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『紀元貮阡年』 ザ・フォーク・クルセダーズ

 僕の中学の音楽の授業は今思うととてもユニークなものだった。1人に1台クラシックギターが与えられ、ギターを覚えさせられる。それはクラシック奏法ではなく、単純に和音を覚え、弾き語りができるように誰でもなれるようにするもので、半分遊びみたいなものだ。男子校の音楽の授業なので、1年中コーラスをやっているわけにはイカンだろうということかもしれない。しかし、ギターの弾き語りが音楽のテストなので、みんな必死で覚えた。作詞作曲を行ない、自作自演をするのだ。作曲ならコードを適当に並べて鼻歌交じりで作れるかもしれないが、作詞がきつかった。
 世はニューミュージックブーム真っ只中。中島みゆきやさだまさし、松山千春、長渕剛、オフコースなどが売れ始めた頃。クラスのみんなは適当にそれぞれのアーティストの有名な詞をつなぎ合わせて1曲にしたり、童謡みたいな何のひねりもない歌詞で真っ赤になりながら発表している者もいた。
 とにかく学校で堂々とギターが弾けるので、もともとギターを弾いていた人間にしてみたら、天国のような授業だった。
 僕はエレクトーンを習っていたし、ドラムは友達から教えてもらいながらやっていたので、ギターは正直辛かった。まず、チューニングが理解できなかった。5弦をAに合わせるといわれても、その意味が全然理解できなかった。

 僕が最初に弾けた歌は、ピート・シガーの「花はどこへ行ったの」だった。これは今でも歌える。そして「ドナドナ」「風に吹かれて」と続く。アメリカン・フォークソングが教科書にあったので、それが自然とレパートリーになっていったのだ。そのうち、フォークソングの歌本を誰かが持ってきて休み時間に歌い始めた。クラシックギターでは雰囲気が出ないということで、フォークギターを家から持ってくるものもいた。僕はそんな彼らを横目で見ながらドラムの練習と称して机を叩いていた。

 僕がギターを本格的に弾き始めたのは拓郎との出会いだった。『オンステージともだち』(1971)は語りも演奏も楽しく、ギター素人でも入りやすいアルバムだった。拓郎のギタースタイルは荒々しいストロークに尽きる。荒々しい歌とギターがシンクロし、男の叫びがある。
しかし、そんな歌ばかりを聴いていたので、ギターが一向に上手くならない気がした。
だから、拓郎がMCでよく加藤和彦の名前を出していた事を思い出し、ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)を聴いてみた。
 詞の世界、曲の奇抜さ、どれをとっても他のフォークシンガーとは一線を画していた。
 加藤和彦が大学時代に“メンズクラブ”という男性ファッション誌にバンド募集をしたところに集まったのがフォークルのメンバーである。ここからして他のバンドとは違う。
 3年ほど活動し、1967年に自主制作盤「帰ってきたヨッパライ」を録音。深夜番組で火がつき大ヒットしてしまったので、メンバーを変え、1年間限定のプロ活動を行なった。

  北山修    はしだのりひこ   加藤和彦

 特に加藤和彦の作曲センスは当時のフォーク歌手の中では抜きん出ていた。完全に洋楽指向で、バタ臭い。逆に端田宣彦は芸人でエンターテイメントに長けていた。
北山修は大人だ。音楽的にはあまりピンとこなかったが、後に精神科医になったことを聞き、納得した。
この事は、彼らがフォークルを解散しソロになってからの活動を見れば一目瞭然である。加藤はサディスティック・ミカ・バンドの結成やプロデュース業、端田はフォークバンドを渡り歩き、大ヒットを連発。北山は作詞家でヒットを飛ばし、医者としても大成している。

 フォークル唯一のスタジオ録音『紀元貮阡年』(1968)は、有名曲が目白押しのアルバムである。特にインディーズ発表した「イムジン河」が発売中止処分、放送禁止となり、この曲にこめられたメンバーの思いが「悲しくてやりきれない」を生んだ。
加藤は「イムジン河」の発禁処分に異を唱え、「イムジン河」の曲をさかさまからコードをつけて「悲しくてやりきれない」を作ったという。何というアイロニーだろう。反骨精神とも言える。

 そうか、この手があったか!僕は中学の音楽の時間の自作自演課題曲で、有名な曲を片っ端から逆に演奏していき、作曲をした。
 無難な曲が並ぶ中に僕の曲は、ストレンジな存在になった。先生は顔をしかめ、「予想もつかない展開だな。」とだけ言い、加えて「インストの方がいいんじゃないの?」とまでいった。
そりゃそうだ。“海の向こうに朝日がのぼる~う”の歌詞じゃあねぇ。

2005年12月14日
花形

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