見出し画像

分岐点

=f(負債論&ブルシット・ジョブ&財政赤字の神話)For
①国民と国は一心同体か別人格か
②貨幣とは何か
③私たちはなぜこんな世界に生きているのか


AIよAI、世界で一番美しいのは誰?
ChatGPTが答えます。

「世界で一番美しい人」は、主観的な基準によって異なります。つまり、誰が最も美しいかは人それぞれの意見によって異なるということです。また、美しさには様々な要素が含まれるため、外見だけでなく内面的な美しさや文化的な美しさなども考慮されることがあります。そのため、一般的な答えはなく、それぞれの人が自分自身にとって美しいと思う人を見つけることが大切だと思います。

AIにも本音と建前ってあるんでしょうか。ないんでしょうね。
それはさておき、私がこの日ChatGPTのアカウントにログインしたのは、「山あいにあるのどかな村の描写」をお願いするためです。

山あいにあるのどかな村の描写を以下に示します。
まず、山々に囲まれた村は、美しい自然に囲まれた静かな場所です。朝は、鳥のさえずりが聞こえ、空気はとても新鮮で清々しいです。村の中心には小さな広場があり、そこには村人たちが日常生活を送っている光景が見られます。家々は、簡素ながらも美しい伝統的なデザインで作られており、木の香りが漂います。
村人たちは、朝早くから田畑に出て、野菜や米などを栽培しています。田畑の周りには、牛や羊などの家畜が放牧されており、その様子を見ると、時間がゆっくりと流れているように感じられます。
村の中には小さな商店やレストランがあり、地元の食材を使った美味しい料理が楽しめます。また、小さな川や池があり、そこでは釣りを楽しんでいる人々や、子供たちが水遊びをしている姿が見られます。
夜になると、星空がとても美しく、静かな村には虫の音や川のせせらぎなどの自然の音だけが聞こえます。村人たちは、夜には家族や友人たちと一緒に食事をし、おしゃべりを楽しんでいます。そして、静かな夜を迎えます。
以上が、山あいにあるのどかな村の一例です。

素晴らしい。ここまで丁寧に返してくれるとは。自力では三行とて埋めることはできませんので、AI様には感謝するよりありません。
さて、以上で村のありようは見えたとして、次はこの村をワンクリックで選択し、コピー&ペーストいたします。並んだ二つの村のうち、片方を村A、もう片方を村Bと呼びましょう。
そんな村Aと村Bを、ある日大型の台風が襲います。どちらの村も同じように被災して、それぞれの川にかかったひとつきりの木の橋も、同じように流されてしまうのです。
台風明け、村Aの村人たちは、村内の被害を手早く点検したのち、壊れた橋もいくらもかからず直します。ところがそこに村長Aが登場しまして、もっと頑丈な橋を作るべきだと、村人たちを説得するのです。
「どんな嵐に遭っても流されたりしない、石造りの立派な橋を造ろうではないか」
かくて村Aの村人たちは、石橋を造ることとなりました。完成までは五年の予定です。小川の橋に五年もかかるかですが、数字は単なる話の都合です。同様にこの先、時間の前後や村の広さや造り、村人の人数や物品の調達等々に矛盾が生じたとしても、あまり気になさらないようにしてください。またいずれの村の村人も、性別による役割の区別は想定されておりません。
さて、村Aで働き盛りの成人はみな、山ひとつ越えたところにある採石場へと向かいます。そこで切り出された石をひとつずつ、二人がかりで川まで運ぶのです。一日の終わりにはみなくたびれきって、口を開くのも億劫ですが、そんな村人たちを村長Aは、毎日のように頼もしい声で励ますのでした。
「この橋が完成すれば、村じゅうが便利で豊かになる。みんなで使う橋だから、みんなで力を合わせて作ろうではないか」
みんなのためと言われれば、誰も自分だけ休みたいとは言えません。以前ののどかさはどこへやら、一転して過酷な日々となりました。
とはいえ、家にいるのが子どもと老人だけでは、田畑も荒れがちになってまいります。それでは困るということで、成人のうちでも半数は、農耕に戻るべしとなりました。これによって橋の建設期間は、二倍の十年に延びる計算です。
またおそらくは過労のためでしょう、病気や事故も頻発するようになりまして、人手はますます足りなくなって参ります。三分の一なら完成は十五年先に、四分の一なら二十年先にというように、村Aの村人たちの重苦しい毎日は、永遠に終わらないかのようでした。

一方、村Bはどうかといいますと、こちらもみなで木橋を直すと同時に、やはりもっと頑丈で立派な石橋を造ることとなりました。村人総出で五年がかりで建造するのも、村Aとまったく同じです。そのように二つの村は何から何までそっくりですが、ただ一点、村Bの村長Bだけは、村長Aとは似たところはありません。
村長Bは橋の完成が待ち遠しいふうでもなく、村人たちを励ましたりもいたしません。その代わりでもないですけれど、村長Bは橋で働く村人たちに、「今日一日、よく働いたことを証明する」などと記した労働証明書を発行するのです。
そんな証明がいったい何になるのかですが、実はこの紙切れと引き換えに、村のレストランで食事ができるとの約束です。レストランといっても村で一軒きりの小さな食堂ですが、そういうことならと食堂の主人は石切場から飛んで帰って、すぐさま店を開けました。
疲れた村人たちを温かい食事でもてなしたあとのテーブルには、残された御食事券が山積みです。
「客は採石場で一日働いて、一食を得る権利を手に入れた。この紙切れは、その権利を証明するものだ。ならば客をもてなしたこの私も、それと引き換えに何かをもらえる権利を得たはずだ。今ここにある紙切れは、その権利を証明してくれるものだろう」
そう考えた食堂の主人は、紙切れを袋に詰めて農家を訪れ、明日のメニューのための食材と引き換えてくれと頼みます。紙切れがそれだけあれば、食堂の食事を今度は一家で味わえて、大人は酒さえ飲めるでしょう。そんな勘定をした農家の主人も、余った作物を喜んで差し出します。そんなやり取りが村のあちこちでなされるうちに、飲食店も増えてきまして、作物の需要もさらに高まります。ならばと村人たちは次々に、採石場を捨てて田畑へと戻るようになりました。
かくて村Bの橋の完成も、十年先、十五年先へと延びる勘定です。だからといって村Aのような悲愴さはありません。増えた食堂は紙切れをどんどん受け入れて、作物をどんどん仕入れます。どの村人もそれぞれに得た紙切れで、村の仕立て屋や靴屋といった専門店にも仕事を頼むようになりました。
それらの店も、もともと腕に自信のあった者たちが、腕前を紙切れに変えるべく、新たに開業したものです。紙切れがなくとも頼まれれば喜んでやっていたことですが、己の役立ち度が紙切れで数値化されるとなると、これが大変励みになるのです。そんな具合で村Bでは、紙切れを介して誰もが誰かの役に立つほどに、よい暮らしができるようになりました。

こうなると村Aの村人たちも、同じ紙切れを発行してくれるよう、村長Aに頼まないではいられません。ところが村長Aはこの要請を、聞いたその場で断ります。
「みんなで使う橋なのだから、みんなで力を出し合って造るのだ。対価など求めるべきではない」
そんなふうにあれこれ言って首を縦には振りませんので、村人の中でも過激な者は、村長Aを殺して首を挿げ替えようなどと、本気とも嘘ともつかないことを申します。これを聞きつけた村長Aは、私設の警備隊を組織しまして、これが村Aの親衛隊のはじまりです。そうするうちに村Bへと逃げる者も現れまして、そうした逃亡者やその家族を捕まえるのも、親衛隊の主要な役割となりました。
ですが捕まえても捕まえても、逃亡者は減りません。村人がいなくなるのでは、橋など以前に村自体が潰えてしまいます。それではマズいということで、村長Aは村Aの周囲に高い塀を建設し、村人たちを囲い込むことに決めました。
村Aの村人たちは、橋に加えて塀までも、奉仕の作業を強いられます。すると村長Aの分家の者が、橋や塀での作業に対して、村Bの紙切れに似たものを独自に発行しはじめます。ところがこの分家の人は、ほどなくして行方知れずとなりまして、失踪前には自身の田畑を村長Aに譲るとの証文を残していたとも伝わります。それらの田畑はじきに親衛隊のものとなりましたので、すべては村長Aが親衛隊を養うために企んだことに違いない――そんなふうに騒いだ者も、翌朝には姿が見えなくなりました。
どうにも不幸な村Aですが、やはり不満が大きいのは、終わりの見えない橋での重労働でしょう。そこで村長Aは、村人たちが収穫の一部を村に収めるならば、労働は免除しようと言い出します。集めた財で専門の業者にやらせれば、みんなで造るのと同じことになるからと。
村人たちはこれに同意し、やれやれと田畑に戻ってゆきました。とはいえ収穫を収める「村」というのも、つまりは村長Aの蔵なのです。依頼を受ける建設業者も、村長Aの身内です。そのように村長Aは、村の代表と同時に一族の長でもありましたので、そんな村長Aの二面性がパイプとなって、村の財は村長Aの一族へと、どんどん流れはじめます。
村に収める財=税も、当初は収穫の一割だったのが、じきに二割三割と上昇し、遂には五割を超えました。ところが村長Aにいわせれば、橋の建設をはじめ村のみんなでやるべき協同作業を業者に肩代わりしてもらうには、まだまだ足りないというのです。なので足りない分は将来の収穫につけるぞと、こちらのほうは実に熱心に書きつけます。「どこどこの家はいついつまでにあといくら」などと記された証文は、一族の非常に好むところとなりました。村長Aに新たな証文を書かせるだけで、収穫が転がり込んでくるのですから、笑いが止まらないとはこのことです。
証文の一部は親衛隊の面々にも、報酬として配られます。ですので村人たちは親衛隊にも借りがあるような具合です。そのせいでしょう、親衛隊は村人たちの働きぶりを監視しないではいられません。怠ける者は借りたものを返さない者、すなわち自分から盗む者であるとして、もはやつかの間の休憩さえも許せないような具合です。村人同士の談笑なども、いつしか禁忌となりました。負債を抱えているくせに、幸せそうに笑うとは何ごとかというわけです。
村Aの村人たちは、働く以前に生きる意欲も徐々になくしてゆきました。とにかく収穫の半分以上は差し出さなければなりませんので、働いても働いても暮らしは楽になりません。自殺も徐々に増えまして、特に病気や高齢でリタイアを余儀なくされた人々は、自分が死んで食い扶持が減れば家族は楽になるかもと、死を考えるようになるのです。
そうした間引きのような死は、親衛隊にはあからさまに歓迎されました。悲しみに暮れる遺族のもとに、村長Aの名前で香典めかした報奨が送りつけられもしたものです。病人や老人であることは、それだけで罪と見なされるようになりました。

ところで村Aの石橋は、いつごろ完成するのでしょう。工事が延びればそのぶん一族企業は肥え太る仕組みになっていますので、その完成を望む者など、どこにもいそうにありません。
とはいえ村長Aだけは例外でして、やはり橋の完成が待ち遠しいのです。そこで証文の乱発をエサに一族を急かした挙句、ある日とうとう念願の橋が完成いたします。
開通式には村人たちも招かれましたが、式典の締め括りには、それまで使われていた隣の小さな木の橋が、親衛隊の手で儀式的に爆破されました。この先使えるのは新しい橋のみということで、しかもこの橋を利用するたび、通行料として例の証文に新たな数字が加えられるというのです。
「それらもみな、村のために使われるものなのだ」
毎度のように「みんなのため」と言いますけれど、収めた税も証文も、村人たちの暮らしを潤すことはありません。
一方、村Bの橋はといえば、こちらは当初の五年もかかることなく、早々に開通しています。自身の労働を少しでも紙切れに変えるべく、農閑期には村人たちが殺到しまして、忽ちのうちに完成させたのです。従来の木橋ももちろん健在ですし、どちらの橋も誰もが自由に渡れます。
しかしそうして橋が完成したからには、紙切れの発行もそこで終わりになるかと思うでしょう。ところがそうはならないようで、村長B曰く、これからは橋よりもっと大事な事業に紙切れを出すと言うのです。その事業とは何かといえば、それは「村人が村人であること」です。村が村として存在し、紙切れが回ってみなが豊かになれるのも、村人たちがいればこそ。人とはただそこにいるだけで、誰にとっても価値がある。定期的に作られる紙切れは、その価値と対価を保証するものだ――そんな理屈のようでした。
そうして紙切れはそれから先も、持ち主が求める価値をもたらす相手に渡され、次にはまた別の価値を生んだ誰かへと、次々に渡されてゆくでしょう。たくさん役に立った人のもとには、より多くの紙切れが集まります。紙切れの分布具合は、持ち主がどれだけ他人の役に立ったかを、正確に反映するのです。
同時に誰かの役に立つ者は、別の誰かを役に立てる権利、誰かから価値を得る権利を手にします。その権利を行使することで、今日や明日を生きるのです。ですが病気や老いで他人の役には立てない人や、誰の役にも立つまいと決めたへそ曲がりでも、いるだけで村の役には立ちますから、そんな価値ある生存の対価として、紙切れは新生されるのです。
こうした村Bの紙切れ2.0の話を聞くなり、村長Aは「誰もが無条件に生きられるなら、誰も働かなくなるではないか」と叫んだと伝わります。確かに村Bの村人たちは、「必要以上には」働かなくなりました。もともとのどかな村でしたが、紙切れ以降は「働くことは必須ではなく、人生のオプションの一つにすぎない」との意識が徹底された感じです。体調が悪いとか、何となく気分が乗らないというだけでも、無理して働く必要はないのです。
そのように「必要以上には」働かない村Bにおいて、働くべき「必要」とは何でしょう。これには軽い必要と重い必要があるらしく、うち軽いほうの必要とは、働いて誰かの役に立ちたいという、人としての自然な気持ちです。そもそも働く云々以前に、健康であれば何らかの活動はするものです。長い人生、何もしないでいるのはむしろ苦痛です。ですので蒔いたり耕したり、あるいはほかの活動でも、慣れて得意なことならば、少々の紙切れがあったところで、やめる理由にはなりません。しかもその活動が他人の役に立つことなら、紙切れを通してより豊かに暮らせるようになるのですから、働かないでいる理由など、ますますもってないわけです。
なら重い必要とは何かといえば、こちらは村全体の物資の不足です。紙切れが意味をなすのも、それと交換できる価値や働きがあればこそ。役に立つ現物がないのでは、紙切れは本当にただの紙切れになってしまいます。ですのでそうした事態にならないよう、少なくとも生存のための物資や営みは常に十分あるようにと、村長Bも村人たちも、それは気を遣っているのです。
ひとたび何かが足りないとなれば、ふだんは暇がちにしている者も、問題解決に向けて奔走しはじめます。たとえば薬草を商う者が倒れることは、本人や家族の苦悩はもちろん、村にとっても頼りにできる薬屋を失うことを意味します。跡継ぎがいればそれでよし、いなければ誰か一人は同じ職業に就かねばなりません。そのためにも技術の記録や伝承は必須ですので、読み書き計算は子どものときから学びます。各々が村の問題を共有し、短期長期の解決法を考え続ける、そうしたなかで村Bののんびりとした毎日は、わずかずつでも着実に、よいほうへと向かってゆくのです。
あるいは希望者がいるならば、薬屋にしろ何にしろ、何軒あってもいいのです。腕のいい店は繁盛し、悪い店は廃業するだけです。廃業しても飢えて死んだりはしませんので、チャレンジは何度でも可能です。村Bで誰かが真に飢えるとすれば、そのときには村の誰もが同じように飢えているはずです。
そういえば少し前にも、薬屋になり損ねた若者がおりました。幼いときから山の植物に親しんで、若くして薬草の商いをはじめたのですが、いくつかの不運と客あしらいの拙さによって、早々に店じまいを余儀なくされたのです。その後は口の悪い友人たちから「あのときのオマエの薬全然効かんかったわ」などとからかわれつつ、今日も山に分け入って、新たに見つけた植物に名前をつけたりしています。
村Aにいれば怠け者と罵られ、穴掘りでもさせられそうな若者ですが、村Bに生まれたからには、そうした生き方も可能です。平常時の村Bでは、価値あるものはむしろ作られすぎるほどですし、たとえばわずかな価値で過剰な紙切れをせしめるような不正行為でないかぎり、誰もが価値ありと信じることを、自由に追求できるのです。
とはいえ植物観察よりは、やはり田畑を耕すほうが多数派です。いずれにしろ村人たちの九割がたは、従来的な意味で働いておりますし、紙切れと交換しない・できない活動も、村Bではふんだんになされます。
ですので村長Aのコメントは、半分も当たってはおりません。にもかかわらず村長Aは、ほとんど反射的に「何もしなくても生きられるなら何もしないはずだ」と叫びます。これはおそらく「仕事Xをさせたい相手がXではなく活動Yをするならば、それは何もしないのと同じ」といった理屈でしょう。思いどおりの成果を得るには、「Xをしないでは生きられない環境」にしてしまうのが一番です。
村Bでも多少の才覚に恵まれた者は、より多くの人の役に立ちたいと、事業の拡張を考えます。ところが生きる心配のない村人たちを雇うとなると、相当の特典を提供せねばなりません。人気があるのは紙切れよりも自由度らしく、働き方は働く側の決めること、そんな気ままさと真剣さの釣り合うところで、経営を成り立たせる技術が要るのです。
その点、村長Aの一族企業の従業員は、暮らしの切迫に親衛隊の脅しもあって、最低限の生命資源を与えるだけで、実に真面目に働きます。ですので人を雇う立場の者には、村Aのほうが天国にも見えるでしょう。だからといって村Bから村Aに行きたがる経営者はいませんし、反対に塀を越えようとする村Aの村人は、相変わらず後を絶ちません。
その一方で村Aには、村長一族に与する村人もいるのです。そうした人は一族企業で班長みたいな役職に就き、親衛隊風に振る舞うことで、みなより少しだけよい暮らしをしています。村Aでは村長Aや一族に阿る努力が推奨されますし、他人の働きを摘み取る側に立てないのは、愚かかあるいは怠惰だからだ――そんなふうに責められることが専らです。
村Bが「働く&働いてもらう」の社会とすれば、村Aは「働かせる&働かされる」の社会です。しかも村Bの「働く」は人生のあくまで一部ですけれど、村Aの「働かされる」は人生の全部であるのです。

ある年の夏、村Aと村Bは同様に、深刻な旱魃に見舞われます。こうなると食べ物自体がありませんので、村Bの紙切れももはや用なしです。それで紙切れの使用はしばらく禁止となりまして、代わりに蔵が開放されました。こういうこともあろうかと、日ごろから保存食を蓄えてあったのです。そうしたことも、まさかの心配をする誰かの声が真面目に受け止められてのことでした。おかげで村Bでは誰ひとり飢えることなく、凶作の年を乗り越えることができました。
では村Aはどうかというと、村長Aは案の定、蔵を開けようとはいたしません。村人たちはいつものように、代表を立てて村長Aに訴えます。いつもは親衛隊が門前払いして終わるところを、このときばかりはさすがに側近の口添えもあって、村長室まで入れることとなりました。
金ピカの部屋に招かれた代表団の三人は、村長Aに「蔵を開けろ」と迫ります。
「ふだんから備蓄をしとけばよかったのに。やるべきことをしないで怠ける者を、村が助ける理由はない」
とはいえ、村人たちから貯蓄の動機や余裕を取り上げたのも、当の村長Aなのです。そもそも村Aの税額は、「みんなのためにどれだけかかるか」ではなしに、「みんなからどれだけ取れるか」で決まります。「あいつらにはこれだけあれば十分だろう」がすべてであって、余剰はすべて「村」すなわち村長Aと一族のものとなるきまりです。なけなしの蓄えも余裕とされて奪われますので、備蓄はむしろ有害でさえあるのです。
そんなところに飢饉が襲来したものですから、村人たちはまさに生きるか死ぬかの瀬戸際です。
「みんなのために集めたものなら、こういうときに使うのが筋だろう」
代表団にそう凄まれた村長Aは、塀の内側にある小さな蔵を、しぶしぶ開放いたしました。塀の外には一族の蔵がいくつも聳えているのですが、村人たちには知らされておりません。
親衛隊が「村長Aの寛大なる御心」などと持ち上げる蔵の開放も、長引く飢饉にはただの焼け石に水でした。だからといって追加の供給もなされません。村長Aと一族にとって、村人たちはただ働かせたい者であるだけで、生きてほしい存在ではないのです。
そんな具合で村Aでは、少なからずの人が死にました。同時に村長Aの姿も見えなくなったのですが、こちらは飢えたわけではもちろんなしに、ただ代表団に凄まれ蔵を開けたのが悔しくて、地下の御殿に籠もりきりとなったのです。この地下御殿も、建造に関わった者はみな行方知れずとなりましたので、その存在は側近や一族以外の者は知りません。
地下で家族や一族とともに贅沢に耽る村長Aが、次に地上に現れたのは、自身の銅像が除幕式を迎えたときでした。ゴマすり一派が橋の袂にこしらえた金ピカ像を、見たくてたまらなくなったのです。
親衛隊に二重三重に囲まれながら、村長Aはすでにくたびれた橋を背にして、金ピカの演台に上がります。その前に集まったというよりは集められた村人たちを見下ろしながら、村長Aが淀みなく披露するのは、像の由来でも自身の功績でもなくて、なぜか村Bに対する誹謗と怨嗟でありました。
「今日、私のもとに、村Bから助けを求める声が届いた。あの忌まわしい村には自由がない。人々は怠惰を強いられ、競争を禁じられ、自らの力や才能を伸ばす機会を奪われている。誰もが努力し頑張り競い合い、勝者は栄え敗者は去る、それが自由な世界というものだ。村Bのやり方に憧れるのは、卑しい怠け者だけだ。種を蒔かない者が横合いから刈り取るなどはあってはならない。働かなくても生きられるなど、人間の本性に背くおぞましい間違いでしかない……」
ほかにも村Bはアカだとかシャカイシュギだとか、いろいろ罵っていたようです。そうする間も村人たちは、村長Aの本心を測りかねておりました。演説は単に村Bの制度に共感する者への警告なのか、もしかして偽りの救援要請に応じる形で、村Bに攻め入るつもりではないのかと。
戦争になりそうな気配はありました。村長Aの姿が見えない間も、親衛隊は増強されて、軍隊のごとき訓練を重ねていたのです。飢饉のために収入の道を失いかけた隊員たちは、みな一様に目を血走らせておりました。
そうして村長Aがいよいよ結論を語るべく、拳を振り上げたまさにそのとき、その姿は不意に村人たちの視界から消えました。あとにはただ抜けるような青空があるだけで、まるで手品か魔術か、あるいは狙撃――などではもちろんございませんで、村長Aはただ単に、腰を抜かしていたのです。というのもこのとき、背後の橋が一気に崩壊いたしまして、その轟音と衝撃とには村人たちも驚きましたが、村長Aの狼狽ぶりは別格というか、それは無様なものでした。
崩落の理由は自然必然、すなわち工事の手抜きです。責任は一族企業にあるわけですが、そう言われても村長Aは納得できません。瓦礫から人骨が出たなどという怪奇な噂も立つなどして、すっかり脅えた村長Aは、自身の心に浮かぶ者を直ちに処刑させました。飢饉の折りにワシを脅した代表団、橋を爆破したのはあの三人に違いない――濡れ衣を着せられた三人は、みなと力を合わせて新たな木橋を造っていたとき、親衛隊の手で射殺されました。
喜んだのは責任を免れた一族です。このとき以降、どんな不都合も反対派のせいと言えばすむとして、まるで箍が外れたみたいに、どんな非道も平気でしでかすようになりました。
実のところ、演台の上の村長Aは、「これから村Bを攻撃するぞ」と宣言するつもりでいたのです。蔵の開放を強いられた直後は「村人全員ブッ殺す!」といったような気分でしたが、「村人がいないと蔵は満ちません」と側近から諌められ、ならばとほとんど八つ当たり的に、村Bに攻め入ることに決めたのです。
それで親衛隊には軍事演習などまでさせたのですが、橋の崩壊に肝を潰して以降は気力も萎えて、再び地下に潜ったきりとなりました。村Aの仕切りは側近に任されましたが、この者も一族の手先に変わりありません。言われるままに証文に利子まで加えもしましたので、村人たちの日々はどこまでも、苛酷さを増す一方でありました。

それにしても不可解なのは、村長Aが橋の工事に対する紙切れを、決して発行しまいとしたことです。当時の紙切れは「すでになされた働き」に対するもので、村長Aのいう「蒔かない種を刈り取る」ものではありません。村長Bがそうしたように、ただ紙切れにかくかくと記すだけでいいものを、村長Aは何ゆえに、頑なに拒み続けたのでしょう。
これについては側近も、そのように尋ねたことがありました。それに対して村長Aは、こう答えたそうですよ。
「そんなことをしたら、ワシの腹が痛むではないか」
紙切れをもらった村人たちは、食堂で飲食を楽しみます。このとき村Bの食堂の主人は、客の残した大量の紙切れを携えて、食材を仕入れにゆきました。ですが村Aの食堂の主人の場合も、同じことをしたとは限りません。むしろ紙切れを村長Aのもとに持ち込んで、飲食の対価を要求するに違いない――村長Aはそのように想像したのです。
そしてその想像は、おそらく正しいものでした。この紙切れは「持ち主が過去にどれだけ他人の役に立ったか」と、その役立ち度の対価として「未来にどれだけ他人を役に立てることができるか」を同時に証明するものです。このうち後者の「誰かを役に立てられる権利」となると、それと引き換えにどれほどの生存資源を手に入れられるか、すなわち持ち主の「生き残る可能性」に直結しますので、こちらのほうは何が何でも、必ず保証されねばなりません。昨日は交換できても今日はできないだとか、あの人はならできてもこの人にはできない等々と、交換基準がふらつくようでは、紙切れは正しく機能しないのです。
村長Aにそのあたりの信頼性があるのかどうか、少なくとも自分では「ない」と思っていたのでしょう。ですので食堂の主人も紙切れが紙くずにならないうちに、村長Aに返済を迫るに違いないとなるわけです。仮にそうでも村長Aに返済の意志はありませんから、少なくとも村Bのような紙切れは、村Aではやはりありえないのかもしれません。
その点、村長Bはある程度は、信頼の置ける人でした。とはいえすべての紙切れを購うべしと言われたら、いかに村長Bでも無傷ではいられないかもしれません。ですが紙切れはひとたび流通すれば、その信頼は村長Bの財産よりも、村の生産力に置かれます。村人たちがほどよく働き十分な価値が生み出されているかぎり、効用証券としての紙切れは、十全に機能するのです。

村長Bの正体は、実はAIなどとも言われます。もちろんそんなことはないですし、それに信頼できるといったところで、せいぜい「疑わしくない」くらいのことなのです。村Bの村人たちに言わせれば、とにかく影が薄すぎて、どうにも頼りにならない人だとか。
「まったく、オレたちがいなけりゃ村はどうなることか」
そのようにウキウキとぼやきつつ、村Bの村人たちは困りごとのもとへと駆けつけます。ある日もそうして村長Bを謗っていたところ、それがたまたま村Aとの境界近くで、こちらの声が塀の向こうにまでも聞こえたことがありました。
それに対して村Aの村人たちは、「私たちは村長Aを尊敬しています!」みたいなことを口々に叫んで寄越します。村長Aとはやけに立派な人のようだと、村Bの村人たちは感心すること頻りでしたが、あとでわかったところによると、村Aでは村長Aの悪口を親衛隊に聞かれたが最後、家族もろとも逮捕され、環境の悪い収容所で死ぬまで働かされるとのことでした。ですので塀の向こうで聞こえる村長Bの悪口も、自分たちの油断を誘うための罠だと勘違いしたのです。
「何でそんなおかしなことになるんだか、てんで想像もつかねえな!」
村Aの真実に仰天した村Bの村人たちは、まずはあの塀をどうにかすべきではないのかなどと、真剣に話し合ったりもしたものです。

こうして村Aと村Bの運命は、どんどん隔たってゆきました。その隔たりのはじまりは、やはり村長Aと村長Bの違いです。しかしその違いの本質とは何なのか、その源までも尋ねてゆけば、そこにはたかだか数千個の脳細胞があるのに違いありません。どの脳細胞がどのように働いて、何が生じて何が重なることで、かくも異なる社会や世界を作るのか――そんな疑問も尽きないものの、二つの村の物語は、とりあえずお開きといたしましょう。
村Aと村Bはもともと複製されたものですので、終わるに当たってはもとのひとつに戻します。いずれかを削除するわけですが、村Aと村B、どちらを消してどちらを残せばいいのでしょう。どちらを残そうと言ったところで、その希望は果たして叶いますでしょうか。残したいものが残らないなら、それはいったいなぜなのか――。
あるいは村Aでも村Bでもない第三の村Cなども、どこかにあるのかもしれません。
(終)

参考図書:
◆デヴィッド・グレーバー『負債論―貨幣と暴力の5000年』『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』
◆ステファニー・ケルトン『財政赤字の神話―MMT入門』
◆ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか―権力・繁栄・貧困の起源』


この記事が参加している募集

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?