人生とは-誘導されていく?-

狐につままれる?

さて、特訓から帰ってほっとしたのも束の間で、翌日には天仕と称する係の者から電話が入ったり、天声に沿って天納金を納めるよう指導される。
かなり高額だったが、振り込みが確認されると「家の中心」と称する掛け軸が届く。開けてみると「南無天法地源如来行」と書かれていて、立派に見えた。これを家のどこかにかけて「七観行」を毎日唱えることになるが、とにかく文字数からしても長すぎて敷居にかけても様にならない。
この掛け軸を見ても、まだこれが宗教(団体)とは思わなかった。何故ならご縁ができたのは出版社であり、指導者はテレビで話題の足裏博士であり、渋谷の本部も外見はただのビルで出版社であったからだ。

そうこうしているうちに、我が家は引っ越しの予定もあり、準備に忙しくそのままにしていた。何か新しい時代の始まりにも感じられた。

そして。更に「天声」が下りてくる。

イベントも両国国技館で行われたり、そこに前出の俳優があいさつに立ったりで、華やかな演出に心も和んでいった。
新富士の本拠地でのお祭りでも、何人かの演歌歌手が出演したり、何をするにも有名人が花を添える。(有名人が参加するだけでも信頼度が増す効果があるようだ)
また、行くたびに
いつの間にか本堂二階には「空海の間」ができていたり、温泉を掘って「温行館」なるものができていたり・・・と、まだまだ施設は開発途中で、すべてが完成したらどれほど立派になるかと。しかし、やはり「天声」=「天納金」で成り立っている組織は、どこまで行っても天の名を借りて金、金、金とお金を要求してくる。72時間行とも言った。
そして組織に取り込んで支部制度を作り上げ、更に更に拡大を図ろうとする。(みんな大変だったが必死にがんばっていた。それは決してお金の為ではなかったはず)

ある時私は天仕に言った。
初めて特訓を受けるときは「覚悟」を見せるために「観いの定め」は良いと思う。けれど何かあるたびに「肚をくくれ」とか「天が観ている」とかいうけれど、本物の天ならば、人を試したりしないのではないか?お金を納めたらその人を信じるっておかしいでょう?
みんな、必死になって借金をしたりして、なんとか天納しているけれど、あまり追い詰めないようにしないとね。あなたたちは「天声だから、天声だから」と天の所為にして人の傷みを感じないなんて・・・おかしいですよね?

――
そして、
もっと謙虚にならないと、「頭を取れ」「頭を取れ」「頭付きが」とか言っているあなたたちの方か頭がついているのでは?
と心の中でつぶやいていた。

それでも、まだまだ人とのつながりや使命感もあって縁は切れなかった。・・・

そして、頭を取るということが、間違いでないのは今でも決して否定はしないし、とらない限りは観自在には程遠いと思ってはいるが、天の名を借りてやるものではなく、高額なお金で買うものでもないし、買えるはずもないのである。

                                                        ーーーーつづくーーー


私を生かし活かしてくだりありがとうございます。
感謝、感謝申し上げます。

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