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説教と聖餐式の楕円

竪琴音色キリスト教会において、礼拝はどのような位置付けでしょうか?

キリスト者最高の特権、それが礼拝です。

そして、私たちの礼拝には義務と慣例としての献金を捧げるのでなく、自分自身を捧げます。

[ローマ人への手紙 12:1]

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号

次に、神に対する礼拝は説教と聖餐式という二つの中心点を持つ楕円であるという認識は大切です。

①説教
聖書から説教者が説教という手段を通して福音を徹底的に語ること(信仰者は神の言葉を自分自身に適用して聴き続けること)

②聖餐式
毎週の主日礼拝に限らず、説教が語られる場ではどこにおいても、聖餐式には常に与ること、──これこそ、私たちの教会の信仰となります

[使徒の働き 2:42]

彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号
[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

諸教会間では礼拝観には違いがあり、コロナ禍というのは特殊状況と考えたり、逆に聖餐論を深く考え直す改革の機会とする考えもあります。

現場的には、

①リアルの礼拝を捧げる
②礼拝のライブ配信をする
③聖餐式を執行するor聖餐式を中断する

等々の措置が取られています。

では、私たちはどう考え、説教は配信しながら、聖餐式も継続するのか、中断するのか?

結論から言うと、説教のライブ配信(リアルタイム放送)が有効ならば、あたりまえですが聖餐式も有効です。

聖餐式の有効性については以前、所属していた牧師会、及び、友人・知人の神学者たちとの討議と対話に基づく結論であって今更、変更するつもりは一切ありません。

但し、唯一の条件としてぶどうジュース(Welch)とパン(イースト菌がないもの、いのちのことば社のウェハースを推奨中)を毎週、私たちの礼拝に参加する方々には事前に準備することが求められます。

これは、キリスト者全員が聖餐奉仕者であるという「信徒の普遍的祭司性」(古くは万人祭司)を推し進めたものとなっています。

通常の教会では聖餐奉仕者は大抵、役員会の方々がすることが多いですが、私たちの教会の礼拝参加者は、信仰告白と受洗を経ていれば早速、聖餐奉仕者扱いとなり、説教と完全に同じ理由で聖餐式にも毎週、与っていただくことになります。

「主から受けたこと」に関しては、聖書と教会の定めることのため残念ながら、論議する余地はありません。

[コリント人への手紙 第一  11:23,24,25,26]

 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、
感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号
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11節の「受けた」は「παραλαμβάνω」(パララムバノー)で「人から受け継ぐ」という意味も含まれているから、使徒パウロは聖餐式を教会から受け継いでいることが理解できます。

他方、経済的な困窮や、家族からの迫害で聖餐式に用いるぶどうジュースとパンでさえ揃えられない方々が過去、たくさんいたのも事実です。

なので仕方ない場合は殆ど、礼拝者の方々から「揃えられないがどうすれば良いですか」という問い合わせが私にありました。

その時は、真摯に対応致したいと願っていますが通常、諸教会の礼拝の聖餐式で、

・A教会は3-4か月に1度
・B教会は1か月に1度
・C教会は毎週

サクラメントが執行されていたら「郷に入っては郷に従う」というのがあたりまえではないでしょうか?

説教は聴くが聖餐式は必要ない
説教は要らないから聖餐式には与る

上記の極端は「説教」と「聖餐式」は礼拝において「自己判断で引き裂いても良い」という共通性があります。

これは礼拝秩序の破壊に至る可能性があります。

聖餐式に与ることが可能か否かは教会が聖霊によって決めることなのです。

尚、私たちは霊的なものを与え尽くすことができるよう努めていますが、物質的なものを捧げるか否かは礼拝者の自発性次第、即ち、自由です。

[使徒の働き 3:3,4,5,6]

彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

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