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キリストに対する信仰の挫折を引き起こすもの

新約聖書において「躓き」「罠にかかる」という意味の「σκανδαλον」(スカンダロン)という言葉が存在する。英語の「scandal」(スキャンダル)の語源となったものである。

現代ギリシャ語の「σκανδαλος」(スカンダロス)という形の言葉は「不祥事」という意味として頻繁に使われる。

例えば、政治や芸能界での「不正行為」「不道徳な行動」に対して「σκανδαλος」(スカンダロス)という表現が使われる。

しかしながら、「σκανδαλος」(スカンダロス)という言葉は、新約聖書に登場せず、「σκανδαλον」(スカンダロン)の形で使われていることを覚えておきたい。

さて「σκανδαλον」(スカンダロン)は他に「信仰の挫折を起こすもの」「人を、不快にさせて憤激させるもの」という意味もある。

詳しい話はさておき、「躓き」とは何だろうか。

"しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき(σκανδαλον、スカンダロン)、異邦人にとっては愚かなことですが、
ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。"
コリント人への手紙 第一 1章23~24節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

23節の「躓き」に「σκανδαλον」(スカンダロン)が使われているのだが、要するに「躓き」とは、キリストに躓き、キリストを愚かとして信じないことなのである。キリストは不信仰者にとって何と「信じる前に抵抗を引き起こす御方」であり「人々を不快にさせ怒らせる御方」なのである。

"イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。
あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。どうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」
イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。
わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはわたしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちに入っていないからです。
わたしは父のもとで見たことを話しています。あなたがたは、あなたがたの父から聞いたことを行っています。」"
ヨハネの福音書 8章31~38節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

主は「信じたユダヤ人たち」に対して、キリスト殺しの罪という「躓き」を預言しておられたのである。何故なら、キリストを信じるならば自由になるが、拒絶するならば罪の奴隷として躓くしかないからだ。

ならば「躓き」の結末はどうなるのだろうか。即ち、迫害である。

"すると彼らは、イエスに投げつけようと石を取った。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。"
ヨハネの福音書 8章59節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

次に「σκανδαλον」(スカンダロン)は「罠にかかる」という意味を持つが、他に「人を躓かせて罪に引き入れる要因」「信仰を阻害させる原因」という意味でも使われる。キリストは人々を躓かせる御方でなく、信じる者たちに「永遠のいのち」を与えて、罪から救うために来られた御方なのである。

"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。"
ヨハネの福音書 3章16~18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

だから、キリストを信じないで躓き倒れる人々は、自分自身の主体的な意志で「躓き」を選択してしまった故に、その責任も刈り取らねばならいのは至極当然である。

"思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。"
ガラテヤ人への手紙 6章7~8節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

話を戻すと「σκανδαλον」(スカンダロン)の「罠にかかる」という意味は、キリストに対して使われず、あくまでも人々の関係の中で起きることを聖書は強調している。

⑴マタイの証言。

"つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。"
マタイの福音書 18章7節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

⑵ルカの証言。

"イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。
あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」"
ルカの福音書 17章1~4節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

キリストに対して躓き(σκανδαλον、スカンダロン)が起きるのは不可避だが、──何故なら誰もがキリストを信じて罪から救われると人間は言えないから──それにも関わらず、主は「躓きをもたらす者」は災いだと断言する。即ち、キリストを信じるか、拒絶するかは神の予知予定がある故に避けられないが、誰かが誰かを躓かせることはあり得ると注意しているのである。

"兄弟たち、私はあなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに背いて、分裂とつまずき(σκανδαλον、スカンダロン)をもたらす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。彼らは、滑らかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましています。"
ローマ人への手紙 16章17~18節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

言うまでもなく、キリストを信じる者同士で、罠をかけたり、信仰の挫折を起こしてはならないのである。

キリストにおいて私たちは、自分自身の「罠をかける」罪を直視し、悔い改めて、神に立ち返ろうではないか。

"こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずき(σκανδαλον、スカンダロン)になるものを置くことはしないと決心しなさい。"
ローマ人への手紙 14章13節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

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