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『ダッド・マン・キャット』 コーデュロイ


 1990年代。社会人になり学生の頃と比べ、音楽をじっくり聴く事を逸していた時期があった。
通勤時の車の中では日々の仕事に追われ、好きなCDやテープに耳を傾けることもなく、少しでも情報収集のためにラジオを流しっぱなし。それもAM放送。
 新譜を追いかける力もなく、帰宅時には夜遅くの車内で「ラジオ深夜便」を聴く日々。
NHKのラジオからは古い郷愁のサウンドのオンパレードで、それが妙になじんでしまったり・・・。それは、目まぐるしく変わる当時の音楽地図に対応できなかったこともあるかもしれない。
そんなモヤモヤした中、それではいかんだろう、ということでAM放送をFM放送に変えて、新しい何かを求めていたその時・・・。
そんな時期にふと入ってきたのがアシッドジャズだった。
 アシッドジャズとは簡単に言うと「踊れるジャズ」。ムーディーなジャズではなく、ノリの良いお洒落なジャズ。例えれば渋谷の109(マルキュー)の店内でフルボリュームでかかっているような音楽。
 有名どころでは、ジャミロクワイやスウィング・アウト・シスター。特にスウィング・アウト・シスターの「Breakout」(1986)はその中心と言われた。
 元々は、ロンドンのクラブでDJのポール・マーフィーがジャズレコードのイベントを開催し、イギリス各地でイベントが広がっていく。またそれを機に音楽雑誌『Straight No Chaser』が頻繁にイベントを取り上げ、そのアートワークなどもアシッドジャズの評価をあげることに貢献した。いわゆる、「カッコイイ」ということがキーだった。ちなみに「ACID JAZZ」の「ACID」は「酸」「酸っぱい」という意味や「辛辣」という意味もあるので、「辛辣」をロンドンのクールな賞賛として捉えればそれもまた「カッコイイ」だろう。そして、私がこのアシッドジャズに興味を抱いたのはジャミロクワイでもスウィング・アウト・シスターでもなく、名も知らぬヴォーカルの無いバンド。

 出会いは、強力なグルーヴのインストゥルメンタルが突然FMラジオから飛び込んできたところから始まった。楽器の心得がある人なら、一緒に合わせてみたいと思わせるような気持の良いビート。私はその音にノックアウトされ、そのままCDを買いに行った記憶がある。コーデュロイの『ダッド・マン・キャット』(1992)である。

 1990年代に1960年代のモッズフィーリングを活かし、ノリの良いビートを奏でていたコーデュロイ。とにかくサウンドメイクが素晴らしく、リードギターのようにうねるベースラインと16ビートカッティングのギター。清々しいまでのピアノ。タイトなドラムの4人のミュージシャンがそれぞれの特長を誇示しながらグイグイと迫って来る。
 1990年代にモッズ・スピリッツを合わせ持つサウンドは、どこか郷愁の匂いもしたが、ダンスミュージックとしても成立しており、ジャズとファンクの融合という表現を良くされていた。しかし、どちらかというとネオサイケという光も見えてくる。
 発表当時、日本では小山田圭吾が主宰するトラットリアレーベルからリリースされており(ポリスターレコード)、内側スリーブにはオリジナル・ラブの田島貴男が寄稿していたことからも渋谷系のような見方をされたこともあったようだ。しかし、そこはモッズ(モダーンズ)を地で行くサウンドが当時の先端の音楽に揶揄されても仕方がないことで、60年代のブリティッシュサウンドをフォーマットにしたビートはリバイバルと共にニューウェーブにも早変わりするものだということを知らされただけだった。

 ディスコにしか行ったことがない私がクラブミュージックを語るのはあまりにも馬鹿げているので、彼らの活動や生き方などに触れることはしないが(できない)、とにかくそのサウンドに参ってしまって、未だに部屋の片づけ時や車の運転中など生活の中の音として成立している。

 当時急激に流行したアシッドジャズ。ロニー・ジョーダンの「アンティダウト」(1992)はその最先端のミュージシャンとしてテレビやラジオがこぞってこのアルバムから音源を採用していた。そんなことだから、日本のお茶の間の音が妙に渋くなったものだった。交通情報やお天気レポートに打ち込みと低音の効いたベースラインが躍り、太陽が燦燦と輝く中、交通情報から流れる渋いサウンド。違和感ありありだが、それだけ流行していたということだ。
そして、いつの間にかアシッドジャズのブームは去り、それぞれミュージシャンが消えていく中で、コーデュロイは結成と再結成を繰り返し、未だに活動中だった。
https://www.acidjazz.co.uk/portfolio-item/corduroy/

2020年9月7日
花形

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