人生とは-母との思い出-

最近は、亡くなった家族たちが今まで以上に とても身近に感じられ、記憶の中で顔を思い浮かべながら、心静かに会話している。

父が亡くなった後は、母が我が家へ来る頻度は多少減ったが、自宅で父の位牌と向き合って会話していると思えば、『寂しいだろうけれど「元気を出してがんば」だよ。』と励ました。

     ★がんば=私流の表現で、普通は「頑張る」と表現
        するのだろうが、頑なに意地を張る必要はないの
        で力を抜いて「ただやる」という意味で、活字に
        する時もひらがなでやさ しく表現している。

それでも年のせいもあり、足腰の衰えは徐々にではあるが進んでいて、みんなで父の墓参りに行ったときには、兄が浅草にある菩提寺から千葉県内の大きな墓苑にお墓を移したため、たどり着くのも大変。ようやくお詣りしても母は駐車場まで歩いて戻れない。腕を組んで支えても足が前に出ない。背負うと言っても苑内は広くて、歌にもあるように
    ♪  行きはよいよい、帰りはこわい  ♪   状態。
さあ、どうする?どうしよう??困ったねぇ・・・と。

結局、父の時と同様、私の車椅子に母を乗せて駐車場まで運び、その後、もう一度お墓近くの木陰で待っている私を迎えに来ることに。これが最善の策となった。\(^o^) /

そして、車で母を自宅まで送ってもらい、姉や弟がこまめに実家に様子を見に行き世話をしてくれるようになった。
そして、とうとう入院。 

ベッドの上の母は、意外と元気そうでしっかりしていて「早く家に帰りたいよ。こんなところに寝かされてばかりじゃ生きている気がしないよ」と嘆いていた。確かに母の性格からしても耐えられないだろう・・・
そして、何度目かに見舞った時、母は病室を移されていて、身体も急に小さくなったようで背中を丸めていた。そして、「母さん、わかる? 」と声をかける私。夫もやさしく声をかけると少し元気が出たのか「うん、うん」と小さく返事をする。そして、私たちが帰る頃に天井を指さし、「あそこから誰かが顔を出して見ているよ。怖いよ。怖いよ。」と。
「分かった。大丈夫よ。」「誰ですか?そんなところから覗いて見てないでね。母さんを怖がらせないでくださいね。」
そして、「ほら、母さん。もう誰もいないでしょ?大丈夫だから安心してね。」「また来週来るから、それまで元気を出して待っててね・・・」と言って病室を出た。

しかし、そうは言ったものの帰りの車中では、看護師さんたちの対応からしても
『今日が生きて会える最後なのかもしれないね。来週はないと思う・・・。でも、私は覚悟を決めているから大丈夫。母さんもよくがんばったし、私の世話もよくしてくれたし。何よりも会長先生に教えてもらった「肉親血縁相克の因縁」はもう随分前から切れていることを実感しているものね。今ならいつ別れの時が来ても「因縁」を引きずることはないし、あなたにも苦労かけたけどありがとうね。・・・』等と会話。

突然口から出た因縁の話とは、
昔、会(当時は観音慈恵会)に相談に行った時に、師が因縁を見て下さり、「肉体障害の因縁」や「肉親血縁相克の因縁」等があるとのことで、因縁切りの行を勧めてくださった。宗教には関心を示さなかった私たちであったが、穏やかに分かりやすくお話をしてくださり、何の抵抗もなく入会(入行)手続きをさせていただいた。
いろいろな事情で修行が困難となり、数年後には退会させていただいたが、それで行が終わったと捉えたわけではなく、修行者仲間と離れ、厳しいひとり行の始まりと捉えていた。

肉親血縁相剋の因縁:
 肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気(生命力)を害ね合いって、分散していく因縁である。お互いを憎しみ合い、争う運命。酷い場合は殺しあうことにもなる[1]。なにをやっても、うまくいかない。不運と挫折の連続である。病気や、怪我、人にだまされるなどの、わけのわからない不幸や災難に見舞われる

母は継母に育てられたこともあってか、しつけも厳しく甘えられる家族がいなくて寂しかったようだ。それでも結婚し子供に恵まれ、何不自由なく幸せに暮らしていた。
そして、手先が器用な母は、子供たちの洋服をミシンがけで作ってくれたり、手編みのセーターやカーディガンなども着せてくれたりもした。

けれど、経済的に破綻し、一時的に一家離散の体験もし、誰もが家族の大切さ、有り難さを感じながら、貧しさとも向き合っていく中で心の葛藤が生じ始めたようだ。
私は何故かいつも母のそばにいて、使い走りをさせられていた。4,5歳の頃には紙にメモ書きしたものとお金を渡されて「お店屋さんに見せるんだよ」と言って、ひとり、とぼとぼと歩いて買物へ。時にはバスや電車を乗り継いで、母が内職で作った品を背負って納品に行かされたりと、何かと重宝な娘だったようだが、母の役に立てたことについては、よかったと思うだけで不満はなかった。
それでも母は内職収入では満足できず、保険会社で一軒一軒家庭を訪問して契約をとる外交員を始めた。当然子供たちは「鍵っ子」となり、家事は掃除・洗濯・調理等々ほとんど子供たちの仕事となり、身についていったのでほとんどできるようになっていき、特に不満はなかったが、時折、両親が大声で罵り合い、貶しあい。つかみ合っての夫婦喧嘩が始まると、子供としては大きな不安と悲しみで、「おとうちゃんもおかあちやんもけんかはやめてぇ。」と大声で泣きながら止めに入つたことも。
 
ある時、母がひとりお膳に肘をつき顔を覆って涙していた。
何があったのかは知らないが、『これでも母さんは母さんなりに一生懸命やっているのに誰も分かってくれない・・・』
初めて見る弱気な姿にどう接してよいかわからなかったが、「ああ、母(誰)にもひとに理解してもらえない辛さ・苦しみはあるんだ」と感じた。

それでも、高校時代は、電車通学なので時折母が指定した改札口付近で待ち合わせて「甘味処」の店へ連れていってくれたり、社会人になると「寿司屋」「天麩羅屋」「とんかつ屋」さん等々のカウンター席でご馳走してくれた。
これは母だけでなく、父や姉も時折誘ってくれた。
中でも姉が「美味しいもの、見つけたよ」と、吉祥寺のハモニカ横丁へ連れて行ってくれて、生まれて初めて食べた「焼き餃子」には感激した。これには思わず二人で目を見合わせてにっこり。 (⌒∇⌒)

そういうこともあって、今度は私が弟に「美味しい中華料理を会社でご馳走になったから、今度、あなたにもご馳走してあげるね。」と駅で待ち合わせ中華料理店へ。
弟は「ちょっと高そうな店だけど大丈夫?」と言いながらも嬉しそうで、会話も弾んだ。


しかし、「肉親血縁相克の因縁」。
これは何とも説明がつかないが確かにある。夫婦もそうだが母と姉。母と○○というように心が通い合わないもどかしさ、苦しみがあった。波長が合わない、

周波数が合わなければ雑音となるようなもので、心身ともの健康状態に影響する。

そして、行をする中で徐々に薄れていった。
だから何があっても大丈夫。
ただ2つ違いの姉とは嫁ぎ先の因縁が大いに影響しているせいか疎遠になっていく。それも良しである。

やさしい母の姿、父や兄、姉・・・
あちらの世界では、みんな仲良くにこにこしているのが観じられ感謝である。

                                                     ーーーーつづ くーーー

私を生かし活かしてくださりありがとうございます。
感謝、感謝申し上げます。


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