新約聖書において「躓き」「罠にかかる」という意味の「σκανδαλον」(スカンダロン)という言葉が存在する。英語の「scandal」(スキャンダル)の語源となったものである。
現代ギリシャ語の「σκανδαλος」(スカンダロス)という形の言葉は「不祥事」という意味として頻繁に使われる。
例えば、政治や芸能界での「不正行為」「不道徳な行動」に対して「σκανδαλος」(スカンダロス)という表現が使われる。
しかしながら、「σκανδαλος」(スカンダロス)という言葉は、新約聖書に登場せず、「σκανδαλον」(スカンダロン)の形で使われていることを覚えておきたい。
さて「σκανδαλον」(スカンダロン)は他に「信仰の挫折を起こすもの」「人を、不快にさせて憤激させるもの」という意味もある。
詳しい話はさておき、「躓き」とは何だろうか。
23節の「躓き」に「σκανδαλον」(スカンダロン)が使われているのだが、要するに「躓き」とは、キリストに躓き、キリストを愚かとして信じないことなのである。キリストは不信仰者にとって何と「信じる前に抵抗を引き起こす御方」であり「人々を不快にさせ怒らせる御方」なのである。
主は「信じたユダヤ人たち」に対して、キリスト殺しの罪という「躓き」を預言しておられたのである。何故なら、キリストを信じるならば自由になるが、拒絶するならば罪の奴隷として躓くしかないからだ。
ならば「躓き」の結末はどうなるのだろうか。即ち、迫害である。
次に「σκανδαλον」(スカンダロン)は「罠にかかる」という意味を持つが、他に「人を躓かせて罪に引き入れる要因」「信仰を阻害させる原因」という意味でも使われる。キリストは人々を躓かせる御方でなく、信じる者たちに「永遠のいのち」を与えて、罪から救うために来られた御方なのである。
だから、キリストを信じないで躓き倒れる人々は、自分自身の主体的な意志で「躓き」を選択してしまった故に、その責任も刈り取らねばならいのは至極当然である。
話を戻すと「σκανδαλον」(スカンダロン)の「罠にかかる」という意味は、キリストに対して使われず、あくまでも人々の関係の中で起きることを聖書は強調している。
⑴マタイの証言。
⑵ルカの証言。
キリストに対して躓き(σκανδαλον、スカンダロン)が起きるのは不可避だが、──何故なら誰もがキリストを信じて罪から救われると人間は言えないから──それにも関わらず、主は「躓きをもたらす者」は災いだと断言する。即ち、キリストを信じるか、拒絶するかは神の予知予定がある故に避けられないが、誰かが誰かを躓かせることはあり得ると注意しているのである。
言うまでもなく、キリストを信じる者同士で、罠をかけたり、信仰の挫折を起こしてはならないのである。
キリストにおいて私たちは、自分自身の「罠をかける」罪を直視し、悔い改めて、神に立ち返ろうではないか。