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『アンソロジー』 デュアン・オールマン


 アメリカにはスタジオの音が明確にあるようだ。マイアミのクライテリア・スタジオやニューヨークのザ・パワーステーション(現アバター・スタジオ)、ロスアンゼルスのA&Mスタジオ(現ヘンソン・レコーディング・スタジオ)などそれぞれの音色があるという。そして、そのスタジオにはその場所を中心にプレイするスタジオミュージシャンがいるところもあり、そのスタジオの音色というものを大きく形成している。
 アラバマ州シェフィールドで1968年から1979年まで稼動したマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオは、南部のアーシーなサウンドが特徴だ。
「マッスル・ショールズ・サウンド」という言葉まで出来上がっているが、これはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオが出来る前にその近隣にフェイム・スタジオがあり、ここから白人黒人のミュージシャン問わず、ヒットソングを量産していたため、そのスタジオに詰めていた4人のミュージシャンが注目されたところから始まる。
ジミー・ジョンソン(ギター)、バリー・ベケット(ピアノ)、デビッド・フッド(ベース)、ロジャー・ホーキンス(ドラムス)の4人の音を求めて全国各地からミュージシャンが集まったのだ。
名プロデューサーのトム・ダウトの勧めもありその4人は独立し、近隣のマッスル・ショールズ・スタジオを買い取り、その場所に行けばその4人の音が提供されるという「スタジオの音」を実現させたのだ。

 ロッド・スチュアートは名盤『アトランティック・クロッシング』(1975)をこのスタジオで制作しているが、前作の『スマイラー』(1974)までのロッドはフェイセズの活動も行ないながらのアルバム発表であり、レコーディングメンバーもフェイセズの人脈でほとんどがイギリス人であった。しかし、フェイセズを解散し、レコード会社もワーナー・ブラザースに移籍。彼が心機一転を図る上でも本場アメリカ南部のスタジオを選ぶことは自然の流れだったのだろう。イギリス人であるが、アメリカのリズム&ブルースを好む当時のミュージシャンはみんなアメリカ南部サウンドに魅了されたのだ。
 ザ・ローリングストーンズも『ベガーズ・バンケット』(1968)からアメリカ南部音楽への影響が作品に出始め、『レット・イット・ブリード』(1969)まではロンドンのオリンピックスタジオでレコーディングされていたが、本場の音を求めてか『スティッキー・フィンガーズ』(1971)ではマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオもレコーディングの場所となっている。
 日本でも加藤和彦は、サディスティック・ミカ・バンド解散後すぐに新たなパートナー安井かずみを連れマッスル・ショールズでレコーディングを行なっている。『それから先のことは』(1976)は、「シンガプーラ」のようなオリエンタルな作風も多い作品だが、アーシーなサウンドとの融合で新たな波を感じ取りたかったのかもしれない。

 マッスル・ショールズ・スタジオのミュージシャンとしても活躍したデュアン・オールマン。言わずと知れたオールマン・ブラザースバンドのリーダーであり名ギタープレイヤーである。
「イン・ザ・ミッドナイトアワー」(1965)や「ダンス天国」(1966)のヒット曲で知られるウィルソン・ピケットのアルバム『ヘイ・ジュード』(1968)はマッスル・ショールズのスタジオミュージシャンになったばかりのデュアン・オールマンのアイデアによりレコーディングされたという。このアルバムのヒットからデュアンはひっぱりだこの売れっ子スタジオミュージシャンとなり、キング・カーティスやアレサ・フランクリン、ボズ・スキャッグスらと名盤を残していく。後のデラニー&ボニーとのレコーディングからだと推測されるが、その関わりからエリック・クラプトンと知り合うことになり名盤『いとしのレイラ』(1970)の制作に加わるようになることは想像に容易い。
そんなデュアン・オールマンのマッスル・ショールズ時代の音源も収録されている『アンソロジー』(1972)はオートバイ事故で亡くなり追悼の意味で発表された彼のレコーディング作品集である。

 このアルバムにはマッスル・ショールズでレコーディングされたソウル作品が多く収録されているので、スタジオの音が堪能できる2枚組である。そして稀有な天才ギタリストの短い生涯も同時に感じ取ることが出来る名盤である。

後に『アンソロジー2』(1974)も発表されたが、どちらもお薦め。


2018/10/17 花形

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