに見入っている。
 羽蟻だよ、と男が言う。この丘には羽蟻がいるんだ。女は男を見上げ、ああ、ああと頷く。それはなにかの隠喩だろうか。男は医者か。白衣を着ている。白衣のポケットに両手を突っ込み、少し投げやりな態度で女を見ている。迷惑そうでもある。

 「あたしがここに来たのはね」女は手についた土を払いながら立ち上がった。
 男はポケットから煙草を出して、横顔を女に見せながら咥える。聞きたくないというようにも取れる行動だ。男は彼方に見える白い洋館、それは多分男が勤務する病院だろう。男は精神科に勤務している。女は言葉を続けず、男を見ている。男は視線を合わせない。男は煙草の煙をけだるく目で追う。  実際、やりきれんな、と思う。

 「君はもうここに来てはいけないんじゃなかったかな」
 女は、わからないと言う風に小首をかしげ、はにかんだ。夏物の白いブラウスとスカートが風にゆれている。かぶっているつば広の帽子も白い。全体が何か透き通った印象を与える。全身が風で揺れている、
 が、そんなに強い風が吹いているとも思えない。

 「あたしがここに来たのはね」
女は男から視線を外そうとはしない。男は煙草が苦いと思う。

 「あなたのせいなのよ。ああ、あなたのせいでこんなになるんだから」
 桜子を初めて抱いたのはいつのことだったか。桜子まだ20代だったはずだ。俺達はまるでそうなるのが当たり前のように抱き合い、性交を重ねた。
 桜子は男性経験が豊富とは言えなかった。俺は技巧を凝らし、桜子を自分のものにしようと努めた。俺はその時桜子を失うことを恐れていたのだろうか。桜子はやがて恥じらいを脱ぎ去り、みずからも貪欲に俺をむさぼり尽くそうとした。

 行為のさなか、桜子は苦痛に喘ぐように顔をゆがませながらも、その視線を俺から逸らす事はなかった。
「あんまり見られるのもなあ」
「見たいの。私はあなたのどんな顔も見ていたいの」
 俺は時に嗜虐的に桜子を責めた。

 ある時行為の過程でその白い喉を両手で軽く締めた時の桜子が、およそ狂的とも言える反応を示した。信じられない、という風に顔を左右に振った後、恐ろしいほどのうめき声を上げながら桜子は快楽の中へと落ちていき、俺はまるで誘われるように両手に力を込めた。

「死ぬかと思った。」事後、桜子は笑いながら言った。「殺されてもいいと思った。あなたなら、殺されてもいい」
 俺は殺そうと思っていたよ。この手のひらにお前を絞めた感覚が残っている。
 何事にも最小限の故意は必要なんだ。お前は俺の憎しみさえ快楽にすり替えて貪り食おうとする。

 「苦しいんだけど、意識が薄れてきて、そのさなかに死ねるのなら、て、思ったの。そうしたら苦しさが遠のいて、いったの」
 桜子は遠くを見つめるようにして言った。「死んでもいいって思ったの、はじめてよ。あなたは?良かった?」
 良かった。殺すことが出来たなら、なお良かった。

  「私がここに来たのはね、か。その先が思い出せない。いや、その先の台詞はあったのだろうか、それもわからない。その小説の結末さえも、思い出せない。しかし、俺はそれを思い出さねばならない。義務感?そうだろうか。
 あの男、白衣を風になぶらせながら苦い煙草を、吸いたくもないのに、ふかし続ける、あの男。
 その表情が見たい。苦痛か。苛立ちか。女の魂を我が物にした充足か。女の未練に対する蔑みか。後悔か。嫌悪か。

 男は髪を掻き上げ、ため息をつく。女はなおも男を凝視したまま動かない。その唇から出る言葉を想像している。それは、別れの言葉か、軽蔑か、哀訴か。
 漫画で言うと台詞のないフキダシがいくつか女の口許から吐かれている。また一つ、しかしやはりその中には何もない。男は女の目を覗き込む。首筋には静脈が浮き出るほどの肌の白さである。

「             」女がその言葉をもう1度繰り返す。

「             」

男は不意をつかれ、後ずさりする。女は吹き出してしまう。「             」
 女は、声を立てて笑い始める。その華奢な身体に似つかわしくない、むしろ野太い声である。男は、これは夢ではないかと考え、それは男の持つ本質的な弱さを暗示させる。女はなおも笑いつづける。男は地面に膝を折り、深くうなだれる。女はその細いひとさし指で男を指し、それは断罪するようにも、新たな使命を与えるようにも見える。男はもう1度目を上げ、女を見る。女はその姿勢のまま、まっすぐに男を見下ろしている。

「私がここに来たのはね」
「本当のことを言ってくれ」
「本当のこと?」

 女はもう声を上げて笑う事はない。ただ緩やかな笑みを口許に浮べ、顔を軽く左右に振るだけである。男はこの女からは離れられないと直感する。

 「若い頃は、セックスって言うのはもっと気持ち良かったんだ。その瞬間はまるで内臓が溶けてペニスの先から噴出するような、いや、大袈裟ではなく、それくらいの快感だったんだが。」
「今は違うと言いたいの?」
「どうかな。それが来る時と来ない時とがある感じなんだ。たしかに、昔ほどじゃない。それに取りつかれるような、脳髄がしびれるような快楽はなかなか来ないね。女は逆らしいな。年々、良くなる。年々、深みを帯びてくるらしいね」
 桜子は含み笑いをしながら否定も肯定もしない。
 「来るとか来ないとか、なんか変よねえ。何かがやってくる感じなの?」
「今のは無意識に言ったんだけど、たしかにそんな感じだな。何物かが来る、という感じ。所詮セックスなんて粘膜と粘膜の擦りあいじゃないか、有体に言えば。露骨に言えばね。そして何のためにするのかと言えば、その何物かを出来させ、それに自分をゆだねるためなんじゃないか。あの快楽が一生持続すると想像してごらん」
 桜子はそれを想像しているようだった。
 「気が狂うぜ」
 桜子の息が荒くなり、おれのペニスに指を絡めた。
 「狂いたい。狂わせて」桜子は大きく口を開け、肉薄の舌を伸ばし、俺の顎先から耳にかけて丹念に舐め上げた。

 桜子はここを出れば、表通りで誰かに見せつける様に俺の腕にしがみつくだろう。そして、20年ほど続いているビアホールで生ビールを注文する。何種類かの食べ物を注文する。そして美しい昆虫がまるで悪食であるかのように、食べ物を咀嚼し、唾液と共に飲み下してしまうだろう。
 それらの嚥下された食べ物は桜子の皮下脂肪となり、その乳房も尻も更に爛熟したものにするだろう。
 
 そして桜子は俺の腋の下から顔をねじ込んで腕枕をする形になった。
 俺は女の首を右手で掴んだ。女は目を瞑り、むしろその喉元を俺に向けて突き出すような姿勢を取った。俺はその柔らかい骨をまるでいとおしむように緩く揉んでみた。女は俺を一瞥するとゆっくりと目を閉じ、少しあえぐように唇を広げた。
 薄い口紅の隙間から、艶やかな白い歯がのぞく。俺は素早く上体を起こし、左手をそれに添えた。

  ホテルを出ると太陽がまだまぶしかった。行為のさなか俺達は明かりをつけなかったからなおさらだ。俺は公園へ向かう緩やかな坂道を歩いていった。夕食の買い物で、道はにぎわうであろう時期だった。
 
「神様ってほんとにいたんだね」
「あの人、前からいるよ。気がつかなかった?」
それは黄色い帽子をかぶった幼稚園児の会話だった。
「全然。あんまり外で遊ばないし」
神様。それはあの賢者か。
「でもこれからは毎日見えるじゃない?」
 いつのまにか賢者は神様に格上げされていた。俺はまじまじと両手の平を眺めた。もちろんそこには一滴の血も付着してはいない。血は出なかった。
 ただ吐寫物がゴボゴボと流れ出た。
「でもうちのママはあの神様のこと、危ない人だって」
 2人は弾けたように笑い出した。
「馬鹿じゃないの。ひとんちのママに悪いけど」
「はは、でもそうよね。馬鹿かもしんない」
「危ない人」
「アブナイヒト」

 そして彼女等は「馬鹿」「ばか」「バカ」「BAKA」とお互いに言い合いながら笑い崩れ、徐々に透明度を増し、そして消えていった。
 足元には黄色い帽子が残された。

 公園のベンチに腰をおろし、煙草を咥えようとしたが、両手は虚脱し、全く力が入らなかったので煙草を足元に落としてしまった。そしてその事が先ほどの行為の動かぬ証拠のように思え、思わずまわりをうかがった。
 先ほどの賢者がいた辺りでは数人の小学生が賑やかにゲームの話をしている。学習塾の帰りか。この公園の周辺には雑木林を切り開いてたくさんのマンションが建てられており、彼等の大半はそこの住人なのだ。おそらくはここで帰宅前の僅かな時間を友達同士のお喋りで過ごし、夕食時に合わせて帰宅するのだろう。

 彼等は自己防衛のために防犯ブザーを持たされていると言う。いつか新聞で読んだ。この近辺でも子供を狙った犯罪は少なくないのだ。子供の前で局部を見せつける大人、子供を小脇に抱えて連れ去ろうとする大人。
 また、親達は自警の組織を作り、交替で子供等の警護に当たっているとも。
 俺はもう1度手の平を広げて見つめた。大丈夫だ、問題ない。
 腕の筋肉がまだしこっている。普段は滅多に使わない筋肉なのだ。
 しかし暑い。「暑い」と、俺は口に出してみる。「気分が悪い」とも口に出してみる。俺は萎えてしまった両腕をゆっくりと揉み解しながら、立ちあがった。貧血のように少しよろめいた。俺の影は長く子供達の方に伸びていた。

 俺はのろくさと子供達の方へと向かって歩き始めた。歩みはやがて駆け足になり、喉の奥から他人のもののような唸り声が出ているなと思った。

 遠くで悲鳴が聞こえた。

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