見出し画像

けちゃっぷ先輩

「人の言う正義とは、バターのことだ」

けちゃっぷ先輩が言うことはいつも正しい。
バター。香り高き油脂。オムライスも、ナポリタンも、バターを使うだけでお店の味。ということは、この世の有象無象もバターで炒めてあげれば、お店の味になるかもしれませんね。

「その通り。だから僕は、この世をバターで炒めてあげる、救世主にならないといけないのさ。世界を丸ごと、お店の味にしてやる」

けちゃっぷ先輩がそう言うなら、そうなんだろう。そんな重役を担ってしまって、けちゃっぷ先輩は可哀想だ。
けちゃっぷ先輩の言うことはいつも正しい。ということは、けちゃっぷ先輩はいつも、ぜんぶ、知っている。だというのに、けちゃっぷ先輩は弱い。
時々、掠れて響かなかったピアニッシモみたいになる。

「『男を見る目ってどうすれば養えますか?』
ん〜そうね!あたしがいつも、男と付き合う時に意識してる点を教えてあげる。それはね、情緒が安定してるかどうか。ここすっごく大事よ。情緒不安定なのはダメ男の最大の共通項。情緒が安定してない男つかまえて、今日はすごいイライラしてるな、あっ今日は優しくて大好きな彼くんだ、とかやってたら、あんたがすり減っちゃうから。ね?」

ミリンねえさんはそう言ってたけど、けちゃっぷ先輩は、最強な時と最弱な時とでぶれぶれだ。
でも、最弱な時は私の目の前からいなくなる。
最強になった時、戻ってくる。
こんなけちゃっぷ先輩は、良い男なんだろうか。

けちゃっぷ先輩は、引越しのバイトを始めた。

「この作戦はまだ誰にも話したことない……ああ、近所のハトにはしゃべったかな……あれは……ハム吉だったかハブ助だったか……とにかく、引越しのバイトをするだろう。それで運ぶもの全てにちょっとずつバターを塗ってくんだよ。これで世界はバターの香りさ」

けちゃっぷ先輩は、やっぱり天才だ。

「あの人ね、馬鹿だよ。天才のふりがうまいだけで。考えてることもやってることも、一応高尚な正義感に則ってるだけで」

けちゃっぷ先輩のことをずっと前から知っているマヨルさんが私にそう言ったのは、たしか、マトリョシカだらけのジャズバーだった。目をつぶったままマトリョシカを元通りにできたら、バラライカが一杯無料になるか、店長が飼ってるリスのマッケンジーを触らせてもらえた。私はマッケンジーに触った。

愛は、対象への知識量によって、証明できるか?

羊水の中で、第一問を投げかけられて、そしてけちゃっぷ先輩に出会って、第二問が出された。

この人は、誰だ?

この人は、けちゃっぷ先輩。毎日引越しのバイトして、毎日家具にバターを塗っている。世界が毎日ちょっとずつ、バターになっていってる。
だけど私は、けちゃっぷ先輩が誰なのか、いまだに知らない。

けちゃっぷ先輩がけちゃっぷを垂れ流しながら私の目の前に現れたのは、渋谷のジュンク堂の幽霊の中でココアシガレットを噛みながら『世界大昆虫図鑑』を読んでいた時だった。ユスリカの幼虫の写真が大きく貼ってあるページを開いた時に現れたものだから、けちゃっぷ先輩とユスリカの幼虫が、ほぼ同じに見えた。

「バターを塗っていることがバレた」

いずれ、そうなる運命だったと思いますよ。

「どうせ塗るならなぜごま油にしなかったんだって、殴られた」

ごま油。香り高い油脂。……世の中、うまくいきませんね。

「まだ殴ってくるかもしれない。ほら。拳がここにある。怖いよ」

あ。
今のけちゃっぷ先輩は、最弱だ。
最弱なのに、私のところに来たんだ。

ということはこの場において最強なのは?

第三問が、聞こえる。

私だ。

「先輩。私、表にバイク停めてあります。あれで逃げましょう。バターをチンして溶かしてきてください。全速力でぶっ放すので、バターを振り撒きながら、夜の首都高を走りましょう」

けちゃっぷ先輩は良い返事をして、ジュンク堂の幽霊の中に落ちていたレンジで持っていたバターを全部チンして、ドロドロにした。

私とけちゃっぷ先輩は、夜の街を全部丸ごと炒めるみたいに、走った。
けちゃっぷ先輩が風に放り投げた溶かしバターは、芳醇な香りを放って空に消えていった。

第四問。けちゃっぷ先輩は、救世主になれるか?

「けちゃっぷ先輩」
何?
「いい男ですね」
……ふっふっふ。あははははははははははははははははははははははh!
「何が……そんなにおかしいんですか?」
だって……らっきょうが転がるんですもの!
「……けちゃっぷ先輩。私は、愛は、対象への知識量によってでは、証明できないと思います。だってけちゃっぷ先輩の全部を知ったところで、きっとこんなには、最強になれないから」
……。
「けちゃっぷ先輩。あなたは誰ですか?」
僕、アンパンマン!

これが正解なのかは、まだ少し、よくわからない。
でも世界がちょっとずつお店の味になっているんだから、私はこのまま、首都高がアラスカまで続いて、アザラシの肝臓を食べて即死できたら、もう。もう。

けちゃっぷ先輩と二人乗りのバイク。バター。灯。爆音。星。風。あっ!

もう、万々歳。
おばんざい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?