見出し画像

日本三大酒処。広島県東広島市。グーグルマップをゆく㉛

 グーグルマップ上を適当にタップして、ピンが立った町を空想歴史散策する、グーグルマップをゆく。今回は広島県東広島市。

 江戸期、幕府は酒造業に規制をかけて酒株という免許を発行し、これを持たない者の酒造を固く禁じた。徳川幕府瓦解後の明治八年(一八七五年)新政府は酒株を廃止する。

 酒株が廃止になったことにより、酒造業への新先参者が殺到した。その中に、三浦仙三郎という男がいた。三浦仙三郎は弘化四年(一八四七年)、安芸国加茂 郡三津村(現在の広島県東広島市安芸津町三津)にあった雑貨問屋・清水屋忠兵衛の長男として生まれた。

 酒株が廃止された時、家業である清水屋を継いでいたが、それを弟に譲り、明治九年に酒造業に新規参入する。30歳であった。

 江戸期、三津村には藩内の年貢米を集積地して大坂の蔵屋敷まで米を輸送するという藩直営の御蔵所が置かれていたが、廃藩置県によって藩が廃止されるとともに御蔵所も廃止され、さらには納税も米からお金に変わったことで、集積していた年貢米を三津村の商人たちの手に委ねられることとなった。

 そこに酒株が廃止されることとなり、三津村では酒造業に新規参入するものが続出し、村内に五軒だった酒蔵は二十三軒にも増えた。

 仙三郎も店に回ってきた米を売る以外にどうするべきか悩んでいたのだろう。周りが酒造業に乗り出したことで、これは商売になると踏んだに違いなく、売りに出されていた酒蔵を買い取って酒造業に乗り出したのである。 

 酒造業を始めたとものの素人であり、開始から四年の間は火落などにより腐造を繰り返した。しかし、このままではいけないと一念発起し、自ら灘の酒蔵に修行に出かけ、一年間蔵人として働いた。そして、灘の酒造りの方法を持ち帰った。

 仙三郎は創業以来雇っていた杜氏たちを解雇し、灘から杜氏を招致して徹底的に自らが考える酒造りを推進し、広島県内での酒造業者間の関係を深めて組合も組織するようになる。しかし、納得いく酒ができなかった。この時、仙三郎は水が原因ではないか?と思っていた節がある。

 そんな中、組合で京都・伏見の酒造家を招いて講演会をした際、酒造で最も重要なことは水であり、硬水の水が適している。と話し、それを聞いた仙三郎は疑問が確信に変わったのだろう。三津村の水質調査を行った。軟水であった。

 水の硬度というものがあり、水に含まれるカルシウムとマグネシウムの含有量を数値化したもので、これが低いものが「軟水」、高いものが「硬水」とされる。調査の結果、広島の水は軟水であった。

 ちなみに、日本の水道水は、硬度が300mg/L以下になるように法令で定められており、一般的には50mg/L〜60mg/Lである。法令の基準としているものが石けんの泡立ちやすさであるらしい。

 結果、仙三郎は「軟水醸造法」を開発し、後にそれを記した「改醸法実践録」という本を出版して広島の酒造組合にも配布する。これによって、広島は日本三大酒処の一つに数えられるに至るのである。

 仙三郎の蔵元のメンバーに竹鶴敬次郎という男がいた。敬次郎の息子が日本のウィスキーの父と言われるニッカウヰスキーの竹鶴政孝である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?